シュテルンベルク家の9年の物語(5)(オイゲン視点)
お館は、ようやく平和になりました。
リヒャルト様にもエレオノーラ様にも笑顔が戻りました。
もちろん、それはパウリーネ様が戻って来られるまでの束の間の平穏でしたが。その平穏は、最低でも半年は続くと思っておりました。
しかし。
パウリーネ様は、一ヶ月ほどで戻って来られたのです。
「もう、すっかり良くなったわ。なのに、あんな重病人だらけの場所にいたらまたうつされるじゃない。部屋は狭いし、家具は安っぽいし、食事は口に合わないし、看護婦達は生意気でほんとに最悪な所だった。あんな所にこの私を入院させるなんて。」
パウリーネ様の侍女が持っていた、医師からの手紙によると、パウリーネ様はどうにもならない難渋患者だったようです。
本人が退院を強く希望している以上、こちらとしては引き止める事はできない。と書いてありました。
大量の薬を持って帰っておられましたが
「薬はもう飲まないわ。薬を飲むと逆に体調が悪くなるの。もしかしたら毒なのではないかしら。私付きになった看護婦本当に意地の悪い女だったもの。あいつらの無礼な態度、絶対に許せないわ。貴族を侮辱した罪で必ず厳しい罰を与えてやるから!」
「母上、結核は重病なのです。体を完全に治す為には、服薬を途中でやめては絶対になりません。今やめたら結核が必ずぶり返します。どうか、薬だけは絶対にやめないでください。」
「おまえも、私に毒を飲めと言うの!ああ、恐ろしい子。私がもう治ったと言っているのよ。自分の体の事は自分が一番わかっているの!」
リヒャルト様は医療省で、政務次官を務めておられる病気のプロフェッショナルです。
そのリヒャルト様が、服薬をやめてはならないと言うのなら、それが正しいはずです。
「仕方ないわよね。」
とエレオノーラ様は私に言われました。
「誰にだって、自分が受ける医療を自分で決める権利があるもの。」
パウリーネ様の容態が急変したのは、5日後の事でした。
髄膜炎を発症したのです。
それから、お亡くなりになるまで、あっという間の出来事でした。
アントニア様をはじめ、パウリーネ様の親族の方々は深く悲しまれましたが、お子様方はあっさりとしたものでした。
リヒャルト様も「できる事はしたから。」と言って、淡々と葬儀を取り仕切られました。
「エレン。今まで我慢してくれて本当にありがとう。」
と言ってリーリエ様はエレオノーラ様に頭を下げられました。末娘のマルガレーテ様は葬儀にお越しにはなりませんでした。
一ヶ月後、ペトロネラ様がお亡くなりになって以来、寝たり起きたりの生活をしておられた、パウリーネ様の妹君が亡くなられました。
アントニア様と兄のクルートー様は、静かに東館で生活を続けられました。
お館はとても静かに平和になりました。この家の執事として私は正直ほっとしました。
リヒャルト様もエレオノーラ様もコンラート様も、これからはきっと幸せになれる。そう信じたのです。
でも、その1年後。エレオノーラ様が急死されたのです。
あれは、10月の終わり。激しい雷雨の日でした。
その日、何人かの友人を招いて、シュテルンベルク邸では晩餐会が開かれていました。
その数ヶ月前、エレオノーラ様は悲劇的な事故で一番の親友を亡くされました。それ以来、沈み込む事が増えたエレオノーラ様を励まされる為、ご友人方が集まってくださったのです。その中にはもちろん、エーレンフロイトご夫婦もいらっしゃいました。
夕方は曇りだったのに、食事の間に雷が鳴り出しリヒャルト様は皆に泊まって行くよう勧められました。雷が鳴る中、馬車を走らせる事は危険だからです。
男性達はカードゲームを始められて夜更かしし、女性達はそれぞれの寝室へ戻られました。
エレオノーラ様の侍女が言うには、エレオノーラ様が部屋に戻ると机の上にアルベルティーナ様からの手紙があったそうです。
『一人で読んでね』
というメモが添えられていたそうで
「どうしたのかしら?秘密の相談かな?」
とエレオノーラ様は、笑顔で侍女に言い、侍女を下がらせました。侍女は暖炉の火の状態を確認して部屋を出たそうです。
翌日。いつものように侍女がエレオノーラ様の部屋を訪ねました。その時、廊下を歩いていた数人の使用人が悲鳴のような声と人が倒れるような大きな音を聞きました。私を含めた使用人が駆けつけると、侍女がエレオノーラ様のベッドの横で失神していました。そしてベッドの中で、エレオノーラ様は亡くなっておられました。
あまりのショックに私も眩暈を起こし、膝をついてしまいました。まだ若く健康だったエレオノーラ様が、突然死なさるなど現実の事と思えませんでした。
リヒャルト様がすぐに駆けつけて来て、エレオノーラ様の体を抱き起こしながら大声でエレオノーラ様の名を呼ばれました。泊まられたお客様も駆けつけて来て、何人かのご婦人が貧血を起こして倒れてしまいました。騒ぎが東館まで届いたらしく、アントニア様とクルートー様も駆けつけて来られました。
館中が大変な騒ぎとなりました。
医師がすぐに駆けつけて来ましたが、エレオノーラ様の正確な死因は分かりませんでした。
急性の心臓発作。それが医師の結論でした。
どこかを強打した気配も無く、窒息したわけでもなく、出血もしておらず、毒を飲んだ様子もありません。ただ、心臓が止まったのです。
それ以上の事は分かりませんでした。
部屋の様子にも何も変わった様子はありませんでした。誰かが侵入した跡もありません。
一つだけ奇妙な事だったのは、アルベルティーナ様からの手紙がどこにも無かった事です。暖炉で紙が燃やされた跡があったので、エレオノーラ様が燃やしてしまったのだと思いますが、友人からの大切な手紙を普通燃やすわけがありません。
もしかしたら、何かの秘密を書かれたアルベルティーナ様が、燃やして欲しいと頼んでいたのかもしれませんが。
私はさりげなく、手紙の話をアルベルティーナ様に聞いてみました。
「手紙?何の事?」
とアルベルティーナ様は首を傾げられました。本当に知らないのか、とぼけられただけなのか?今となっては分かりません。
しかし、まさか手紙の内容を見て衝撃のあまり心臓発作を起こしたわけではないでしょう。そうだったら、手紙は燃やされずに床に落ちるかどうかしていたはずです。
どちらにしても、手紙などどうでもよい話です。重要なのは、リヒャルト様は愛する妻を、コンラート様は優しい母親を、そして私達は敬愛する女主人を失った。ただ、それだけです。
館は深い悲しみに包まれました。
そんな中、社交界では酷い噂が流れました。エレオノーラ様が自殺されたというのです。自殺の原因は、エレオノーラ様と数ヶ月前に亡くなられた親友のジークリンデ様が実は恋人同士で、二人はそれぞれの配偶者と偽装結婚をしていたに過ぎず、エレオノーラ様はジークリンデ様の後を追ったというものでした。酷い中傷です。エレオノーラ様は、リヒャルト様とコンラート様を深く愛しておられました。偽装結婚だったはずも、二人を残して自殺されるわけもありません!
あれほど常に喧騒に包まれていた屋敷は静まり返ってしまいました。
エレオノーラ様がお亡くなりになって以来、リヒャルト様とコンラート様の関係もギクシャクとしたものになり、顔を合わせてもほとんど会話をされる事はありませんでした。
独り身になられたリヒャルト様には、降るように縁談が舞い込んできました。
しかし、リヒャルト様はその全てを断られました。リヒャルト様はまだお若く、新しい奥様を迎えられればきっと子供が生まれるでしょう。その子が男子だったなら、必ず後継者を巡って騒動が起こります。なので、結婚はしないのだ、と言われました。
しかし、私にだけ、リヒャルト様は本当の気持ちをお話しくださいました。
「子供を持つのが怖いんだ。」
とリヒャルト様は言われました。
「子供が生まれたら、その子が可愛くてコンラートを疎んじてしまうようになるかもしれない。逆に、全く情が湧かず、コンラートと同じように接してやる事ができないかもしれない。それが恐ろしいんだ。私は、母のようになりたくない。お気に入りの子供だけを可愛がり、そうでない子を無視するような親にだけはなりたくない。でも、私もそういう親になるかもしれない。それが恐ろしいんだ。」
それから遠い目をして言われました。
「思えば父上は立派だったな。兄妹全て、それとアルベルティーナに公平に接していた。子供の頃はそれが嫌だった。自分は一人息子なのだから、もっと特別に扱われるべきだと不満があった。でも、父上は正しかった。そして、私はきっと父上のようにはなれない。オイゲン。私は今でさえ、自分がコンラートを本当に愛しているかわからなくなる時があるんだ。そもそも、親が子供を愛するとはどういう事なのだろう?とわからない時があるんだ。」
パウリーネ様がリヒャルト様に注ぎ続けた毒が、今もリヒャルト様を苦しめているのだ、と思いました。
私の耳に入ってくるくらいですから、リヒャルト様もエレオノーラ様が自殺したという噂をきっとご存知でしょう。その噂にも苦しんでおられるのだと思います。
自分は本当の意味で、誰かに愛された事があったのか?
そして、自分は誰かを愛する事ができるのだろうか?と。
静まり返ったお屋敷の中で、私達使用人は一つの希望を持っておりました。
コンラート様には婚約者がいらっしゃいます。筆頭侯爵家、ヒルデブラント家の姫君です。
ヒルデブラント家は、初代宰相を輩出した歴史ある名家で、姫君であられるジークルーネ様は、母方から王家の血をも引いておられます。
そんな高貴な姫君とコンラート様が結婚し、後ろ盾になってくださったらコンラート様の後継者としての地位は盤石なものとなるでしょう。そうなれば、リヒャルト様も結婚できます。
コンラート様とジークルーネ様の間に子供が生まれれば、この館もまた昔のように笑顔の溢れる館になるでしょう。
しかし、その期待は打ち砕かれました。
ジークルーネ姫は、平民の男と恋に落ち出奔してしまったのです。
結婚した後でそんな事にならなくて良かった。そんな姫君と結婚せずにすんで良かったのだ。
そう思おうとしましたが、それでもやはりがっかりしました。
リヒャルト様は怒り狂われました。
もともと引きこもりがちなコンラート様は、ますます社交界から遠ざかり、ますます無口で笑わなくなられました。
この館事態が棺桶で、エレオノーラ様が亡くなられた時に蓋が閉じられてしまったのだ。とそんな気持ちさえするほどでした。




