9(ルーシャ)
疾走する羊にしがみついている子を助けるのは、地上からだと難しいが、空中からならそれほどでもない。
ラキスは勢いをつけて舞い降りると、少年の身体をしっかり抱えて羊の背から引きはがした。
身軽になった羊が鐘鈴をにぎやかに響かせながら去っていく。一方少年のほうは、一段と声を張り上げて暴れ出した。
「離せ離せ、魔物ぉぉぉ!」
突然持ち上げられたうえ、視界に飛び込んできたのが飛膜の翼だったものだから、勘違いしているのだ。
「失礼なガキだな。騒ぐなよ」
「わあ、魔物がしゃべった! ……あれっ?」
ラキスの腕から逃れてころがるように地面に降りた少年が、振り向くなり目を瞠る。腕の主が予想とまったくちがっていたので驚いたらしい。
金色の瞳でたっぷりみつめたあとに「なあんだ、人だった」と呟いた。
ばかばかしいと思いながらも、ラキスは少しほっとした。一瞬、自分の姿が本当に魔物に見えるのではないかと疑ったのだ。
人騒がせな少年は、そのあと素直に失礼な言動をあやまると、助けてくれたことへの感謝を口にした。どうやらそんなに悪い子でもなさそうだ。
と思ったが、ラキスの腰に吊られた剣を見たとたん、またもや騒ぎ出したのには閉口した。
「剣だ! お兄さん剣士様? 強い?」
「強いよ」
「だったら、お願いがある。助けてほしいんだ。ルーシャの村に魔物が出て大変なんだよ」
「魔物……そういうのは村長から代官にちゃんと要請して討伐隊を」
「間に合わないよ。さっき村で暴れてたもん。ティノは逃げてきちゃったけど、きっとまだいると思う」
「ティノ……?」
ラキスは思わず本題ではない部分をたずね返した。
気が急いている少年は、それが自分の名前であることを早口で教えた。
ラキスが出向く気になったのは、自分もひと暴れして発散したほうが、気持ちが楽になるのではないかと思ったからだ。
一人きりで道端の木を殴るより、魔物を討って人助けしたほうが行動としてははるかにましである。
けれど、やはり一番の理由は、少年と話してみたかったからだろう。ティノというのは、エセル姫から聞かせてもらった山登りの冒険譚の中で、何度も出てきた名前だった。
とんがり耳に金色の瞳、人なつこくて親切で、勇気のある男の子。その子が住んでいる村は──。
少年を吊り下げて飛行しながら、ラキスは横目で遠方にひろがる風景を確認した。
草原や森の向こうに緑なす高い丘がはっきり見えている。あれこそが、かつて自分と同化したインキュバスが棲息していた因縁の丘なのだ。
自力で登っていないうえ、取り込まれて意識をなくした状態だったから、風景の記憶はほとんど残っていない。だが、丘のふもとにある村がルーシャだということは知っていた。
ティノ少年はよほどのおしゃべりらしく、吊り下げられた体勢でも、なんとか自分の事情を話してくれた。
近所の牧場で一番大きい羊にふざけてまたがっていたら、いきなり地面から緑色の魔物があらわれた。そして羊たちを追い回し、柵をこわして暴れ出した。
パニックに陥った羊たちは四方八方に逃げ出し、ティノを乗せた羊も例外ではなかった。背中の荷物をものともせずに脱走して、ずいぶん遠くまで来てしまったのだという。
ここでいろいろな話を聞く気はなかったから、ラキスはただひとつの質問をするにとどめた。
「歌は好きか?」
「えっ?」
「歌うことが好き?」
唐突な問いにとまどいながらも、はっきりした答えが返ってくる。
「うん!」
その返事だけで十分だった。
ルーシャの村に出没した魔物は、村のあちこちを走りまわったあとふたたび牧場に戻ってきていた。
獰猛そうな顔や胴体、棘のついた長い尾を持つ、ペルーダと呼ばれる魔物だ。一応竜体だが、翼も鱗もなく、全身が緑色の長い毛におおわれている。
出没するのはたいてい地下から。毛むくじゃらの姿が草に紛れて見えるため、気づくのが遅れて被害を受けることも多い。
そうはいっても、いま目の前にいるのは牛程度の大きさだから、まだほんの子どもだろう。しかもたったの一体だ。
大人になると口から火を吐くので厄介だが、ヴィーヴルの群れやレヴィアタンと対決したばかりのラキスにしてみれば、何ほどのこともなかった。
恐怖心が麻痺してしまうのもよくないが、彼は魔物の前にふらりと自分をさらして、村の男たちを驚かせた。
魔物を遠巻きにした男たちは、それぞれ鎌だの鍬だのを手にして身構えている。素人もいいところだが、いつもそうやって追い払ってきていたらしい。
彼らは、人垣を押しのけて牧場に入っていった有翼の若者に仰天し、口々に制止しはじめた。だが若者の抜いた剣が真っ白に発光すると、誰もがその叫びを引っ込めた。
さらに、ほとばしった光が一発でペルーダを仕留める様子を目撃すると、みな一斉に押し黙る。
その後、今度は歓声ともどよめきともつかない奇妙な声を上げたので、ラキスははっとして、観客たちの姿をはじめてきちんと視界に入れた。
まわりにいるのは普通の農民と変わらぬ身なりの男たちだったが、目についたのは半魔の多さだった。有翼はいないものの、頭から小さな角が生えていたり耳が魚のひれのようだったり、なかには顔にはっきり鱗が出ている者もいる。
男たちの後ろから、女や子どもたちも少しづつ近寄ってきていたが、そこにも異形の者が混じり──ティノ少年もその中にいた──一般の村とくらべるとやけに割合が高かった。
ここはそういう村だっただろうか? ドーミエのように集団になっている場所ももちろんあるが、こんなふうに統一感のない外見が集まっているのはめずらしい。
だがそれよりも、彼らが怯えたように呟きはじめたことのほうが問題だった。
「魔法炎……」
「魔法炎だよな、いまの」
「じゃあ、あんたは炎の使い手……」
「まさか半魔が?」
ラキスは少し身構えた。ドーミエで魔法剣を召喚したときの、ジンクたちの反応がよみがえる。
有翼の半魔たちはみな魔法炎を恐れ、炎の使い手のことを嫌悪していた。
ステラ・フィデリスに登録されていないのだから、正式には使い手ではないのだが、身分がどうであれ魔法剣にはちがいない。
まずかったかな──。彼がどう言い返せばいいのかと迷ったとき、人垣の中から権威がありそうな風情の老人が出てきて、半魔の使い手と向き合った。
老人は自分が村長であると告げ、深々と頭を下げてからこう言った。
「ペルーダを討ってくれたことを感謝する。ここ数日、何体か続けてあらわれて困っておったのじゃ。しかし……」
そこでいったん言葉を切ったあと、村長はひどく言いにくそうに続けた。
「申し訳ないが、たいした謝礼ができなくてな。炎の使い手ってのはその……ものすごく高いんじゃろ?」
意表をつかれたラキスは、反射的にそれを否定した。
「いや、礼はいらないよ。たいした手間じゃなかったし気分転換になったし」
「気分転換とな」
「無料でいいから気にしないでくれ」
「無料とな……!」
その瞬間、村長だけでなく周囲の村人たちまでが一斉に破顔した。そしていきなりみんなで喜びはじめた。
「無料!」
「なんていいやつなんだ」
「ティノ、いい人を連れてきてくれたねえ。お手柄だよ!」
2ヶ月半ぶりの更新で恐縮です。
お読み下さり、本当にありがとうございます。
ちょっとご質問。ティノが本編に出てくると思っていたかた、どの程度いらっしゃるでしょうか。
単なる興味ですが、よければ教えてくださいませ。