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分身たちを討伐しながら進んできたディーとレマは、ようやく集会所近くまでたどりついていた。
そこは集会所のちょうど裏手の道だったが、通り沿いの建物の中に、やけに人がたくさんいるのが見える。どうやら施療院らしく、怪我人たちが押し寄せているようだった。
もちろん、外に出るのがこわくてここまで来られない人々も多いだろう。
横を駆け抜けたディーたちは、この町で死者がひとりも出ていないことを祈った。
角を曲がり、いよいよ集会所のある通りに到着すると、ふたりはほっと息をついた。
皆の避難はすんでいるようだし、魔物たちも見当たらず、一見落ち着きを取り戻しているように見える。もちろん油断はできないが。
剣を構えて見まわしたとき、レマが急に小さく声を上げて小走りになった。何かをみつけたらしく、道を横切り反対側に向かう。
そして、道端の石畳に手を伸ばしたときだ。
突如として物陰から一体の魔犬が飛び出し、猛然と彼女に襲いかかってきた。
大きく目を見張ってレマが振り返る。
ディーがとっさに魔法剣を向け、魔性めざした銀の炎が剣身を駆ける。一気に噴出しようとした、その刹那──。
魔犬の姿が忽然と消えた。
ふたりの眼裏に残像だけを焼きつけて、霧のように消え失せた。
それは、同時刻に別の場所で闘っていたアレイとグリンナが、ケルベロス本体を浄化した瞬間だった。
アレイの剣と裏庭に駆け込んできたグリンナの剣が、同時に火を噴き、完全浄化を成功させたのだ。
ディーたちはほうけたようにたたずみ、魔物の残像を追いかけた。けれどすぐに事態を察すと、思わず顔を見合わせる。
「やったな、あいつら」
友人たちへの賛辞の言葉が、ディーの口をついて出た。
レマもうなずいたが、なぜか彼女はディーのようには喜ばず、緊張した面持ちを崩さない。
そして、あらためて道端にかがみこむと、落ちていたものを拾い上げディーに示してみせた。
ディーが思わず息を呑む。
魔法剣……。主の手から離れた魔法剣が、こんなところに。
その簡素な木製の柄には見覚えがあるし、そうでなくても、集会所のそばに落ちている剣の持ち主など、ただひとりしか考えられない。
ディーはやにわに周囲を見渡して叫んだ。
「ラキス!」
そのあたりに倒れているのではないかと思ったのだが、見当たらない。ふたりは名前を叫びながら、門に向けて走り出した。
門の内側で壁に押しつけられ、前も見えないままだったエセルは、炎の使い手たちの呼び声にはっとした。
もたれてくる身体の下から出ようとしながら、悲痛な叫び声を上げる。
「ディー! レマ!」
必死で顔を出すと、門内に飛び込んできたふたりの姿が見えた。
エセルたちの姿をみつけるなり、ふたりは蒼白になった。
駆け寄ったディーがラキスの状態を確認し、揺らさないよう注意しながら彼の身体を引き離す。
ラキスの唇から、苦しげなうめき声が漏れた。だがディーは、むしろ息があることに安堵したようだった。
「よし、生きてるな。ケルベロス本体は浄化した。安心しろ」
半魔の黒翼は血まみれで、両方ともずたずたに裂け、見るも痛ましい有様になっている。
けれど、もし翼がなければ、背中が直接このようになったにちがいない。幸い出血もいまは止まっているようだ。
ディーは施療院の様子を思い出し、医師や薬師をここまで連れてくるのはとても無理だと判断した。
動かさないほうがいいに決まっているが、なんとか向こうまで歩いてもらうしかない。
それを伝えて手を貸すと、怪我人はふらつきながらも自分の足で立ち上がった。ディーの肩に半分かつがれるようにしながら、よろよろと歩き出す。
レマのほうはエセル姫の身体をさすり、ドレスが汚れているものの無傷であることを確かめた。
ラキスよりも姫のほうが立ち上がるのに苦労していたが、レマの手を借り、こちらもゆっくり進みはじめる。
施療院は集会所の真裏にあり、通りから行くと大回りをしなければならないが、裏側を通ってしまえばずっと近い。
建物同士をへだてる塀もなかったため、ディーたちは石畳の道ではなく、舗装されていない敷地を横切っていこうとした。
と、ディーにもたれながら歩いていたラキスが、ふいに彼を弱々しく押しのけようとした。
「ディー……離れてくれ」
ディーが気遣いながら応じる。
「つらいか? すぐに着くから、もう少しだけ我慢して……」
「ちがう。おれから離れるんだ。──反転する」
ディーの表情がきびしくなった。
なぜラキスの出血が止まっていたのか、なぜ自力で歩けるのか。それは魔性が宿体である身体を修復しているからだと、悟ったのだ。
ラキスがさらに押そうとしたので、ディーは無言で足を止めると、相手が取りたがっている姿勢の補助をした。
地面に倒れ込むように、ラキスが身体を横たえる。
両腕で胴を抱きかかえて押さえつけ、きつく目を閉じて、内部から突き上げる激しい衝動を抑え込もうとしているようだった。
だがその背中では、ぼろぼろだった翼が音をたてて修復されていきつつあった。
折れていたはずの骨が、バキバキと伸びてもとの形状を取り戻し、裂けた飛膜が生気とともに黒々と甦っていく。
翼があたえる振動に身体を揺さぶられながら、ラキスが切れぎれに声を絞り出した。
「浄化してくれ、ディー」
返事がなかったため、叫ぶように促す。
「早くしろ! もうこれ以上……抑え……られな……」
見開いた瞳が緑色に輝いた。
衣服をつかんでいる両手の甲を、黒ずんだ銀の鱗が覆っていく。襟元から首筋にかけても、這い上がっていく鱗が見える。
「ディー。約束──」
大きく息が乱れて、言葉が続かなくなった。
かたわらで膝をついていたディーが、すばやく立ち上がり、剣帯にしまっていた魔法剣を引き抜いた。
輝く剣に驚いたレマが、思わず叫ぶ。
「やめて、ディー」
レマは、少し後ろでかがみ込み、すわりこんでしまったエセル姫を支えていた。
だがそのエセル姫も、ディーの行動にぎょっとすると、身を乗り出して声を上げた。
「ディー、やめて。わたし魔物でもいいわ。ラキスが魔物でもいい。お願い、討たないで!」
ディーは振り向きもせず剣を構えた。たまらず駆け寄ったレマに、鋭く言う。
「下がれ、レマ」
「やめてよ、まさか本当に」
「いいから下がってろ」
言うなり、彼は魔法剣の剣先を真下に向けると、ラキスの脇腹に思い切りそれを突き立てた。
魔法剣は、身体をつらぬき地面をつらぬき、柄の近くまで深々と刺さって止まった。
と同時に、白銀の炎が反転していく身体をあまさず包み、燃え上がる。
ラキスが絶叫した。
身体をよじって逃れようとしたが、剣で地面に刺し止められているため、逃れることができなかった。
完全な魔物とちがい、反転しきっていない半魔はすぐには浄化されない。白銀の炎は、着火すると蒸気のように透明なゆらめきに色を変え、浄化できるかどうかを見定めようとする。
そして鎮火していくこともあるのだが、そうならないことは、噴き上がる炎の勢いを見ればよくわかった。
透明な炎の渦にまかれて、ラキスはなす術もなく苦悶した。だが、その表情が突然ふっとやわらいだ。
和んだといってもいい。そしてそのまま、開けていた目を閉じようとした。
その瞬間、横にいたディーがラキスの胸倉をつかんで引き上げた。そして、いきなりその頬を平手で打った。
驚いたレマが、思わず非難の声をあげる。
するとディーが口走った。
「受け入れて意識をなくしたら終わりだ。浄化されちまう」
そしてふたたび、ラキスの頬を荒く叩くと、聞いたこともないような声で怒鳴りつけた。
「ラキス、おまえは人間だ! 浄化なんかされない。しっかりしろ、この馬鹿野郎!」
引き上げていた頭を地面に戻すと、ラキスが喉をそらしてうめいた。意識が戻ると同時に、肉体の苦痛も戻ってきたらしい。
レマがふたたびかがみ込み、喘いでいる相手に呼びかける。
「ラキス!」
それから後ろを振り向き、エセル姫に向かって叫んだ。
「姫様、呼んであげて。早く」
エセルは腰が抜けたようにすわりこみ、声も出ない状態だった。だが、レマの叫びで我に返ると、炎のただなかにいる彼に駆け寄り、すがりついた。
「ラキス、しっかりして」
姫自身の上半身が魔法炎に巻き込まれ、長い金髪が熱風にあおられるように逆巻く。
それでも姫の身体には何の変化もなかったが、横たわるラキスの翼のほうは、先端から白く燃え崩れはじめた。
「ラキス!」
白銀の火の粉を浴びながら、姫がいっそう強く叫んだ。心の中では、さらに強く叫んでいた。
行かないで。天になんか行かないで。ずっとわたしのそばにいて。
あなたと一緒に生きていきたい。もっと、もっと、もっと。
姫の声が聞こえたのか、ラキスが閉じていた瞳を薄くひらく。そしてすぐにふたたび閉じたが、その後は歯を食いしばり、ほとんどうめき声をたてなくなった。
それで、彼の意識がつながっていることがわかったが、意識があるからといって耐えられるわけではない。
こんな苦痛にさらされて身体が保つだろうかという新たな恐怖が、見守る三人をつかみ上げた。
それは、時間で測ればわずかな間の出来事だったのだろう。けれどラキスにとっても周囲の三人にとっても、永劫とも思える長い時間に感じられた。
だが、ついに──。
ついに炎の勢いがゆるみはじめた。少しづつ風が弱まり、もうもうと舞い散っていた火の粉の量が少なくなり、ゆらめきがおさまっていき……。
やがて完全に鎮火した。
「──フィーニス」
深いため息を吐き出したディーが、終わりを示す導の言葉を呟いた。
突き立っている魔法剣の柄に右手をかけ、そこに左手を添えてゆっくり引き上げていく。
剣帯にそれを戻しながら、倒れたままの昔馴染みを見やってささやいた。
「終了だ。……よくがんばった」
ラキスは汗にまみれ、焦点の合わない瞳をぼんやり開きながら横たわっていた。
寄り添っていたエセルが、彼のひたいに手を伸ばし、汗で張りついた前髪をそっとかき上げる。
彼女自身の指先もふるえていたが、その動作は明らかに相手を癒したようだった。
こわばっていたラキスの全身から力が抜けていく。吐息をつくと、安心したように瞳を閉じる。
不規則だった呼吸が落ち着き、寝息に変わっていくのを、エセルたち三人は声もなくみつめていた。
そして、魔法炎が成し得たことを、それぞれの目に刻みつけた。
横たわって眠る若者の背中に、黒い翼はもう見えない。
黒翼だけが浄化され、魔物の証はもうどこにも見当たらなかった。
第一部でラキスに翼がついたシーンを投稿したのが、2017年10月。
ようやく。ようやくここまでたどりつきました。
翼の出現と浄化に立ち会ってくださった皆さまに、心から感謝申し上げます。
どうもありがとうございました。
というと完結みたいですが、お話はなんとまだまだ続きます。
このあと、ディーサイドのイベントひとつ、ラキスサイドのイベントひとつ、両サイド合同イベントひとつ。そしてエピローグ。各イベントに10話くらいは使うので、エピローグまであと30話はかかる予定です(長いです……)
でもそれより前にディーの前日譚を書かなきゃいけないので、次回の投稿はそちらになると思います。
全然準備していないので、また遅れてしまいそうですが……。
今後もどうぞよろしくお願いいたします。




