美しい午後の日
私は悩んでいた。
コンラートと、コンラートの婚約者の件についてである。
私の記憶によると、コンラートの婚約者は、数年後にコンラートではない男の人と心中してしまうのだ。
大貴族の令嬢と、平民の男性が心中するというショッキングな事件は社交界のみならず、王都中の人々の注目を集め、その情報は王都内を1秒で7回り半駆け巡った。人々は死んだ令嬢の事を『悲恋の人』『薄幸の佳人』と呼び、その短い人生を勝手に空想しては勝手に盛り上がった。
納得できないのは、何の非も無いはずのコンラートの方に世間の風が冷たかった事である。
令嬢の方が勝手に浮気をして、勝手に死んだのに、世間の人々は令嬢とその恋人に同情して、令嬢が死んだのはコンラートの方に理由があったのでは、と邪推したのだ。
そうして『訳あり物件』扱いされたコンラートには、新しい婚約者が見つからず、コンラートの方も女性に対していろいろ拗らせてしまったのだろう。結局、コンラートは私が死ぬ時まで独身だった。
未来を知っている身としては、コンラートに「今のうちに別れておけ、そんな女。」と、すごく言いたい。
しかし、未来がわかる事を話すわけにはいかないし、いったいどういう風にコンラートに伝えたものか。
コンラートと婚約者が婚約解消できたら、婚約者と浮気相手が無事結婚できて心中しない、というなら人命救助の為にも事実をぶっちゃけてみようかという気にもなるが、相手が平民では、コンラートと別れても多分結婚はできないだろう。
嗚呼、どうしたもんか・・・。
悩んでいるせいで、今目の前にある本の内容がまるで頭に入ってこない。
そして悩んでいたせいで、人が近づいてくるのにさっぱり気がつかなかった。
「レベッカ嬢。美しい午後ですね。」
キャレルの中にいる私に、誰かが声をかけてきた。
日本人の感覚では、飲んでる番茶を鼻から吹きそうなこのくっさいセリフは、ヒンガリーラントでの貴族の挨拶の定型句だ。
午前中だったら「美しい朝ですね。」になるし、日没後だったら「美しい夜ですね。」と言う。たとえ、一寸先も見えないような濃霧の日でも、馬車につないだ馬も吹っ飛ぶ大嵐の日であっても。
顔を上げた私は息を飲み込んだ。目の前に立っていたのは、第二王子とフィリックス公子だった。
なぜ、ここに!
と、思うのもおかしいよね。今、私がいる場所は王宮図書館なのだ。つまり王子の御自宅の一部。私の方がお邪魔している余所者なのだ。
「美しい午後の日でございます。エーレンフロイトの娘が王国の第二王子殿下にご挨拶を申し上げます。」
私は慌てて立ち上がって、王子に挨拶した。過去世で、何回か言った事のあるセリフなのでかまずに言えた。
「楽にしてくれて構わないよ。本を読んでいたのだろう。」
と言って、王子は微笑んだ。過去には見た事もないようないい笑顔だ。
コンラートに会いに来たのかな、と思って私は周囲を見回した。だけど見える範囲にコンラートがいない。困った。
「ええと、コンラートお兄様はどこかにいるはずなのですが・・・。」
「ふうん、そう。」
と、なぜか王子は生返事。王子は私の方に身を乗り出してきて
「何の本を読んでいるんだい?」
と聞いてきた。
「発酵食品に関する本でございます。」
「発酵食品ってお酒とか?」
「いえ、ピクルスやザワークラウト、それに魚醤などの発酵調味料を紹介している本です。」
「発酵食品に興味があるの?」
「はい。領地では、連作障害を防ぐために畑に麦を植えた後は必ず豆を植えます。今のところ豆のほとんどは、家畜のエサとなっているのですが、もしも豆で発酵調味料が作れたら、収穫した豆が長く日持ちしますし、農民にとっては現金収入になります。」
というのは建前。
本音はお味噌と醤油がめちゃくちゃ食べたいから!
文子だった頃、友人にオリエント文明マニアな子がいた。
マニア熱が高じて、バイトしてせっせと金を貯め、夏休みに中東へ旅行に行った。
いい色に日焼けして戻って来た友人に私は
「何の料理が一番美味しかった?」
と聞いてみた。中東の料理なんて食材さえ見当がつかない。
どんな珍しい料理名が聞けるだろうかとワクワクしていたら、答えは
「最終日に泊まったホテルの朝ビュッフェで出た味噌汁。」
だった。そんな、すごい味噌汁だったのかと思ったら、日本の定食屋で出て来たら「金を返せ」と言いたくなるようなクオリティーだったらしい。
「えーと・・それは他の料理が、話にならないほどまずかったという事なのかな?」
「ううん。パンもチーズも果物もおいしかったよ。でもね、十日間も、日本食と無縁な生活をしていたらすごく日本の調味料が恋しくなって、そんな時に味噌汁が出てきて泣きたいくらい嬉しかったの。」
ちなみにその友人。日本に帰って来て一番にうどん屋に駆け込んだそうだ。
その話を聞いた時には「おまえはもう外国に行くな!」と、思ったが、今、骨の髄までその友人の気持ちがわかる。今、味噌汁が食卓に出て来たら、私はきっと泣き崩れる。
この世界のどこかに、醤油とお味噌を作っている国はないだろうかと、私は必死に探している。絶対に無い。という事はないと思う。なぜなら、今読んでいるこの本に、空豆で作った発酵調味料が紹介されているから。
「レベッカ嬢は、領民の事をよく考えているのだね。素晴らしいな。エーレンフロイト領の領民は幸福だね。」
「過分なお言葉でございます。全ては国王陛下と王子殿下の恩寵ゆえでございます。」
「難しい言葉をよく知っているものだ。親がよく仕込んでいるのだろうな。」
と、突然フィリックスに毒を吐かれた。もちろん、ここは身分制度の厳しい封建社会。口答えなんてしようものならとんでもない事になる。私は黙って頭を下げた。
「フィル、やめろよ。こんな小さな女の子に。」
と王子が従兄弟をたしなめる。そこに、小さく足音が聞こえてきて私は頭を上げた。安心して小さくため息をついた。コンラートが来てくれたのだ。手に本を一冊持っていた。
「コンラートも来ていたのだな。」
「美しい午後の日です。王子殿下にご挨拶申し上げます。」
と、定例の挨拶をして、コンラートは私の方に向き直った。
「ベッキーが今読んでいる本と同じ著者が書いた本で、チーズについて詳しく書いてある。発酵食品に興味があるなら、この本も興味あるのではないかと思って持ってきた。」
どうやら私と王子の会話が聞こえていたらしい。本を持ってきてくれたのはありがたいけど、王子様もいるんだし、私に気をつかってくれなくてもいいのだけど。
でも、せっかく気をつかってくれたんだし、人間界の礼儀としてお礼を言っておく。
「ありがとう、コンラートお兄様。この世界にも発酵させて作るチーズってあったんだね。」
「えっ?」
と、コンラートと王子に言われて失言したという事に気づく。『この世界にも』という発言はまずかった。
「あ・・えっと・・私の知っているチーズといったら、牛乳にレモン果汁を入れて濾した物の事で、あんまり日持ちしないから、発酵させて日持ちがするチーズも世の中にはあるんだなぁ、と思ったというかなんというか・・・。」
エーレンフロイト家の食卓には、レモン果汁で作るなんちゃってチーズしか出てこないので、レンネットと呼ばれる酵素を使って発酵させて作るチーズは存在しないのかと思っていた。でも、ちゃんと存在していたらしい。
「チーズも、いろいろな種類があるからな。材料になるミルクもヒンガリーラントでは牛や山羊がほとんどだが、外国では水牛やラクダのミルクを使ったりもする、とこの本に書いてあった。」
と、コンラートが言いながら本を渡してくる。その本をパラパラと私はめくった。
「チーズも、いいよねえ。余った牛乳でチーズを作ったら食品ロスにならないし。うちの領地は牧畜をやっている人があんまりいないのだけど、余った牛乳を日持ちさせられるなら、畜産業を始めやすくなるかも。そうしたら、領民の皆さんも今より気軽に牛乳やお肉が食べられるようになるし・・。」
「牛乳を長持ちさせるなら、コンデンスミルクを作るという方法もあるよ。他にもクロテッドクリームを作ったり。」
・・急に王子が口を出してきた。
「レベッカ嬢は、コンデンスミルクを食べた事があるかい?」
・・・。
文子だった頃にはある。夏にかき氷にかけて食べるのが好きだった。けど、レベッカの状態の時は
「ないです。」
「そうか。甘くて、とてもおいしいんだ。そうだ。今度、母上のお茶会に来たらいい。食べさせてあげるよ。」
「私ごときに、身に余るお言葉です。というか、殿下、身が余ってしまって・・。」
「そんな、固苦しい呼び方をしないでもいい。僕の事は名前で呼んでくれ。」
今私は絶体絶命の状態にある。
この人の名前をど忘れした!!!!
この人なんて名前だったっけ?過去世でも『殿下』としか呼んでいなかったので、マジで思い出せん!
まずい。ここで対応を間違えたら物理的に首が吹っ飛ぶ。なぜ、過去には1回も言わなかった事を急に言うんだ!
思い出せ。何としても思い出すのだ、自分。
確か『ラ行』の名前だったような気がする。そして、地球の有名な音楽家と同じ名前だったような。
モーツァルトはアマデウスだし、ショパンはフレデリックだし・・。
そうだっ!滝廉太郎‼︎
・・・うん。絶対に違うな。
「殿下、ベッキーはまだ、社交界デビューをしていませんし、幼すぎるので芳花妃殿下の前に出るのは難しいかと思います。」
とコンラートが言ってくれる。
「ならば、エーレンフロイト侯爵夫人と一緒に来ればいい。他にも年の近い子供達を呼ぼうか?僕の従姉妹に、レベッカ嬢と一歳違いの子がいるんだけどね。」
・・・知ってるともさ。過去にアナタの愛人と噂されてた人だよね。他にも大商人の娘と、外国の公女様が噂になっていた。
私を挟んで、あーだこーだ言っているコンラートと第二王子。
過去の記憶がなければ「イケメンが二人、私を巡って争っている。きゃっ。」と、とんまな勘違いをしたかもしれない。
でも、私は覚えている。この二人は私に、心の底から関心が無かった。
正直うるさい。ここは図書館なのだ。私語は慎んでほしい。
とにかく、どんなに頑張っても王子の名前が思い出せなかったので、私は日本人特有の曖昧な微笑みを浮かべてその場を誤魔化した。
ようやく帰ってくれた時には、心からほっとして、私は肺中の空気を溜息にして吐き出した。やっと、やっと聞ける。
「コンラートお兄様。聞きたい事があるのですけれど。」
「何?」
「第二王子殿下って、なんて名前でしたっけ?」
コンラートはポカンとした顔をした後「ぶはっ。」と吹き出した。この人が声を出して笑っているところを初めて見た。
王子の名前はルートヴィッヒだった。そうだった。ベートーベンと同じ名前だなって思ったんだったよね。
もう会いたくないなあ。いろいろ辛くなるから。
と思っていたんだけど、次の日も王子と顔を合わすハメになった。
そう、次の日が『例の事件』が起こった日だったから。
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