エーレンフロイト邸にて(1)(ルートヴィッヒ視点)
エーレンフロイト邸に着くと、庭で従姉妹のエリザベートがレベッカ姫の弟のヨーゼフや使用人達と菓子を焼いていた。
「あら、ルーイにフィル。ずいぶん早かったわね。」
「何をやっているんだ?」
「見ての通りお菓子を焼いているのよ。ルーイに食べさせてあげようと思って。」
香りはよくある普通の焼き菓子だが、見た目が衝撃だった。串に刺して焚き火で炙っている肉のような見た目で、長い棒に菓子の生地を垂らしながら、焚き火で焼き上げているのだ。菓子について詳しいわけではないが、菓子という物は、オーブンがなければ作れない物だと思っていた。こんな作り方もあるのか。さすが軍事の名門であるエーレンフロイト家は、珍しい野営料理を知っているのだなと感心した。
だけど、僕に食べさせてあげようと思っていた、って事は、エリーゼはエーレンフロイト家が僕が訪問するのを断って来た事を知らないのだろうか?
「レベッカ姫は館の中にいらっしゃるのかな?」
「たぶんいないわ。ジークから聞いていないの?」
「あいつの言う事は要領を得なくてね。というか、ジークが王宮に使いとして来た事は知っているんだな。僕が今日ここに来ないかもとは思わなかったのか?」
「あなたは来るでしょう、絶対に。」
・・まあ、確かに来てしまっているのだから反論できない。しかし、行動を先の先まで読まれているのは、あまり面白くない。
「何があったんだ?」
「さあ、何か用事があって急遽出て行ったみたいよ。」
「何か用事って何の?」
「書き置きはあったらしいのだけど、用件は書いてなかったみたい。」
「書き置きには何て書いてあったんだ?」
「『ビッグな女になって戻って来る』って。」
「・・・。」
正直、これ以上大人物になってどうするのだろう?と疑問が湧いた。
レベッカ姫は、人身売買されていた孤児院の子供達を救い出した王都の英雄だ。そのうえ、領地を根城にしていた凶悪な海賊を退治し、海辺の街々にも彼女の勇名は轟いている。何が彼女を更に追い立てているというのか?
「ところでジークは?」
とエリーゼに聞かれた。
「孤児院に用があるって言ってたぞ。」
「孤児院ねえ。ふーん。」
「ルートヴィッヒ殿下、フィリックス殿下!」
玄関のドアが開いて、エーレンフロイト侯爵夫人が中から慌てて出てきた。顔に「なぜ来たのだ?」という疑問が浮かびあがっている。
「やあ、侯爵夫人。美しい朝ですね。」
「は・はい。美しい朝でございます。その・・。」
「レベッカ姫の方に何か事情ができたとの事だったが、エリーゼやジークやコンラートにブルーダーシュタットの話が聞きたいと思って来てしまった。かまわないよな。」
そう言って笑顔で圧をかける。侯爵夫人は
「・・はい。どうぞ。」
と言った。
僕とフィルは応接室に通された。
侯爵夫人とエリーゼが一緒に入って来る。
「・・あのジークレヒト卿も、コンラートも今館にはいないのです。」
と夫人は言った。
「おや、ついに家へ戻ったのか?」
「家にも戻っているのかもしれませんけれど、その・・ちょっと。」
「そうかあ。」
「あの、殿下!」
突然侯爵夫人は頭を下げた。
「王子殿下がお越しになられる日に家を空けるなど、どうしようもない娘です。殿下のお怒りはごもっともでございます。弁解の余地は一言もございません。つきましては、あの愚かな娘との婚約は無かった事にして頂けたらと思います。王室の権威を蔑んだあの愚かな娘は、マイフェルベックの修道院にやってしまおうと思っております。」
それは困る!
彼女には、ブルーダーシュタットの有力者達との縁を取り持ってもらいたいと思っているのだ。今、婚約破棄とか絶対に困る。
だいたい別にそんなに怒ってはいない。
大貴族には大貴族なりの、のっぴきならない事情という物もあるだろう。いくら相手が王族でも不測の事態というものは、いくらでも起こり得るものだ。他の貴族にもっと失礼な目に遭わされた事も数々ある。
ただ、気になるのは、エーレンフロイト家はもともと、全くこの婚約に乗り気ではなかったという事だ。
エーレンフロイト家は王家との縁を無条件でありがたがるような家ではない。
そもそも、国王である父上には4人の妹がいて、父上はその中の誰かを今のエーレンフロイト侯爵と結婚させたがっていた。ところが、最初の婚約者との仲を王家に引き裂かれた侯爵は、王女の降嫁を固辞し、結局シュテルンベルク家の令嬢と結婚した。
シュテルンベルク家は伯爵家ながら、ヒンガリーラントの歴史を語る上で欠かせない名門中の名門である。その為、王家であっても、その結婚を阻止する事はできなかった。
そんなエーレンフロイト家に、2年前婚約を申し込んだ時、侯爵にはこう言われた。
「私共の娘も、王子殿下もまだ幼い身であられます。これからの人生でたくさんの人と出会いたくさんの経験を積み重ねていけば、心が変わるという事もあり得るでしょう。ですので、娘が社交界デビューをする年になった時、お心が変わっていないのであれば、その時改めて婚約を申し込んで頂けないでしょうか?」
2年前自分は14歳だった。正直『幼い』と言われるような年齢ではなかったと思う。だが、突然、女官長の嫌味に反論するような形で婚約を申し込んだ自分の誠意を信じてもらえないのは当たり前の事だ。
母と、母のお腹に宿っていた子供の命を救ってくれた姫君だ。自分の心は変わらない、と自信があったから、侯爵の提案を了承した。
だけどエーレンフロイト家としては、僕が心変わりをする事を期待していたのではないかと思う。
エーレンフロイト侯爵は、権力欲とは全く無縁の方だし、ローテンベルガー家の事で王家にわだかまりを持っている。
侯爵夫人の方は、友人の息子であるコンラートかジークレヒトのどちらかと姫君を結婚させたがっているようだ。
しかし、だからといって僕としても引き下がるわけにはいかない。
2年前、レベッカ姫に感じていた感情は、『感謝』と『同情』だった。
でも、今は『打算』がある。彼女は僕が王太子の地位を手に入れるのに欠かす事のできない人間だ。
正直『愛情』があるのかどうかは自分でもよくわからない。それが考えられる程、僕は彼女という人を知らないのだ。
でも僕は彼女の事を『尊敬』している。そして彼女を『必要』としている。だからこそ、引き下がれない。
「侯爵夫人。僕はレベッカ姫をとても大切に思っている。それに彼女が社交界デビューをするまでまだ2年ある。なので、もう少し僕達の事を見守って頂けないだろうか?」
「・・承知致しました。」
侯爵夫人は、声を絞り出すようにしてそう言った。
僕とエリーゼがブルーダーシュタットの話を始めると、侯爵夫人は応接室を出て行った。
入れ替わりに何人かの侍女達が入って来てお茶を入れてくれる。侍女の中に一人とても若い子がいた。僕よりも明らかに年下だった
その子に目がいったのは、若さよりも美しさゆえだった。美女揃いの王宮の侍女にも引けをとらない美少女だった。さらりと肩を流れる金色の髪は、巣から滴り落ちる蜂蜜のように艶があってどきっとした。
婚約者の家に来て美少女に見惚れるなど、節操が無い!などと思わないでほしい。花壇に美しい花が咲いていたり、晴れた夜に満天の星空を見上げたりした時にぼーっとしてしまうのと同じ、人間の本能みたいなものだ。
僕はそしてその子を見て、どちらかと言うと警戒してしまった。
エーレンフロイト侯爵夫人は、僕とレベッカ姫の婚約を破談にさせたがっている。僕が心変わりをするように、ハニートラップを仕掛けてきているのではあるまいか?
僕はむしろ余裕を見せようとして、美少女に微笑んでみた。
そしたら。
なんか、すごい軽蔑したような表情で睨まれたのだ。
なんで?
「ルーイ。フィル。あなた達も名前くらい聞いた事があるでしょう。この子が、アカデミーに入学して以来ずっと首席の、ユリアーナ・レーリヒよ。」
エリーゼがそう言って美少女を僕らに紹介した。
「君がレーリヒ君か?お父上は、ブルーダーシュタットの高名な商人らしいね。僕はブルーダーシュタットにはとても興味があるんだ。ブルーダーシュタットがどんな街なのか話を聞かせてもらえないかな?」
「別に普通の街です。」
美しい声は氷のように冷たかった。
「失礼します。」
と言って、ユリアーナという娘はさっさと出て行ってしまった。
エリーゼが笑いを噛み殺している。
「色目を使ってもダメよ、ルーイ。あなた嫌われてるから。」
「使ってねえ。って、なんでだよ⁉︎今日が初対面だろ?」
「あなたは、アカデミーのベッキー教信者に、蛇蝎のように嫌われているの。」
「何だよ、その宗教?」
「ベッキーはカリスマの典型よ。嫌いな人は嫌い。好きな人は狂おしいくらい彼女が好き。その両極端なの。そして彼女のことを好きな人達は、権力を振りかざして自分達からベッキーを奪おうとするあなたの事が大嫌いなの。」
「権力を振りかざして、って何だよ?それに、僕は別に結婚しても、妻の友人関係に文句なんてつけないぞ。」
「信者には、下級貴族や平民が多いの。王室の一員になってしまったら、今のように気楽に側にいて話しかける事はできなくなるわ。信者の願いは、ベッキーが結婚なんかしない事。もしもするなら、もっと身分の低い人と、できたら平民と結婚してくれる事。」
「何だよ、それ。悲しいなあ。僕はレベッカ姫の友人とも仲良くしたいのに。何とか、そのお友達に好かれる方法ってないかな?」
「それは、蛇にお手をさせるくらい不可能ね。」
そのレベルで無理なのかっ!
正直けっこうショックだった。自分で自分の事を愛嬌のあるタイプと思っていたのに。
「で、エリーゼはどっちなんだ。レベッカ姫の事、嫌いなのか?好きなのか?」
とフィルが聞いた。
「内緒。」
と言ってエリーゼは微笑んだ。