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事件が発覚してからまだ数日、女王のもとにある情報は非常に限られていた。それでも、それをつなぎ合わせれば、ある程度のことが見えてくる。
一番大きな情報源は、成り代わりの術を施した黒魔術師の老婆だ。炎の使い手たちによって連行されてきたヘルガは、コンラート・オルマンドとシャズ・マーセインが入れ替わった事情を、簡単ではあるが知っていた。
隣国エシアで魔物を連れて逃走したシャズは、その罪により罰せられて半年ほど服役していた。討伐隊を振り回し、レントリアの助力まで受ける大騒動を引き起こしたのだから、処罰はやむを得ない。
刑期が短かったのは、みずからの手で魔物を成敗したためと、エシア王家による温情が働いたためだという。
釈放された彼はエシアを出てレントリアに帰国し、しばらくの間ひっそりと暮らしていた。リュート弾きに戻るつもりはまったくなかったらしい。
リュートの演奏、そしてセインという芸事用の通り名は、魔物の犠牲になった姫君の思い出とともに、彼の中に閉じ込められたのだ。
恋人もなく仕事もなく、この世への未練さえもない青年──それがクリセダにやってきたときのシャズ・マーセインだった。
そんなシャズを偶然みつけて、「貴族にしてやるから交代しよう」などと持ちかけたコンラート・オルマンドは──ヘルガの言によれば──なかなかに親切な男であった。自分が駆け落ちするためとはいえ、赤の他人に貴族の称号まで譲り渡そうとは。
了承したシャズは、長い銀髪を黒褐色に変え、細かい部位も修正を受けたのち、マリスターク領主館に乗り込んでいった。
──と、ここまでが黒魔術師の老婆による供述である。
本物のコンラートは出奔してしまったし、シャズのほうは語るべき口を持たない。だからこのあとのことはあくまでも推測になるのだが、乗り込んだ時期については女王側もすでに察していた。
コンラートが落馬事故を起こして療養したという、二年前の春だ。
たいした怪我でもなかったのだが頭を打ったらしく、めざめたあとの彼はいくらかの記憶障害を起こしていた。
それで周囲も彼にいろいろ教えたり、落馬のショックで少し雰囲気が変わったなどと思ったりしたのだが、実は雰囲気ではなく人物そのものが変わっていたのだ。
その後シャズは、次期伯爵として周囲に望まれるとおりの人物を演じはじめた。
どんな気持ちで演じていたのかはわからない。やりたいこともなかっただろうから、暇つぶしの感覚だったのかもしれない。ただ自殺する気がない以上、衣食住の保証がされた生活はそれなりに彼を助けたことだろう。
真面目で誠実で勤勉な嫡男という、理想的な跡取りとしての型があるのも、演じるうえではやりやすかったはずだ。本物のコンラートから教え込まれた特別な知識──たとえばちょっとした癖や習慣なども身につけている。
それらを駆使して、彼は領主館の生活に溶け込んでいったはずだった。
しかし。
どんなに閉じ込めたと思っていても、閉じ込めきれないものがある。最愛の姫君を奪い去った魔物という存在への、激しい憎しみだ。
その憎しみが黒魔術を受け入れた心身と交わったとき。狂信的に魔物を排除しようとする学者一派と、領内で出会ったとき。
瘴気が噴き出すドーミエの森に、みずから足を踏み入れたとき。
それこそ魔物の所業としか思えない惨劇が、そのとき幕を開けたのだ──。
もちろんすべては憶測である。彼のもともとの人格について確かめる術は、もうないのだから。
だが、魔物への憎しみ以外にもうひとつ、同じくらい激しい欲望を彼が抱えていたことだけは確かであろうと、女王側は思っている。
エセルシータ姫を手に入れることが、それだ。
エシアで逝去したレナーテ姫がもし生きていれば、いまごろはエセルと同じ十八歳。
面差しの違いはあれど、春の陽ざしのようなエセルの明るさ、無邪気で清らかな雰囲気は、レナーテ姫にとても似ていた。
花びらをかたどった蝋受けの上で、ろうそくの小さな炎がゆれている。私室の長椅子に腰をおろし、エセルは脇机を照らす炎をみつめていた。
就寝時間はとうに過ぎていたが、寝室に移動する気にはなれなかった。
今夜はとても眠れそうにない。
自分の結婚相手が偽者だったこと。その男が殺人犯だったこと。しかしすでにレヴィアタンの餌食となり、もうこの世にはいないこと──。
常軌を逸したこれらの事実は、すこやかな場所ですこやかに育ってきた姫君を震撼させていた。
話を聞き進むうちにわいてきたのは当然ながら、驚き、憤り、恐怖といった感情だった。けれど最後に語られたエシアの姫の一件が、エセルの心にそれだけでは終わらない痛みをもたらした。
レナーテ姫が、サキュバスと呼ばれる魔物に襲われて逝去した事件は、レントリアにも伝わっていた。人々はみな悲しんだし、当時十四歳だったエセルもたいそうショックを受けたものだ。
従者が魔物とともに逃亡したという話も伝えられ、少し同情的な気持ちになったことも、うっすらと記憶に残っている。
サキュバスは、捕食した相手の姿を写し取るという恐ろしい特性を持つ魔物だ。相手を自分の僕に変えるインキュバスとは完全に真逆で、数が増えることはないが、その特性ゆえに狩りにくいことで知られている。
だから、みつけたら即座に討伐するのが鉄則なのだが、それができずに逃走する気持ちもまた、なんとなくわかる気がした。
無論、そのあと従者がどうなったのかまでは知らなかったし、そこまで興味もなかったのだが……。
しかし、どんなに気の毒な経緯があったとしても、それをシャズが犯した凄惨な殺人の言い訳にすることはできない。どれほど悲劇的な理由があったとしても、けして許されることではない。
そうして実際、許されなかったのだ。
エセルはため息をつくと、炎から視線をはずした。聖堂に行って、ひたすら祈りを捧げていたい気分だった。
もう俗世間のことは考えたくない。いろいろあったが──ありすぎたが──すべては終わったことなのだ。みんな死んでしまって、生きている自分にできることなんて何もない。
いまはただ、なんの関係もなかったのに犠牲になったカーヤを悼み、斬られてしまったコンラートの従者を悼んで、創星の神に祈りを捧げるだけ。
天に還っていった魂たちが、どうか安らかでありますように。
こんな恐ろしい出来事が、二度と起こりませんように──。
王城内にも礼拝室はあるのだが夜更けには開いていないし、ほかに行きたい聖堂もある。参拝してもいいかどうか、明日母に訊いてみようとエセルは思った。
それからふっと、母が言った言葉を思い出した。
──恋とは恐ろしいものですね。
本当は、エセルが一番行きたい場所はモードリッジだった。けれどアデライーダのこの言葉は、エセルの気持ちをやんわり牽制する役目をはたしていた。
別に自分自身のことではなく、シャズ・マーセインに対して言われたものだとわかってはいる。でもなんだか我が身にも当てはまる気がして、こわくなったのだ。
それに、結婚話が破綻した直後の第三王女がいきなり遠方に行くなんて、どう考えても非常識な行動だ。そうでなくても驚いているレントリアの民たちを、また騒がせるわけにはいかない。
理性を総動員してそんなふうに考えると、エセルは立ち上がった。とりあえずいま行かなければいけない場所は寝室であり、眠くなくても横になって休むべきだと気づいたのだった。
けれど……実は彼女がまったく気づいていないこともあった。
アデライーダ女王の言葉が自分自身をさしているように思えたのは、エセルの気のせいだったわけではない。たしかに女王は、シャズのことをさすと同時に、エセルの気持ちを牽制する意味も込めて、その台詞を口にしたのだ。
そしてもうひとつ、あえて姫君には言わないものの女王側が知っていることがあった。ダズリー伯爵が騒動後のラキス・フォルトとじかに会い、会話していたことである。
つまりダズリーは、マリスタークの婚礼が打ち切られたあと一度王城に戻り、またマリスタークに行ってラキスに会い、そして本日の昼前に帰城するという、常ではありえない過密日程をこなしていた。
だが、そのことが三人の姫たちに語られることはなかった。
エセルも、そしてリデルやセレナも入れ替わり事件で頭がいっぱいになっていたため、それ以外について知るのは、それから数日たってからのことだった。