一話 女騎士
「只今より、貴方様に私の全てをかけて忠誠を、お誓いいたします。」
私は跪き、己の主となった男に誓いの言葉を捧げた。今この瞬間を持って幼馴染の少年に恋する少女は死んだ。金木犀の花が地面にポツリと落ちた。
この世界には十二の国がある。アリエス、タウロス、ジェミニ、キャンサー、レオ、ヴァルゴ、ライブラ、スコーピオン、サジタリウス、カプリコーン、アクエリアス、パイシース。それぞれの国は独自の文化で発展していき、基本的には貿易など以外では不干渉を貫いている。それが、戦が起きないために約百年前に各国の代表が取り決めた約定だった。
「だが、それが今脅かされそうとしているのはお前たち二人も知っていることだろう。」
ヴァルゴの国の王であるセラフに私が騎士として仕える第一王子のハロルドと共に呼び出されたため業務を中断して王の間に控えるとセラフは玉座に座るなり、そう言った。
「隣国のライブラの国のことでしょうか、父上。」
「ああ、そうだ。我が国ヴァルゴに進攻しようとしている噂は耳が痛いほど聞こえてきているが、それについて少し面倒なことになってな。二人に頼みたいことがある。」
「それは、戦の準備をしろということですか?それにしては、随分と呼ぶ人数が少なくないでしょうか。」
ハロルドの少し後ろに控えている私はハロルドが疑問に思っていることと同様の疑問を持って心の中で首を捻る。この場にはセラフ、隠密のアンジェリカ、ハロルド、私というごく少数しかいない。戦の準備は確かに秘密裏に行う必要はあるものの、それは他国の人間や戦に関係のない自国の人間に知られないようにというものであり少なくとも各騎士団の団長やハロルドの兄弟である王子方は同席すべきだ。この人数では戦の準備もへったくれもあったものではない。まあ、ハロルドが後で各騎士団の団長やハロルドの兄弟である王子方に伝えれば良いだけの話ではあるが、そんな伝言ゲームみたいな効率の悪いことをセラフがするだろうか?自国の王様だからという贔屓目を抜きにしても破天荒さを湛えた紫の瞳が特徴の美しい顔立ちからは想像が出来ないほど効率を大切にする方である。
「いや、そうではない。アリシアが行方不明になった。アンジェリカに調査を頼んだところライブラの国の王と駆け落ちしたという情報まではつかめたんだが、ライブラの国のどこに二人が居るかまでは分からないらしい。つまりライブラの国の国王陛下も行方不明というわけだ。」
「は?」
口に出したハロルドとは違い声には出さないものの気持ちはハロルドと同じだし、何なら顔には驚愕ですと出てしまっているに違いない。青天の霹靂とはこういったことを言うのだろう。まさに晴れた青空から、いきなり雷が落ちてきたくらいの驚愕が走る。私達の反応は予想内だったのだろうセラフは、そりゃ驚くよなという表情で溜息を吐いていた。ハロルドは驚愕のあまり秀麗な顔の一部である形の良い口を『は』の形から動かせていない。いや、わなわなと震えてはいるけれど。開いた口が塞がらないという諺を体現する人を見たのは初めてだ。ちなみに、セラフが座している玉座の後ろに立ち控えているアンジェリカは相変わらず黒ドレスに黒のベールで顔と体を隠しているため、どのような表情をしているかは窺えない。しかし、これでこの人数しか呼ばれていない理由は分かった。国王の姫が自国に進攻しようとしている噂でもちきりの国の王と駆け落ちなど王国最大のスキャンダルである。揉み消せるものなら揉み消したいスキャンダルナンバーワンだ。
「まあ、驚くのは無理がないと思うが、事実だ。王国の姫が駆け落ちが原因で行方不明というだけで大問題であるが我が国を進攻しようとしている国の王と駆け落ちなどあってはならぬこと。だがしかし、起こってしまった以上は嘆いていても仕方ない。アリシアを何としても、この城に連れ戻さねばならない。つまり、アリシアをこの城に連れ戻すことが、お前たち二人に頼みたいことだ。今回の件は兄であるお前の責任でもあるからな。」
口を『は』の形から戻したハロルドは父親譲りの紫の瞳に絶対に任務を達成してみせるという覚悟を映しセラフを真っ直ぐ見返した。
「承知いたしました。必ずやアリシアをこの城に連れ戻します。」
「ああ、期待しているぞ。…話は以上だ。二人とも下がって良い。」
「はい。では、失礼いたします。ライラ、行くぞ。」
「はい、我が君。セラフ王、御前を失礼させていただきます。」
ハロルドは美しい刺繡が縫い付けられているジャケットを荒々しく、はためかせながら大理石の廊下を歩く。王政の業務に追われて執務室に詰めている間に妹が、行方不明で関係が良好とは言えない国の王と駆け落ちをしたと言われたのが余程腹に据えかねたのだろう。母親譲りの緩くウェーブのかかった白銀の髪を苛立ちまぎれにガシガシ搔き乱しているので重症だ。気持ちは分からなくないが。何せ我が君であるハロルド様は同腹の妹姫であるアリシアを溺愛していらっしゃるので。しかも唯の溺愛ではなく依存とか執着と呼ばれるタイプのものだ。
「俺が目を離した隙にアリシアを、かどわかすとは許せない。どこの馬の骨か知らないが連れ戻すのに抗おうとしたら命は無いと思え。」
「我が君、落ち着いてください。気持ちはお察しいたしますが隣国の国王を殺してしまえば国際問題になります。まず話し合いをいたしましょう。ちなみに、どこの馬の骨ではなくライブラの国の国王です。」
「分かっている。ただの例え話だ。お前は、いちいち無表情で突っ込むんじゃない。」
「分かっていらっしゃたのでしたら良かったです。」
「とにかく、明日の明朝にはライブラの国に向かうぞ。」
「かしこまりました。準備を致しますので我が君は明日に備えて本日は、ごゆっくりお休みくださいませ。」
「ああ、すまない。よろしく頼む。」
「はい。かしこまりました。」
私は九十度の角度で一礼をするとハロルドが遠ざかるのを足音で確認する。ハロルドは、きっと自室に戻って物に当たり鬱憤を晴らしているに違いない。基本的にハロルドは聡明で賢明な方である。剣を握らせれば、一人で百の大軍を倒し、ペンを握らせれば一人で千人分の事務作業を一日でこなす。裁判に立てば平等且つ客観的に情報を分析して判決を下す。…が、しかし、こと妹姫のこととなるとそれらは水のように蒸発して消えるらしく人としての常識の向こう側の判断を下すことがある。そのために王は私をお目付け役にしたのだろう。妹姫への執着…もとい溺愛ゆえに他国の国の国王を殺して国際問題など笑えない。ヴァルゴの国史上最も愚かな黒歴史になり、後世の人は『なんと、愚かで馬鹿馬鹿しい話だろう』と笑い種にされて終わりだ。それだけは何としても避けなくては。
「随分と、本日のハロルド王子は大荒れ模様のようね。」
ふふっと無駄に妖艶な笑みを湛えて第二王妃であるアン王妃が私のもとに緩やかに寄ってきた。宵闇の湖畔のように波打つ艶めいた長い黒髪に切れ長の目、果実のような形の良い唇に夜に咲く花のような色香を湛えたアンはとてもセラフより年上だとは思えない。噂に聞く国にいる傾国の美女とはアンのような人かもしれないなと思う。
「アン王妃。」
「セラフ王から聞いたわ。アリシア姫が隣国の王と駆け落ちして行方不明なのですってね。妹姫を手中の珠のように溺愛しているハロルド王子のことですもの、今頃隣国に攻め入っているかと思ったけれどどうやら、杞憂のようね。」
「本日は我が君の部屋の調度品たちの残骸が広がるだけで済みそうです。明日以降は分かりませんが。幸いセラフ王が内密にと言ったおかげで今日明日に全面戦争ということは無いでしょうが国王を殺されたことを掲げて後日ライブラの国が攻め入って来る…なんてことはあるかもしれません。」
「おや、まあ。それは困ったこと。」
全然困って無さそうに言うアンに脱帽する。そんなことは有り得ないと思って高を括っているのか、なったらなったで面白そうだと国の一大事に関して簡単なゲーム感覚で思っているからなのかアンの場合は分かりづらい。
「全然困っているように聞こえないのですが。アン王妃、一応言っておきますが私の先ほどの言葉は冗談ではなく、予想し得る最悪の状況の話です。」
「ライラが冗談で言っているのでないことは分かっているわ。でも、そんなことにはならないと分かっているもの。そうでなければ、王だって隣国に行ってアリシア姫を連れ戻せなどという命令をハロルド王子に下したりなどしないでしょう。」
それは確かにそうだ。確かにセラフは時に苛烈で反逆を犯すものには容赦はしないし息子たちである王子にも厳しく応対する。けれども、その一方で民衆の幸せを常に願い尽力し戦争を好まないという穏健で平和主義的思想の持ち主でもある。しかもハロルドの妹姫に対する一種の狂気を含んだ溺愛と執着は誰もが知るところでもあるということから鑑みてハロルドが隣国の王を殺す確率が高いのにわざわざハロルドに頼むということは何かそうならない勝算があるということなのだろう。けれども、それが何か私には分からない。
「どうして、そのようなことが分かるのですか。」
妖艶な微笑を消し、一転して慈愛のこもった微笑みを唇に乗せたアンはハロルドの自室を見つめる。
「だって、貴女が居るじゃない。」
「私、ですか?」
突然、自分の名前が出てきて驚く。ハロルドが隣国の王を殺さない理由と私に何の関係があるというのか。全くもって意味が分からない。もしかして、適当な理論を展開して実は何も考えていないんじゃ?という疑問が私の中で浮上する。アンなら有り得るところが恐ろしい。
「今、失礼なことを考えたでしょう?」
「いえ、そんなことは。」
実際問題として考えていたので気まずくなり少し目線を逸らすと仕方がないなというような顔で見られた。しかし、普段の言動から考えてみたら当然の思考の帰結でもあると思うので、そんな仕方ないなみたいな顔で見られるのは少し心外である。人を責める前に自分の普段の言動を顧みて欲しい。
「まあ、いいわ。…ああ見えてハロルド王子は貴女には従順ですもの。貴女が戦争を望むとか隣国の王を殺すことに対して何も思わないとかであれば話は別ですけど、幸いライラは隣国の王を殺すことにも反対で戦争も望んではいない。そうなれば、必然ハロルド王子が隣国の王を殺すような真似をしたときに貴女はハロルド王子を止めるでしょう?で、あればハロルド王子が隣国の王を殺すこともない。他の考えを模索することでしょう。ね、単純明快でしょう?」
「単純明快なのはアン王妃の説明だけです。そもそもの前提が間違っているのでその理論は成り立ちません。私が我が君に絶対服従なのは自明の理ですが、その逆は有り得ませんから。」
確かにアンの理論で行けばハロルドが隣国の王を殺す、なんてことにはならないだろう。けれども、それはあくまでハロルドが私に従順であるというのが大前提だ。例えるなら、ケーキの作り方と一緒だ。ケーキは生地を焼いてデコレーションすれば出来る。けれども、生地の材料がそもそも違っていたらケーキは作れない。ハロルドが私に従順であるというのは、ケーキの生地を玉ねぎで作るようなものだ。絶対にケーキ作りは失敗するであろう。
「そんなことないと、私は思っているけれど。…それにしてもハロルド王子のアリシア姫への溺愛ぶりには少し困ったものね。何か大切なものや愛するものがあるというのは良いことだわ。けれども、それが執着とか狂気に繋がるものであるならば直していかなくてはいけない。特にハロルド王子は第一王子という立ち位置ですもの。彼の判断が私情によって鈍ることは許されない。ライラもそう思わない?」
「それは…そうですね。」
アンの言う通りだ。ハロルドは妹姫に依存している。それは彼の境遇を鑑みた時に仕方のないことなのかもしれない。自身もまだ成長しきっていない時に政権争いで母を目の前で亡くし、父からは時期王としてしか接してもらえない。周りの貴族はハロルドに媚びるものと敵対心を燃やすもののどちらか。そんな中で唯一信じられるのは同じ母から生まれたアリシアのみとなれば自然と彼女に依存していっても無理の無いこと。あるいはアリシアを守ることで悲しむことさえ許されない現実で必死に悲しみに暮れて折れてしまわないように踏ん張っているのかもしれない。ライラ個人としては、アリシアに依存することによってハロルドに安寧がもたらされるというのなら、どれだけ依存しようと執着しようと国が傾こうと構わないと思う。けれども、客観的に見ればそれは許されないことなのだろう。彼の判断次第では多くの民衆が不幸になるのだから。それは、私だって頭では理解しているつもりだ。けれども、頭で理解していることと感情は別物で、心の奥深い感情の部分はハロルド自身さえ良ければ国が傾いても構わないと思ってしまうのは止められなかった。
「ねえ、ハロルド王子がアリシア姫への依存をなくすためにはどうすればいいとライラは思う?」
「私は…」
言葉に詰まる。分からないのだ。だって伯爵令嬢であるライラは、もちろんハロルドがアリシアに依存することを良しとはしないけれど、ライラ個人としてはハロルドが良ければそれでいいと思っているのだから。つまり、どうすればハロルドがライラに依存しなくて済むかなど考えたこともなかった。別の言い方をすれば、伯爵令嬢の義務から逃げていたといっても良いのかもしれない。
「鋭利な剣には絹の鞘を。」
「それは、どういう意味でしょうか?」
「鋭利な剣はとても役に立つけれど、味方をも傷つけてしまうことがある。そうならないように必要に応じて剣がものを切らないように絹の布で巻いておくことも大切という先人の人の教えよ。ハロルド王子は確かに頭脳明晰で勇猛果敢だわ。文武両道と言ったとこかしら。けれども、アリシア姫に依存しているという酷く不安定な状況でもある。もし、今回のようにアリシア姫に何かあった場合に間違った判断を、その知力と武力を持って押し通してしまった時、どんな愚か者よりもたちが悪くなる。つまり、鋭利な剣が味方を傷つけるのと同じね。その場合必要なのは?」
「絹の鞘…。」
「そう、正解よ。私は、その絹の鞘に貴女ならなれると思っているわ。でも、今のままだと不完全だとも思う。だって、騎士と主の関係ですもの。伯爵令嬢の貴女なら騎士でない方法でハロルド王子を支えることだって出来るのではないかしら?」
「それは、私にハロルド王子の妻になれとおっしゃっているのでしょうか。」
「有体に言うとそうね。貴女ならハロルド王子の良い鞘になれる。というより、貴女以外には出来ないと思っているわ。」
「それは…」
「ライラ嬢。血こそ繋がってはいないけれど、ハロルド王子の母としての願いをどうか聞き入れてくださいませんか?」
今までの飄々とした雰囲気を捨て去って真剣に一音一音、アンに言葉を紡がれる。ゆっくりと頭を下げて優雅に最上級の礼をされた。
正直、困る。第二とは言え第一王妃が居ない今、アンはこの国で最も尊い女性だ。その方に一騎士が礼を尽くされて断るなどあってはならないこと。けれどもハロルドのことを考えると諾とは言えない。
「アン王妃が、そう言ってくださるのは光栄なことだと思います。けれども、その願いだけは聞き入れることが出来ません。それを聞き入れてしまえば私は我が君との約束を破ることになってしまいますから。申し訳ありません。」
アンは切ないような愛し子を見つめるような目で見ると私の頭に手を当てて髪を撫でた。
「そう。では、残念だけれど今日は私が引くしかなさそうね。でも、回答は焦らなくても良いからもう一度この機会に考えてみて。」
そう言うと、アンは来た時と同じように緩やかに去っていった。今日のアンはどこか普段と違っている。いつも、からかうような嘘と真の間を揺蕩うような言動しかしないのに今日は酷く真剣に語っていた。もしかしたら、アンもハロルドが隣国の王を刺し殺しでもして戦争になるんじゃないかと焦っているのかもしれない。ハロルドはアリシアのことになると見境が無くなることは王室の人間であればだれでも知っているしトラウマになっているから。風がザアっと吹いて金木犀の小さい花弁が雨のように降る。そういえば、あの日も金木犀が強く香っていた。
セラフ王の第一王妃であるマリーベルが亡くなってから三年ほど月日が流れたころ、内情はともかく表面上は日常を取り戻していた。騎士としてハロルドに仕えていた私が慌ただしいノックオンに扉を開けると王室仕えのメイドが飛び込んでくる。通常時であれば、誰よりも気品高く振る舞う彼女にしては実に珍しい行動だ。
「いったい何の騒ぎですか!」
「ご無礼をしたこと、誠に申し訳ございません。しかし、一大事ゆえ何卒お許しくださいませ。アリシア王女が何者かに攫われました。」
「それは、誠ですか。詳しく現状を話しなさい。」
「はい。アリシア王女付のメイドによりますと朝のお支度を手伝いにお部屋に伺ったところ扉をノックしても返事がなかったとのことでございます。その後、メイドが扉を開けて中を確認しますとアリシア王女の姿はなく『王女は預かった。生きて返して欲しければ我々の要求に応じろ。要求は直接伝えるためそちらから来ること。なお、来る人物はハロルド王子ただ一人だ。他のものも来た場合は即刻アリシア王女を殺す。もちろん。ハロルド王子以外が来ることなど論外だ』という内容の紙だけが机に置いてあったとのことです。セラフ王にこの旨を伝えたところハロルド王子に伝えるように言われ、判断もハロルド王子に任せるとのことでした。」
メイドから話を聞いた時のハロルドの顔はこの世の怨嗟を集めて煮凝りにしたような表情で私は全身から血の気が引くのを感じた。それは、決して恐怖だけではなくて、そんな顔をさせた犯人への怒りからとか、そんな顔をさせてしまったことが単純に悲しかったからだ。
「我が君…。」
「ライラ、後の業務は任せる。俺は、この手紙の主に会いに行かねばならなくなった。」
「しかし、お一人では危険です。ぜひ、私も供をさせてくださいませ。」
「お前は先ほど何を聞いていた!他のものも来た場合は即刻アリシアを殺すと言っているんだぞ。絶対についてくるな。お前が付いてきたことによってアリシアが殺されたら、俺がお前を殺すからな。」
「っ…。御意にございます。どうか、御無事にお戻りください。我が君。」
「当たり前だ。」
ハロルドになら殺されても構わない。けれども、大人しく退くことにしたのはハロルドの手を私を殺すことによって汚してしまうことだけは避けたかったから。
結果として、ハロルドはアリシアと共に無事に戻ってきた。犯人はハロルドの反対勢力の貴族のトップが雇った破落戸集団。破落戸集団の雇い主である貴族はハロルドを亡き者にできれば儲けもの、出来なくても破落戸集団が消えるだけで自分たちには何のデメリットも無いと考えたのだろう。けれども、誤算だったのはハロルドが彼らが想像するより何倍も有能で強烈で聡明だったことだ。ハロルドは雇い主である貴族まで辿り着き加担したと思われる貴族とその家族を全て惨殺した。家族に至っては全くもって本件と何の関りもないのにだ。あまりの残虐さにセラフ王はハロルドを蟄居させ表向きは何事もなかったように揉み消した。つまりは、惨殺された家族たちは表向き事故として処理されたということになる。内情を知っている王室の一部の人間や貴族のごく一部の人間は王子、しかも第一継承権をもつ第一王子としていかがなものかと眉根を寄せたが、私はハロルドがそれで少しでも気が晴れたなら良いと思っている。けれども、心の片隅で伯爵令嬢としてのライラがそれでは民衆を守れないし、王族としてあってはならないことだと糾弾してくるのだ。己の中で矛盾がぶつかり合って心が痛い。いつか、伯爵令嬢の私と個人としての私の思いに折り合いがつく日は来るのだろうか。
コンコンという重厚なドアを叩く音で我に返る。
アンと別れた後、ハロルドの部屋に行くと、それはもうこの部屋だけ嵐でも通ったのかという惨状だった。しかも、片付けようにもメイド達が入ろうとすれば目線だけで人を殺せるのではないかという目で見てきてメイド達は完全に委縮してしまい片付けられない。かと言って、そのままにしておくわけにはいかないので結果として、この場でハロルドの目線に唯一耐性のあるライラが一人で片付ける羽目になったのだ。その後もハロルドの旅支度の指示を侍従やメイドたちに行ったり、ハロルドに追従しライブラの国へ行く期間の己の業務を部下に割り振ったりしていたら気づいた時には闇の中に月が煌々と輝く時間になってしまっていた。本来であれば、明日からの旅路を考慮し、やるべきことが終わった時点で、すぐに寝台に横になり寝るのが一番いいのであろう。けれども、怒涛の一日だったためかアドレナリンが放出されまくり寝台に横になっても眠ることが一向にできず、仕方なく自室のロッキングチェアに座りながら紅茶を飲むことにしたのだ。ユラユラ揺れるゆりかごのようなロッキングチェアに揺られながらアンとの会話に出てきた、過去にハロルドが蟄居することになった事件を思い起こしている間に、どうやら寝てしまっていたらしい。
「どなたですか?」
「ティアにございます。ライラ様。少しよろしいでしょうか?」
「分かりました。今扉を開けます。」
ハロルド付きのメイドであるティアとは割と関わりがあるものの、こんな夜更けに単独で私の部屋を訪ねてくるとは珍しい。何かハロルドにあったのだろうか?下から足を伝って虫が這いあがってくるような嫌な予感がして思わず胸をかきむしる。扉を開けると不安を滲ませた顔をしたティアが立っており、やっぱりハロルドに何かあったのだと冷静な自分が近くで告げてくる。
「とりあえず、中へ。」
「はい。失礼いたします。」
ティアが部屋に入り、扉を閉めたのを確認する。これで、誰かに聞かれてはいけない話だった場合でも、とりあえず大丈夫だろう。
「それで、何があったのですか。」
「先ほど、ハロルド様の部屋から何やら音が聞こえてきまして何事かとハロルド様の、お部屋に向かったところ、お部屋の中にハロルド様が居らっしゃらなかったのです。もしや、ハロルド様の御身に何かあったのではと思いライラ様のもとに馳せ参じた次第でございます。」
なるほど、と一人で納得すると共に大きく安堵した。どうやらハロルドが怪我を負ったとか、そういうことでは無さそうだ。大方、昼の大暴れだけでは事足らず夜にも癇癪を起したのだろう。けれども、朝方よりは幾ばくか落ち着きを取り戻していたので、このまま部屋に居ると、またメイド達を委縮させてしまうと思って何処かに失踪したと言ったところか。ハロルドが、そう言った癇癪を起すのは幼き頃は多々あったものの実母を亡くしてからは初めてだ。ハロルド蟄居事件の時は親切な犯人がすぐにハロルドを呼び出してくれたおかげでハロルドの部屋とハロルド付きのメイド達が被害にあうことは無かったので。ハロルドが実母を亡くした後にメイドとして使え始めたティアが、何事かの事件ではないかと判断しても無理はない。
「分かりました。取り敢えず事件性は無いと思われますので安心してください。後は、私が請け負います。貴女は、我が君のお部屋だけ整えたら、もう休みなさい。それと、一人で、お部屋を片付けるのは些か難しいでしょうから他の使用人やメイド達に手伝ってもらって構いませんが我が君がいなくなったことは口外しないように。…何か聞かれたら、教会で祈りを捧げていらっしゃるとライラが言っていたと伝えなさい。良いですね?」
「はい、かしこまりました。」
顔に不安と安堵を滲ませてティアは頷く。気持ちは分からなくもない。朝の癇癪を見ているのだ。いくら仕える主人とはいえ、本日はあまり関わりたくないという気持ちと仕える主人の安否を案じる気持ちで揺れているのだろう。ティアが扉から出ていくのを確認すると私は寝間着姿から騎士服に着替えて外にでる。幼い頃から癇癪を起したハロルドは大抵の場合、宮殿の隅に忘れられたように置かれている小さな教会に引きこもっていた。まずは、そこから探すのが手堅いだろうと夜は冷えている宮殿の庭を歩く。目的の教会に辿り着くと私は、今にも壊れてしまうのではないかというほど古びた扉を開ける。ギィっと錆びついたような音がして扉が開く。教会の祭壇の少し下で予想通りハロルドは尻を床に着けて膝を立てて揃え両足を両腕で抱きかかえる形で蹲っていた。
「我が君。お探しいたしましたよ。メイド達も心配しております。明日は朝も早いですし、お部屋に戻りましょう。」
「ライラ…」
「はい。何でございましょう。」
「怖いんだ。アリシアに何かあったら俺はもう生きてはいけない。アリシアだけが俺がこの世で生きる理由で、俺が俺でいられる理由もアリシアだけなんだ。だから、絶対にアリシアを連れ戻すと決めていたのに夢でアリシアに『私はライブラの国の王の妻になることに決めたのです。ですから、お兄様はもういりません。』そう言われてどうしようも出来なかった。俺にとってアリシアは必要でもアリシアにとって俺が必要でないのだとしたら俺はこれから、どう生きればいい?」
チクリと何かが胸を刺す。野薔薇の棘に手が刺さった時のような鋭い痛み。過去に愛おしい花のような思い出と共に水底に封印した痛み。解放するな、解放するなと念じながらハロルドに近づいて心もとない目をして蹲る彼を、そっと抱きしめる。儚く消えてしまいそうな彼を必死で現実に繋ぎとめるように強く。
「我が君。アリシア王女が我が君を要らないなどと仰ることはありません。ですので、どうかそのような不安は持たずに心穏やかにお休みください。」
「だが!現にアリシアはライブラの国の王と駆け落ちしたんだぞ。」
「ええ、そうですね。きっとアリシア王女はライブラの国の王に惑わされているのです。アリシア王女も我が君が心より説得すれば正気に戻りヴァルゴの国の宮殿に…我が君の元に戻って来てくださいますよ。」
「そうだろうか?」
「ええ、我が君にとってアリシア王女が世界で唯一の方であるようにアリシア王女にとっても我が君が世界で唯一の方なのですから。」
「そ…うだな。すまない、取り乱した。部屋に戻ってもう寝るとしよう。」
ハロルドが夢現を彷徨うように、何処か朧げな目から現実を見るしっかりとした目に変わったことを確認すると私は抱き締めていた腕を外し跪く。
「謝ることはございません。私、ライラの全てはハロルド様のものにございますから。お部屋はメイド達に片付けるように命じましたので、直ぐにお休みになれるかと思います。」
「分かった。」
ハロルドは立ち上がると一つ頷き、くるりと私の方から扉側に体の向きを変えた。これが私とハロルドの、あの日からの関係性。彼が辛い時に抱きしめることは出来ても、私が抱きしめることを彼が許してくれたとしても、そこに甘やかな何かは決して存在しなくて主従という名の大きくて厚い壁がある。その関係性を彼が望み、私が決めたから。
「はい。お休みなさいませ。」
深く一礼をし、ハロルドが教会を出て扉を閉める音を確認してから面を上げて立ち上がる。ハロルドには、ああ言ったものの実際問題としてアリシアがライブラの国の王に惑わされて駆け落ちしたという可能性はライブラの国の王の人となりの面から見ても現状の状態を考えても極めて少ないだろう。まず、現状の状態の面から言えばライブラの国の王がわざわざアリシアと駆け落ちするメリットが何一つない。確かにライブラの国はヴァルゴの国を進攻しようとしているという話であるので王女であるアリシアを人質にするなり妻にするなりをして戦わずして侵略するということも考えられる。だが、もし仮にそうするのであれば、とっくの昔に脅迫文か結婚証明書が王のもとに届いていないとおかしい。ましてや当のライブラの国の王も行方不明ということはアリシアを人質にするなり妻にするなりしてヴァルゴの国を侵略するという作戦ではないことは明白だ。次にライブラの国の王の人となりの面から見てもとてもそのようなことをする人には見えなかった。隣国でしかも進攻しようとしているという噂のある国の王のため資料や間者を使って調べさせたライブラの国の王であるウィリアム・グレイはライブラの国の中で傀儡の王と呼ばれており、人柄は穏やかで優しく誠実。自然を愛し争うことを嫌う平和主義で天然ボケの所謂お坊ちゃまといった感じだが人畜無害と言ったところだ。もっとも、凶悪政治を行っている伯爵を野放しにして、のほほんと暮らしているなど人としては好ましくとも国民からしたら最悪の愚王だが。けれども、そんなことは私には関係の無いこと。アリシアだけが唯一正気を保つ細い、細い糸であるハロルドに対して、もしあの時、私が正直にアリシアが自分の意思で出ていった可能性の方が高いと言ったらハロルドを正気側に繋いでいる細い糸は、あっさり消えてしまって彼は壊れてしまうだろう。そうさせないためになら、嘘だって吐くし甘言だって幾らでも吐こう。そう思っている私は、きっともうとっくに正気側に繋ぐ糸が切れてしまって狂気側に紙風船のように飛んで行ってしまっているのだろう。アンに言われたことが喉に引っかかった魚の小骨のように取れない。『彼の判断が私情によって鈍ることは許されない。ライラもそう思わない?』。それは、まごうことなき事実で私はきっとそれを止めなくてはいけないのだろう。だって、彼の私情でライブラの国の王を殺してヴァルゴの国の民が悲しむような戦争に繋げるのは避けるべきだから。それが、正しくて正気側の答え。けれども、正気側と繋ぐ糸が切れて狂気側の中で生きている私にはその正しいと思われる答えを行動に移すことが出来ないと思う。アンも国王もライブラの国の王をハロルドが殺そうとしたときに私が止めてくれると信じてくれているみたいだけれど、それは無理だと思う。だって、私は外見こそ人の形を保っているけれど中身はとっくに壊れてしまっているのだから。あのハロルドに誓いを立てた金木犀が落ちた日に。あるいは、ハロルドに恋に落ちた瞬間から。
ヴァルゴの国からライブラの国に渡るためには川を渡る方法と山を越える方法の二種類が存在する。山を越える方法はヴァルゴの国側はともかく貧富の格差が激しいライブラの国側は破落戸集団が多いため基本的には安全側の川を渡る方法が推奨される。当然、ハロルドに破落戸集団が襲ってくるなどという可能性がある山を越える方法は私の中で却下され川を渡りライブラの国に渡る予定だった。予定だったのだが。
「本日は、川を渡ることが出来ないとはどういうことです?」
「すみませんねぇ。今日は、風が強くて大荒波だもんで無理して渡ろうものなら船が転覆しちまってお客様も先頭も皆仲良く、あの世行きになっちまう。だから、渡れない。分かっちゃくれないかい?」
「事情は把握しましたが、私達は直ぐにでもライブラの国に行かなくてはいけないのです。お金なら幾らでも払いますから一番腕のいい先頭に頼むことは出来ませんか。」
「この大荒れじゃ、どんな百戦錬磨の先頭でも川の波に飲まれちまうよ。」
「そうですか。分かりました。」
行商人の主人に変装したハロルドと、その使用人に変装した私たちはライブラの国までの舟渡の先頭たちを斡旋している施設で受付をしようとしたときに受付の、お婆に言われたのが先ほどの言葉だ。何と不運な。幸先が悪すぎる。しかし、長年舟渡をしてきたベテランが仲良くあの世行きと判断した川に大切な御身であるハロルドを乗せるわけにはいかない。かと言って山は破落戸集団が出るとの噂が絶たないため山を突っ走ることも出来ない。どうするべきか。やはり、ここは一旦身を引いて近くの宿場で一日を過ごし明日、川を渡ってライブラの国に入国するのが安牌なのだろう。問題は、アリシアが関わっているというのにライブラの国へと入国する日程を遅らせることをハロルドが納得してくれるかどうかだ。昨日、宮殿を飛び出してライブラの国に飛び出していかなかっただけでも奇跡に近いというのに。私はゆっくり振り返ると、すぐ後ろに立っているハロルドに訊ねた。
「我が君…ではなく、ご主人様いかがいたしましょうか。彼女の言う通り川で船を渡るのは危険そうですし、山は破落戸集団が出る可能性が高く危険です。本日は近くの宿にて待機して明日以降にライブラの国に行くという方法でもよろしいでしょうか。」
「良いわけないだろう。アリシアの命がかかっているんだぞ。山からライブラの国に行くに決まっているだろう。」
「しかし、山は破落戸集団が現れるという噂が絶えません。危険すぎます。」
ハロルドは苛立ちを隠さない激情を瞳に湛え、荒々しい手つきで私の顎を使い捨てのペンでも掴むように掴む。無理やり合わせられた視線は言うことを聞かなければ、ここで殺すことも厭わないとでも言っているようだ。こういう時に、性懲りもなく何とも言えないツンっとしたものが心の奥から溢れてくる自分に自己嫌悪する。ハロルドのものとして、騎士として使えるのを決めてから、もう既に幾ばくも時間は経ったのだから、いい加減に慣れても良いものを。
「ライラ。お前の主は誰だ?」
「もちろん我が君でございます。」
「ならば、俺に従え。山を越えてライブラの国に行く。異論は認めない。」
「…かしこまりました、我が君。山を越えましょう。」
「決まりだな。行くぞ。アリシアの元に早く行かねば。」
私が承諾するのを確認するとボールを投げるようにハロルドは私の顎から手を離して舟渡の斡旋施設の出口に向かって歩を進める。私は受付のお婆に一礼すると慌ててハロルドの後を追う。破落戸集団が絶えない山を進むとハロルドが決めたのなら私が彼を破落戸集団から守らなくてはいけない。私の、ちっぽけな命と引き換えにしたとしても。
意気込んで臨んだ割には山は静かで、あと数十分もすればライブラの国に着くだろうというところまで来た現在も平穏無事以外のなんでもない。順調すぎて正直に言って拍子抜けしたというか肩透かしを食らった感がすごい。もちろん何事も無いことに、こしたことはないということは重々に承知しているけれども。
「ライラ…その、先ほどは、すまなかった。」
足を踏みしめて進む際に鳴る草木が折れる音だけ鳴り響く静寂な空間を切り裂くようにハロルドは言葉を紡いだ。
「先ほどのこと、と言いますのは?」
ハロルドは私に対して何を謝っているのか、とんと分からなくて聞き返す。
「お前が俺の身を案じて反対したのに、乱暴を働いてしまったことだ。」
自分のことでハロルドを期に病ませてしまったことに罪悪感が沸く。甚だ申し訳ない。別に私はハロルドのものなので、どのように扱おうと謝る必要性は無いのに。本当にアリシア関連以外に関しては、お優しい人である。壊れた私とは大違い。アンはハロルドの妻になって欲しいと私に言っていたが、やはりそれはあまりにも不釣り合いだ。だって、私は壊れた人の形をした何かなのだから。人の妻になどなることは出来ない。
「謝ることはありません。私はハロルド様の騎士です。つまり、ハロルド様のものです。どのように扱おうとハロルド様が気に病むことはありません。」
「そうか…。」
どうしてか、ハロルドは何か言いたいのに、適切な言葉を見つけられずに悲しんでいるような表情を見せた。そのような顔をさせたいわけじゃない。どういえば、良かったのだろうか。
「はい。」
結局、私もどういう言葉を紡げば良いのか分からなくて単純な二言だけを告げた。言葉とは時にとても不便だ。
シュンっと音が鳴る。音の素が弓矢であると気づいた時には遅く四方から矢が放たれていた。普段なら気づいた。仮に私が気づかなくてもハロルドが気づいていただろう。けれども、ハロルドはアリシアが自らの意思で自分のもとから去ったということにショック中で判断力が鈍っていたため気づくのに一瞬遅れた。こういう時に騎士である私がしっかりしなくてはいけないのに物思いに耽ていて弓矢を破落戸集団が構えていたことに気付かなかった。まずい…。しかし、反省している暇など無い。今はとにかくハロルドを守らなくてはいけないのだから。人は死ぬ間際は酷く世界の物事をスローモーションに感じるらしい。私も例外ではなく驟雨のように降って来るスローモーションの弓矢からハロルドを押し倒して覆い被さり守る。
ブシュッという肉を貫く嫌な音と共に血が沸騰するような熱くて鋭い痛みが襲ってきた。血をタラタラと汗のように流しながらハロルドを見ると、どうやら弓矢で傷つくことは無かったようで安堵する。良かった。ハロルドならこの人数の破落戸集団くらい、気を抜いていなければ一人で倒すことなど朝飯前だろう。唯一つ心配なのは、一生従うと言ったのに、アリシアもまだ見つけていないというのにハロルドを一人にしてしまうこと。それが酷く心配で、かなり申し訳ない。
「ご…めんな…さ…い。」
「ライラ…!!」
私の名前をハロルドが叫ぶ。ハロルドの声がこの世で最後に聞いた声とは随分と私は幸せ者だ。…どうか、どうかハロルドが、ここから生き抜いてアリシアを連れ戻して一緒に、心穏やかに暮らしますように。
私の意識は、そこでパタリと途絶えた。