蒸気船の功罪
「リュウコウセージカセンエンって、何ですか?」
とコルネに質問された。
「流行性とは、伝染病って事。人から人にうつる病気って意味よ。耳下腺炎は耳の下の辺りが炎症を起こして腫れあがるの。つまり、ブルーダーシュタットの街で、たくさんの人が耳の下が腫れるうえものすごい高熱が出る病気になってしまっているのよ。」
「なったら死んじゃうんですか?」
「死ぬ人もいる。かなりの高熱が出るらしいからね。まあ、ペストやコレラほど死亡率が高いわけじゃないけれど。でも・・。」
「でも?」
「流行性耳下腺炎は、難聴になる事もあるの。耳が聞こえにくくなったり、全然聞こえなくなったりしてしまうのよ。それに、かなりの高確率で卵巣炎や精巣炎を引き起こすのよ。」
流行性耳下腺炎。日本ではおたふく風邪と呼ばれていた。おたふくみたいな顔になってしまうからだが、現代の日本人で『お多福』を知っている人ってどのくらいいるのだろうか?それに、おたふくのように頬が腫れるわけでなく、むしろ腫れるのは首である。
「ランソーって何ですか?」
とコルネに質問された。
「女性にだけある、お腹の中にある内臓よ。」
「へー、女性にだけある内臓ってのがあるんですか?」
「卵巣で赤ちゃんができて、子宮で赤ちゃんが育つの。だから、女性だけが妊娠してお腹が大きくなるのよ。」
「そうなんですか。じゃあセイソーって何ですか?」
「男性にだけある、体の外にある臓物よ。」
・・嘘はつけないからな。
「ゾーモツって、内臓ですか⁉︎えっ!体の外にあるんですか!」
「体の『外』にあるから『内』臓ではない。」
「ええっ!どこに?お腹、それとも背中⁉︎」
コルネがびっくりしている。たぶん、今ものすごく大きい出べそのような、そういう何かが腹にくっついているのを想像しているのだろう。
ドロテーアがそっとコルネに近寄り、ヒソヒソと耳打ちした。
「ええー!アレって内臓なの⁉︎」
「だから内臓ではない。」
「ゴホン!」
とユーディットが咳払いをした。
「ユーディット、気持ちはわかるけれど大事な話だから。流行性耳下腺炎って、ものすごく高確率で卵巣炎と精巣炎を起こすの。そうなると痛いのは当然なんだけど、もっと恐ろしいのは不妊の原因になるの。」
「フニン?」
「赤ちゃんができない体になるの。」
「へー、そうなんですか。」
それが何か?というような顔をコルネはしている。
「コルネ。伝染病なんだよ。ものすごくうつりやすいんだよ。考えてみて。人口が百人の村がありました。五十人が男性で五十人が女性です。その村の全員が流行性耳下腺炎になりました。そして全員が卵巣炎と精巣炎になりました。二人亡くなり九十八人は命が助かりました。助かった人達は、命が助かって良かったと思いました。さあその村に誰も引っ越してこなかった場合、百年後その村の人口は何人になっているでしょう?」
「えーと・・あ、まさかのゼロ。」
「そうだよ。想像してみて。子供が一人も生まれてこない村で、村人が一人また一人と年をとって死んでいき、遂には自分が最後の一人になる世界を。死ぬまで一人ぼっちで、もし自分が死んでも誰もお墓を作ってはくれない。そんな世界を。」
「い・嫌です。そんな世界!自分が結婚してお母さんになるとか想像できないけど、でも自分が最後の一人とか嫌ですー。それくらいなら、ジカセンエンになった時みんなと一緒に死んだ方がマシですー!」
まあ、現実には全員が不妊になるわけではないし、地球では何度も流行したが、人類は滅びる事なく、むしろ着々と人口を増やしていた。
今回の流行が原因で、ブルーダーシュタットの街が百年後に地図から消えるという事はないとは思う。
それに、自分が村で暮らす最後の一人になったら、人のいる街に引っ越せば良いだけの話だ。
だが、流行性耳下腺炎が流行している事の、真の恐ろしさは将来の人口減少ではないのだ。
流行性耳下腺炎は、もともと北大陸にだけあった伝染病だ。他の大陸にはなかった。
なぜか?
流行性耳下腺炎の感染から発症までの潜伏期間が、2週間だったからだ。そして、北大陸から西大陸に船で行くのは2週間以上かかったのだ。
つまり。
北大陸で流行性耳下腺炎に感染した西大陸人は、必ず船の中で発症したのだ。
船の中で伝染病の症状が出た人は、海上検疫に引っかかり、西大陸に上陸できない。西大陸から500メートル離れた場所にある島の病院に、濃厚接触者共々放り込まれる。
そうする事によって、伝染病が西大陸に入り込まないようにしていたのである。
しかし近年、蒸気船が発明されると、北大陸西大陸間が、10日ほどで行き来できるようになった。その為、流行性耳下腺炎のように潜伏期間がやや長めの病気が、西大陸に侵入するようになってしまったのだ。
蒸気船の発明によって、便利になったのは確かだ。北大陸から様々な商品がよりたくさん、より早く、結果としてより安く届くようになった。しかしそれと同時に、西大陸人が免疫を持たない未知の病も入って来るようになる。その中で最も恐るべき伝染病は、流行性耳下腺炎と同じく、潜伏期間2週間の天然痘である。西大陸に天然痘が大流行する未来がいつか来るかもしれない。
という言葉で新聞の記事は締めくくられていた。
蒸気船かあ。
と私は、夕食の時間になってもずっと考えていた。
何で突然、天然痘が流行ったのだろうとずっと疑問だったけど、蒸気船が原因だったんだな。
もちろん蒸気船は素晴らしい発明だけどさ。だが、地球でも大航海時代に一部の地域で流行っていた風土病が他の地域に移動してしまうという悲劇が起きた。
結果、近代の地球では、アメリカで西ナイル熱が発生し、日本にエボラ出血熱患者が出て騒ぎになり、カンボジアで日本脳炎が流行するというカオスな世界になった。
知り合いの大学生が、カンボジアにボランティアに行くに当たって、狂犬病と日本脳炎のワクチンを打って来いと勧められたと聞いた時は耳を疑ったものだ。私はそれまで、日本脳炎は日本でだけ発生していると信じていたのだ。
ワクチンがあればなあ。と私はしみじみ思った。おたふく風邪のワクチンは地球にはあったもんな。
第一次世界大戦中アメリカ軍の間でおたふく風邪が大流行し、それがきっかけで第二次世界大戦でワクチン開発が進んだと、文子だった頃本で読んだ事がある。男性兵士達が【自主規制】が痛くて歩けないと訴えたのだそうだ。怖えよ、アメリカ軍!首とアレが腫れあがっている兵士は休ませてあげてくれよ!
ワクチンといえば、水疱瘡のワクチンは日本人が発明をしたのだそうだ。すごいよね、日本人も。
水疱瘡は、子供の頃に大概の子供がかかるたいしたことのない病気みたいに思われてるけど、妊婦がかかると母体死亡率がかなり高いのだそうだ。そのうえ水疱瘡ウイルスは体内に潜伏し免疫能が低下すると、皮膚に戻ってきて帯状疱疹になってしまう。その、帯状疱疹もなんと同じワクチンで予防できるらしい。そういうワクチンが作れる才能を持っている人に、異世界転移して来て欲しい。私のように毒にも薬にもならない人間ではなくて。
夕食の時、私の向かいのテーブルにユリアが座った。コルネはいつも私の左に座る。最近は誰も、空気の読めないリーシアさえ私達の近くに座らなくなった。変な磁力が働いて、皆ナチュラルに空間から叩き出されるれしい。正直夕食は、健康を維持する為に摂取する物なのに、食事が終わるといつも自分の残機数が減ったように感じる。
「ブルーダーシュタットで、流行性耳下腺炎が流行っているって、新聞に書いてあったんだ。」
と私はユリアに話しかけた。
「流行性耳下腺炎って何ですか?」
とユリアは言った。
「ユリア様、知らないんですか?とーっても怖い伝染病ですよ。」
自分だって知らなかったくせに、マウントをとるんじゃないコルネ。
流行性耳下腺炎は、何年もの間西大陸では発生しなかった病気だ。もしかしたら、今回史上初の上陸をしたのかもしれないくらいだ。たとえ博識のユリアでも、知らなくて当然だ。
「高い熱が出て、体のいろいろな所に炎症が起こる病気らしいよ。」
私はかなり症状を端折った。うら若き乙女達が集う食堂で、【自主規制】の話はさすがにできない。
「まあ、怖いですね。でも、いったいどこから伝染したのでしょう?」
ユリアがそう言ったので、私は新聞にのっていた話をした。ユリアの実家は蒸気船を持っている。ユリアは神妙な面持ちで話を聞いていた。
「特効薬とか、病気にかからなくなる薬とかがあったらいいのにね。」
と私は言った。ユリアが小首をかしげる。
「病気にかからなくなる薬ですか?」
「一度かかったら二度はならない病気ってあるじゃない。その特性を利用して、すごーく軽い状態の病気にして、二度とかからなくなるなるようにするみたいなさ。」
「ああ、細菌を弱毒化するって事ですね。」
・・なんか、今すごい専門用語出てきた。そういう用語を知っているって事は、すでにこの世界でそういう研究がされているって事?
そう考えた私に更に、驚きのワードをユリアは言ってきた。
「流行性耳下腺炎の事はよくわかりませんけれど、天然痘はそういう予防法ありますものね。確か『種痘』とかいう名前の。」
あるんかいっ!