森の影(2)(ルートヴィッヒ視点)
しばらくして、エーレンフロイト領の状況が王都に伝わって来た。侯爵は、女男爵と種痘の売買契約を結んだようだ。正確には、女男爵がヴァイスネーヴェルラントに権利を譲渡したので、ヴァイスネーヴェルラントとであるが。
ヴァイスネーヴェルラントは、種痘一つの値段を格安に設定したらしい。
その為、もしもヒンガリーラントが他国に種痘を売る場合でも格安で売らなければならなくなった。ヴァイスネーヴェルラントが種痘を安く売るのに、全く同じ物をヒンガリーラントが高くしたら誰もヒンガリーラントから買ってくれなくなるからだ。
13議会はエーレンフロイト侯爵への嫌がらせに熱中する余り、貴重な国家の財産である種痘を大安売りで売る羽目になってしまったのだ。
財政大臣であるディッセンドルフ公爵にとってこれは大変な失態である。公爵と仲の悪い貴族達はここぞとばかりにディッセンドルフ公爵を叩いている。そして僕も公爵をぶっ叩いている。
ディッセンドルフ公爵は卑怯な方法でエーレンフロイト侯爵を追い詰めようとしたのだから手加減してやる理由が無い。そして僕は弱っている相手をガンガン追い詰める事に罪悪感を感じる性格はしていない。僕はそんな性格をしている自分の事が嫌いじゃない。
だがその直後、再びブチ切れそうになる事が起こった。エーレンフロイト領に使いに行ったハインリヒ・フォン・ガルトゥーンダウムがエーレンフロイト侯爵とジークレヒトに殺されかけた、と言って二人を訴えたのだ。
ハインリヒ曰く、ダニだらけの不潔な部屋に押し込まれ、そのせいで発疹が出ると天然痘ではないかと言われて監禁され、焼き殺されかけたのだという。
大変な恐怖だったと、ハインリヒは涙ながらに父上と13議会に語ったのだそうだ。
「それが真実ならば正式な書類にし、手順を踏んで二人を訴えるように。今すぐに二人を王都へ召喚する事は叶わないが、王都へ戻って来たらきちんと事を正そう。」
と父上はハインリヒに言ったそうだ。
「父上!」
僕は再び父上の所に殴り込みをかけ、金切り声をあげた。
「あんな奴の言う事を信じておられるのですか⁉︎ハインリヒの言う事なんか嘘に決まっています。トゥアキスラント人の亡命者にさえ慈悲を施すエーレンフロイト侯爵が、同じ国の者を焼き殺そうとするわけないではありませんか⁉︎もしも本当に焼き殺そうとしたのだったら、ハインリヒがあり得ないような無礼を働いたに決まっています!」
「おまえが何を言っているのかわからない?ようするにおまえは、侯爵がハインリヒを焼き殺そうとしたと思っているのか?思っていないのか?」
「え・・と、つまり、ハインリヒが自分に都合の良いような嘘をついていると思っているんです。」
「証拠があるのか?ハインリヒが嘘をついているという。」
「あいつは嘘つきですよ!いつも嘘ばっかりついているんですから。」
「百万回嘘をつき続けた者は、もう絶対に本当の事を言わないのか?逆に一度も嘘をついた事のない者は、これからも永遠に嘘をつかないのか?人間がそういうものだと思っているのか?」
「父上はハインリヒの味方なんですか?ハインリヒは、ダニに刺された後も十日以上エーレンフロイト領にとどまっていたんですよ。本当に命の危機を感じたのだったら、速攻で逃げ出していたはずじゃないですか⁉︎」
「座りなさい。ルートヴィッヒ。お茶を淹れさせるから、それを飲んで少し落ち着きなさい。」
茶など飲んでいる気分ではなかったが、僕は仕方なく父に従った。
「ルートヴィッヒ。王族は、思い込みで物事を断じてはならない。『ハインリヒは嘘つきだ』『エーレンフロイト侯爵は人をダニだらけの部屋に閉じ込めたりしない』という思い込みをまず捨てなさい。そして、全ての思い込みを捨てた状態で話を聞くのだ。」
「・・・。」
「ハインリヒが訴えを起こしているのだから、まずハインリヒの話を聞きなさい。相手が好きだから、嫌いだから、度々嘘をつく人間だからという事だけを理由に耳を塞いではいけない。王族にとって何よりも恐ろしい事は、誰も何も言ってくれなくなる事なのだ。それはわかるか?」
「・・はい。」
「ハインリヒの話を聞いたら次はエーレンフロイト侯爵やヒルデブラント小侯爵の話を聞くのだ。娘を溺愛する侯爵がおまえを鬱陶しがっているからとか、小侯爵に剣の試合中香辛料をかけられたからという理由で耳を閉ざしてはならない。」
え?僕、エーレンフロイト侯爵に鬱陶しがられているのか?
「二人共、今エーレンフロイト領で大変な思いをしている。だから急いで王都に呼び戻す必要はない。ハインリヒも時間をおけば冷静になり自分が何かを勘違いしていたと気がつくかもしれない。逆に時間が経つと気がつかなかった事に気がついて怒りが増幅していくかもしれない。それも聞いてやればいい。ただし、後から『そんな事言ってない』とは言わせないよう、第三者と共に聞くか、書類にはっきり書き記させておくのだ。今はそれでいい。」
「つまり、父上はハインリヒの言い分を鵜呑みにしているわけではないのですね。」
「私は誰の話も鵜呑みにはしない。もしも頭から信じる事があるとすれば、それは『森影』の報告だけだ。」
「『森影』?」
「王室直属の情報機関だ。この度のハインリヒの一件も『森影』から報告は受けている。」
「えっ!」
思わず立ち上がってしまい、ソーサーの上のティーカップがガチャっといった。
「そうだったのですか。・・あの、その『森影』とやらがどんな報告をしたのか教えてもらうわけには。」
「別に良いぞ。『森影』には元々、シンフィレアの状況を探らせる為に医療ボランティアに紛れさせてシンフィレアへ行かせた。その流れでエーレンフロイト領に潜り込めたのだ。エーレンフロイト領は、領都の人口が少なく排他的で余所者が紛れ込みにくい土地だ。今までは調査しづらかったが、今回自然な形で入り込め詳しく調査できた。
その『森影』によると、ハインリヒをダニだらけの部屋に入れたのはヒルデブラント小侯爵らしい。エーレンフロイト侯爵は、領館の離れに泊まるよう言ったらしいが、ハインリヒが拒絶したそうだ。代わりに泊まった部屋からダニを追い払う努力を、わざとヒルデブラント小侯爵はしなかったようだ。ただ何かを『した』わけではなく『しなかった』だけだから、ハインリヒがダニに刺されたのは事件というよりむしろ不幸な事故だったと言える。」
「なっ!それなのにあいつ、あんなに大騒ぎしていたのか⁉︎」
「発疹だらけになったハインリヒを監禁したのは小侯爵だ。その折に、『部屋から逃げたら焼き殺す』とは言ったらしい。その後わざと医者の診察を遅らせ、ハインリヒを恐慌状態に落とし込んだようだ。ヒステリーを起こしたハインリヒが関係者を口汚く罵ったので、怒ったシュテルンベルク小伯爵が『燃やす』と脅したようだ。」
「なら、やっぱりハインリヒに責任があるんじゃないですか!」
「ハインリヒは嘘をついて、自分をこけにしたヒルデブラント小侯爵と、全く無関係のエーレンフロイト侯爵を陥れようとしているようだな。だが、この件はまだ黙っていなさい。ハインリヒが悔いて発言を改めるか、それとも更に嘘を吹聴するか、その嘘をろくに考えようともせず鵜呑みにする愚か者がどれくらいいるか、見定めておきたい。それに、ヒルデブラント小侯爵やシュテルンベルク小伯爵、エーレンフロイト侯爵が嘘をつかずに真実を語るか、自分に都合の良いように話を作り変えないかも聞いてみたい。時間を与えてやれば、愚かな者はより愚かに賢い者はより悪辣に行動するものだ。その上で決定するのでも遅くはない。」
父は、ハインリヒの味方ではないようだ。だけど、エーレンフロイト侯爵の味方でもない。
ジークレヒトの事はどうでも良いけれど、エーレンフロイト侯爵は無事で済むだろうかと僕は心配になった。
父は公平だが甘くはない人だ。
「情報を耳に入れる前から自分が信じたい事を信じ込んで大騒ぎする。それがおまえの欠点だな。」
と父は言った。本当の事なのでぐうの音もでない。
「冷静になり、時間を置いて思考をするくせをつけなさい。その訓練として、おまえに一人『森影』をつけよう。」
「えっ?」
「そこにいるか?」
と父は言った。
「はい。」
と声がし、後ろの柱から男が一人現れた。中肉中背の栗色の髪の男だ。黒い服を着て、顔の上半分を隠す仮面をつけている。
「『森影』の一人、グラウハーゼだ。」