6(モードリッジ)
街道へと続く田舎道の両側に、新緑の草地がひろがっている。
五月のさなか、好き放題に伸びる草はまだやわらかでみずみずしく、夏に向けてさかんに成長している最中だ。
葉陰に見え隠れしながらひかえめに咲く、白や黄色の小さな花々。道を拓くために切り倒された木々の切り株が、草に埋もれかけながら、ところどころに残っている。
そのひとつに腰をおろして、ラキスはどこか遠いまなざしを、目の前の風景に向けていた。
もともとはしばみ色だった彼の瞳は、翠緑に変化したままで、背中の翼も相変わらず黒々と大きい。カラスもコウモリも見当たらない日なたの野原で、それだけが唯一の黒い色彩だ。
そのせいなのかどうなのか──。若者の姿には、何かに砥がれたような薄い緊迫感がまといつき、そこはかとなく影を帯びているように見える。
それは、ひだまりの中でぼんやりしているときでさえ、消すことのできない影だった。
ラキスはいま、行動をともにしてきた村人たちと別れて、モードリッジから旅立とうとしていた。
ドーミエからの移住組は、ここで生活を立て直すべく、ジンクを先頭に大忙しで働いている最中だ。ルイサやゼム、マージ、そのほか十近い家族の面々が、長旅の疲れも何のそのでがんばっている。
ただ、それは村人たちの生活の再建であって、ラキス自身の再建ではない。手伝いを途中にするのは申し訳ないが、もう出て行く頃合いだった。
ドーミエの大討伐から今日で十日。恩赦のおかげで釈放されたあと、彼らは三日かけてモードリッジに移動し、新しい地に迎え入れられた。それからさらに二日過ぎたところだが、ラキスには、自分までここに移住する意図はなかった。
行かなければいけない場所が、ほかにある。
だが本格的に旅立つ前に、ひとつだけ確かめておかなければならない──。
ため息をつくと、彼は切り株から立ち上がった。実に気が進まなかったが、逃げるわけにはいかないのだ。
少しだけ目を伏せたものの、顔を上げたときにはもう迷ってはいなかった。空を仰ぎ、黒い両翼を大きくはばたかせて舞い上がる。
そして上空で、確認した事実の重みを嚙みしめた。
──やっぱり飛べる。
村人たちが誰ひとり飛べなくなってしまったのに、おれだけが簡単に。むしろ以前よりも軽々と──。
そのとき、下から幼い呼び声が聞こえた。
「ラキスさま」
くしゃくしゃの髪を長く伸ばした有翼の女の子が、田舎道からこちらを見上げている。びっくり仰天した顔つきのチャイカだった。
驚いたのはラキスも同じだったので、彼は上昇をやめ、あわてて下に舞い降りた。
道理で、ジンクたちに別れの挨拶をしたときチャイカの姿がなかったはずだ。こんな離れたところで遊んでいたのか。
「ラキスさま、とんでる」
普段はぼんやりした目をまんまるにして、チャイカが呟いた。ラキスは苦笑するとうなずいた。
「ああ。みんなには内緒だよ」
「ないしょ……」
このことを忙しい皆に伝えるつもりはなかった。下手に気を回されるのは嫌だったし、皆と自分との差異を突き付けたくもなかったのだ。
だから人目がない場所まで来たところで、ようやく確認作業を実行したわけだが……。でもまあ、見られてしまったものは仕方ない。
ドーミエの村人たちはもともと、去年の秋くらいまでは誰も飛べなかったという話だった。それが急に飛べるようになったのは、秋ごろにわかに高まった森の瘴気──銀の糸となって身体に食い込んだ不気味な力──の影響によるものだったらしい。
糸が浄化され、さらに森そのものから離れたことで、彼らの翼は背中にくっついた飾り物に戻ってしまった。
ただひとり、あとから急激に翼が生えてきた若者をのぞいては。
「チャイカ、どうしてこんなところに?」
自分のことはさておき女の子に訊いてみると、「たんけん」という無邪気な答が返ってきた。どうやら彼女は、新しい土地がいたくお気に召しているらしい。
「そっか。いいところに引っ越してきてよかったな」
「あい」
「でも、いくら楽しくても勝手に遠くに行っちゃだめだぞ。迷子になる前に早く帰らないと」
「あい。ラキスさまといっしょにかえる」
「おれは……。悪いけど、おれは一緒には帰れない。いまから都に行くつもりなんだ」
「みやこ」
またもやまんまるになった女の子の瞳が、ふいにぱっと輝いた。
「お姫さまのいるとこ!」
「え……ああ、そうだよ。よく知ってるな」
「お父ちゃんとお母ちゃんがいってた。チャイカも、チャイカもいきたい。チャイカもお姫さまのとこ」
チャイカも、と繰り返す声はふいに歓声に変わった。懇願に応えるかわりに、ラキスが小さな腰をひょいと抱え上げ、いきなり宙に舞い上がったからだ。
足元の草地が遠のき、風の色がより透明に変化する。
強くはばたく彼の翼と、以前より幾分縮んで色合いもくすんだ彼女の翼が、青空のもとで陽ざしを受けてきわだった。
ラキスからチャイカへの、これはせめてもの贈り物だった。
短い間とはいえ、彼女の存在はラキスの心を少なからず癒してくれた。
本当の両親をなくしてジンク夫妻に引き取られた女の子。それなのに、ジンクたちのことをあたりまえのようにお父ちゃんお母ちゃんと呼び、疑問にさえ思わない子──。
普通以上に手のかかる彼女が、あたたかい人々に守られながら暮らす様子は、同じように血のつながらない夫婦に育てられたラキスにとっても、救いになる光景だったのだ。
しかもチャイカはそれだけでなく、あのレヴィアタンを相手にドーミエの沼地を飛びまわってくれた。いくら反転し切っていたとはいえ、ほかの村人たちだったら本能的に尻込みしたにちがいない。
だから、怪魚を撃退できた功績は自分ひとりのものではないのだと、ラキスは思っている。
「ラキスさま、おうちまで、おうちまで」
「おうちまでは足で行くんだ」
「なんで?」
「人間だから。人って普通、歩くものだろ」
飛行ではなく上昇だけのささやかな贈り物は、それでもチャイカを十分に喜ばせたようだった。ふたりはしばらくの間、空に浮かんで広がる景色の美しさを味わった。
眼下には集落へと続く田舎道が見渡せる。
その先にえんどう豆やレンズ豆、ひよこ豆などの畑があり、もとから居住している村民たちの家々が点在するのも確認できる。
もうすぐ昼食の時間だから、ルイサやマージはその支度をしているかもしれない。支度といっても、野宿中の食事と呼んでさしつかえないような支度だろうが……。
どんなにのどかな風景であっても、そこに横たわる事情がさしてのどかではないことを、ラキスは承知していた。
何しろ、まず住む家を造るところからはじめなければいけないのだ。
モードリッジの村は、よそから来た半魔たちの集団を受け入れるだけの包容力がある、稀有な土地柄だった。だが当然ながら、家まで用意してくれていたわけではない。
それで当面、人々は村長や何人かの村民の家、あるいは物置小屋、または庭先に張った天幕などなどを活用しつつ、掘立小屋を建て、そのうちにもう少しましな家を建て……という流れで生活の基盤をつくることになる。
領主が少しは人手や物資を融通してくれるらしいが、慣れない土地で大変な日々が続くだろう。
それでも、彼らにとってもっとも大変なのは離散してしまうことだから、集まって暮らせるこの地は、再出発にふさわしい場所といってよかった。
しかも素晴らしいことに、モードリッジ領主は腕のいい炭焼き職人を求めていたところであり、その情報は頭領をおおいに元気づけた。
彼らは持ち前の力を発揮して土地になじんでいくにちがいない。そして大人たちが元気であることは、もちろん小さなチャイカにとっても最高の幸せなのだ。
腕の中できゃあきゃあ言っていた女の子を、ラキスはお昼ごはんという言葉を出して落ち着かせた。
それから下降して地面に戻ると、ふたり並んで田舎道をいくらか歩き、ジンクたちの家がわずかに見えてきたところで立ち止まった。もう一度皆に会うつもりはなかったから、送ってあげられるのはここまでだ。
幸い、女の子の脳内はお昼ごはんでいっぱいだったため、別れの場面は非常にあっさりとりおこなうことができた。
軽くこちらに手を振ったチャイカが、身をひるがえすと小走りに走りはじめる。
ころぶなよ、と声をかけるともう一度手を振り返し、そのあとは脇目もふらずに遠ざかっていった。
ラキスはしばらくの間たたずんで、小さくなっていく黒い翼をじっと見送っていた。すぐ動く気になれなかったのは、彼女の姿を見るのはもうこれが最後なのだと知っていたからだった。
おれがこの村に来ることは二度とないし、この国にいることだってあとわずかだ。だからいまのおれにできるのは、チャイカの──チャイカやジンク夫妻、ゼムやマージやみんな──馬鹿みたいにいい人たちだった彼らの幸せを願いながら、見送ることだけだ。
ラキスの胸に、ふいに苦い笑いがこみ上げてきた。なんだか予行練習したみたいな気分だと気づいたのである。思わぬところで、大切な人に別れを告げるための練習をしてしまったらしい。
そう思うのと同時に右手が動き、彼は自分の左脇腹あたりをさぐって無意識に押さえた。
肌が熱かった。
握りしめた衣服の下で肌が──半魔の証として刻み込まれた銀鱗が、そこだけ熱を帯びたように熱い。周囲の皮膚を侵食していこうとするように、大討伐以降、時おりこうして熱くなる。
だから彼にはわかっていたのだ。飛行を試してみなくても、自分は必ず飛べるだろうということが。
ラキスは振り切るように手をおろすと、モードリッジの村に背を向けた。人の姿を保っていられる時間は、想像よりずっと短いのかもしれなかった。