マルティナとデリクとレント(1)
「キャーッ!」
という悲鳴が聞こえてきて、私はその声がした方を振り返った。
「その男、ひったくりだよーっ!誰か捕まえて!」
恰幅の良い中年のおばさんが声を限りに叫んでいる。
指さされた男は、私から30メートルくらい離れた所にいて、しかもこっちの方向に走って来ていた。
「おい、待て!」
と言いつつ追いかけようとする人もいるが、もちろん犯人は待つ訳はない。犯人の進行方向にいる人達は、呆然としていたり、関わりたく無いとばかりに遠ざかっていったり様々だ。
犯人は小柄だが、それでも男だ。ラリアットをくらわせようものならこっちの方が吹っ飛ばされるかもしれない。見るからに頭の悪そうな奴だが、そういう奴に限って暴力に長けていたりするものである。私は手を出さない事にした。
その代わり。すぐ側にあったバゲットを手に取り、犯人が私の側を通り抜けようとした瞬間を狙って振り抜いてやった。
もちろん所詮はパンである。くにゃっと折れたり千切れたりするだろうけど、それで良い。犯人の走るスピードが少しでも落ちれば、追いかけて来ている人達が追いつくだろう。
と思ったのに。
バキィッ!
と、食品がたてるとも思えない音がした。まるで木のバットで殴られたかのように犯人が後方に吹っ飛ぶ。しかも顔を狙って振り抜いたせいで、三叉神経のある鼻の下に激突したようだ。帆布でできたカバンを抱えていた犯人は、大の字になって倒れ失神した。ちょっと!まさか死んでないよね!
「すげえ!」
と周囲から声がした。更に、湧き上がる拍手。いや、私が一番びっくりだよ!このバゲット、傷一つついてないよ。こんなパン食べられる人いるの⁉︎庶民の方々って歯が丈夫なのね!
「ごめんね、おじさん。このパン買い取るよ。」
と私はパン屋のおじさんに言ったが、つやつやした頭をしたおじさんは
「良いって事よ。すげえな嬢ちゃん。」
と言って、ニカっと笑った。追いかけていた男の人たちとカバンを取られたおばさんも駆けつけて来た。
「ああ、ありがとうね。助かったよ。えい、この野郎!」
と言って、失神している犯人に一回蹴りを入れる。それから、帆布でできたカバンを取り戻した。
「ほんと助かったよ。いろんな店にツケを払いに行くところだったから、珍しく財布が重くてね。カバンを盗まれてたら、うちの下宿人達の食事が1ヶ月麦粥だけになるところだった。いてて。」
「大変!おばさ・・いや、お姉さん、怪我してるじゃない。」
女性は手のひらをすりむいて、血が滲んでいた。それに、歩き方を見る感じ足首も痛めているようだ。
「早く病院で消毒してもらわないと」
なにせ自動車も自転車も無い世界。道を走っている車と言えば、馬車一択である。そしてお馬さんだって食べる物を食べれば出すモンを出す。ソレが乾燥してさらさらになって道端の砂と混ざり合うので、道路上の砂は『3秒ルール』も許されないほど不衛生なのだ。すり傷を放置しておけばどんな感染症にかかるかわかったものではない。
「思いっきり、コイツに突き飛ばされちまったからね。ああ、忌々しい。誰か巡回騎士を呼んできておくれ。」
と。おばさんが言うと
「もう、呼びに行ったよ。」
と通行人の1人が答えた。
気絶した男の見張りは周囲の男性に任せて、おばさんは傷の手当ての為自宅へ帰る事にしたようだ。家へ帰れば傷薬もあるらしい。
「怪我した手に包帯を巻くのも難儀だからね。お嬢ちゃん。うちまで一緒に来てくれないかい。急ぎの用事が無いのだったらお礼にお茶をご馳走するよ。」
「え⁉︎そんな、いいんですか?」
と言った瞬間、私の健康なお腹がグーッと音をたてた。マンガのようなタイミングに思わず赤面してしまう。
「うち、そこだからさ。」
と、言われた家はパン屋さんの真正面だった。
女性の家は、地球のヨーロッパでよく見かける、隣の家とピッタリ密着した4階建ての家、というかアパートだった。ドアを開けてすぐが応接室兼居間であり、吹き抜けになっていて階段がある。一階が居間や食堂台所など共用部分で、2階が女性と家族のスペース。3階と4階とついでに屋根裏部屋は下宿人を募集していて部屋を貸しているという。
「あたしの名前はマルティナだよ。マルテって呼んでおくれ。あんたの名前は?」
・・・。
一瞬悩んだ。
まさか、本名を名乗るわけにもいかない。かと言って適当な名前を名乗って、その名前をド忘れしたらシャレにならない。
絶対、忘れそうにない名前・・。
「文子です。」
と名乗った。ヒンガリーラントの人の感覚では珍しく、変な名前って思われるかな?と思ったけれど
「フミコかい。フミコって呼んでいいかい?それとも愛称があるのかい?」
とマルテは、普通に質問してくれた。
「フミコと呼んでください。」
「おおーい。マルテさん大丈夫だったかい⁉︎」
と言いつつ、男の人が1人3階から駆け降りて来た。栗色の髪と瞳の色をした30歳くらいの男性だ。精悍なようにも愛嬌があるようにも見える人好きのする顔立ちだが、長めの前髪やヨレっとした服装に自堕落なオーラをビシビシと感じない事もない。そもそも、この時間帯にご自宅にいる人は、学校の先生とか銀行員とかでは多分ない。
「大丈夫なんかじゃないよ!もうっ!」
「あー、決定的な瞬間見逃しちゃったよ。今日の朝方、取材から戻って来てようやくベッドに飛び込んだところにあの騒ぎでさ。窓から見た時は、男が往来で伸びてて『よくやった』と拍手喝采の最中でさ。嬢ちゃん、あんたがあの男やっつけたんだろ?どうやったんだ?ところで、あの男は何をやったんだ?食い逃げか?」
「あたしのカバンをひったくって逃げたんだよ!」
「あ、よく見たら怪我してるじゃないか。」
「今気づいたのかい?あんたは何を思って、さっき大丈夫か?って聞いたんだい?」
「いや、人間界の社交辞令として。まあ、マルテさんは殺しても死ぬタイプじゃないけど。」
「たく、本当に失礼な男だね!来週から、あんたの下宿代倍にしてやろうかね。」
「うわー、勘弁して。薬箱持って来るからさ。」
早口でポンポン会話が弾み、私の口を出す隙間が無い。
でも、なんかこういう雰囲気懐かしいなあ。庶民の日常って感じで、日本を思い出す。バイト先の店長も常連さん達も、あー言えばこー言う、って感じで、いつもふざけたり笑ったりだったもんね。
「あの男は、デリクって名前で、新聞記者なんてまともじゃない仕事をしている奴さ。なんか聞かれても無視していいよ。ほんと、男のくせにおしゃべりが好きなんだから。」
とマルテは言う。口調はキツイけど目は優しいけどね。どこの新聞社かと聞いたら、2年前の秋に『宇宙人発見』の記事をのせていた新聞社だった。うん。それは、まともじゃないね。
「マルテさん。怪我は大丈夫ですか?」
イケボ!
この世界で生きていて聞いた中で一番のイケボが聞こえて来たーっ!
脳髄に突き刺さるようにいい声だ!いったい、どちら様⁉︎
やっぱり30歳くらいの男の人が3階から階段を降りて来ている。長身で痩せ型の、デリクより更にデカダンな雰囲気を漂わせた人だ。赤褐色の髪に青緑色の瞳をしていて、肌が透けるように白い。この人は、音楽家とか、耽美派系小説家とかであって欲しい。職業は会社員です。とか言われたら「えっ?」となってしまう
「ああ、もうほんとにひどい目に遭ったよ。でもフミコのおかげで助かったけどね。」
「はい。偶然窓から見ていました。小鳥にパンくずをやりながらお茶を飲んでいたら、マルテさんの声が聞こえてきたので、逃げる男の上に鉢植えでも落としてやろうかと思っていたら、そちらのお嬢さんが一撃で仕留められたので・・。ところでマルテさん、そちらの方には敬称をつけた方がよろしいですよ。どう見ても貴族の方ですから。しかも、かなり上流の。」
美しい声で小鳥と戯れながら、物騒な事をしでかそうとしていたのね、でも、そんな様子も素敵。とか考えていた私は最後のセリフにギクッ!とした。
「な・なななな何を言っているんですか。私は由緒貧しい一般平民ですよ。」
「フミコが貴族?まあ、レントさんの『目』は信頼できるけれど、でも・・それはないんじゃないの?」
マルテの言葉に、ぶんぶんと私は赤ベコのように首を縦に振った。
「そう言うあなたの方が言葉使いといい、佇まいといい貴族のようですよ!」
「レントは貴族だよー。ま、元だけどね。」
薬箱を持って戻って来たデリクが私にそう言った。
「ひったくりを一撃で倒す武闘派女子が実は上級貴族とかだったら、記事にするのはサイコーだけど、でも上級貴族のオジョーサマはこんなとこ1人で歩かねえだろう。」
「そうだよ、こんな、小汚い下町をねえ。」
と言って、マルテもケラケラ笑い、
「デリク、食堂にあるパンこの子に持って来てあげて。お腹空いてるんだって。」
と言った。
「そうそう。てか、なんでわ・・あたしが貴族なんてそんな素っ頓狂な事考えたの?お兄さん。」
「言葉使いと佇まい。髪も肌も平民にしては綺麗すぎる。手も労働者の手じゃあない。」
「えー、やだあ綺麗なんて。単に人より丈夫なだけっすよー。とゆーか、私貴族に見えるんだー。そんなふうに言われて嬉しいかもー。」
「いやいや、貴族にゃやっぱ見えねえよ。確かによく手入れされてる髪とか見たら金持ちの子かなって気はするけど。着ている服も地味だけど質が良さそうだしな。俺が思うに学者か、金貸しの子だな。」
パンを皿にのせてきたデリクが言う。なぜその二択?
ちなみに今着ている服は、ブルーダーシュタットの朝市を回った時に着ていた服だ。平民に見えるような素朴な服をわざわざ買ったのである。
「・・この子の持っているカバン、シルクだぞ。それも、この辺りでは見ない品質だ。」
「いやいや、カエルのカバン持ってるお姫様とかいるわけねえじゃん。この柄で貴族はねえわ。」
レントとデリクが更に言う。
私は貴族に見えないよう、パンを千切らずそのままかじりついた。硬めのパンだが、先ほどのバゲットほどではない。
「もう、あんた達いい加減にしな。フミコに聞けばいいだけの事だろう。フミコ、あんた貴族なの?」
とマルテが言った。
「違う。」
「そうかい。なら、あたしはフミコを信じるよ。なんてたって、フミコはあたしの恩人だからね。」
信頼の言葉にものすごく良心が痛んだ。せめてものお詫び。私は心を込めて、薬を塗ったマルテさんの手のひらにきれいに包帯を巻いてあげた。
「でも、この辺りじゃ今まで見た事無い顔だよな。いったい、どこから来たんだ?」
とデリクに聞かれた。
「ブルーダーシュタット。」
広義においては、嘘ではない。半月前には確かにブルーダーシュタットにいたのだ。
「おお!ブルーダーシュタットっていやあ、アレだろ。『漆黒のサソリ団』事件。」
「正確に言うと、隣の領地ね。」
「でも、エーレンフロイト騎士団とか、見たのか?」
「見てないよ。一口にブルーダーシュタットって言っても大きな街なんだよ。」
「でも、すげえ事件だったよな。ブルーダーシュタットにいる同業者が羨ましいよ!新聞もちょっと前までは、貴族の姫様の事件と言えば、ヒルデブラント家のお姫様の話題ばっかだったけど、今はなんと言ってもエーレンフロイトのレベッカ姫様だもんな。とんでもねえ事をしてくれるお姫様は、俺らのメシのタネだから、ほんとありがたいぜ。」
こーゆー奴をパパラッチとか、イエロージャーナリストって言うんだろうな。一瞬事故を装って足を踏んでやろうかと思った。
ん?
なんか、このパパラッチ私の顔を凝視してない?
「あんた、もしかして・・・。」