35
集会所の敷地の門を走り抜けたエセルは、通りに出るといったん足を止めた。
通りの端で、ラキスが剣を握ったまま膝に手をつき、息をととのえている。
遊び過ぎたというところだろうか。そこまでやるのはやはり彼らしくないと、思わずにはいられなかった。
エセルはゆっくりと彼に近づき、かたい表情で声をかけた。
「ラキス」
顔を上げたラキスが、翠緑の目を大きく見開く。
彼にしてみれば、彼女はいまもっとも会いたくない相手だった。だが、そのせいで驚いたわけではない。
討伐したケルベロスたちが、本体ではなく分身であることを、彼はすでに察している。ケルベロス本体は別の場所で生きているのだ。
本体が生存している以上、分身たちも量産される。この周辺にだって、案外まだ隠れているかもしれない。
「勝手に出るな。中に戻れ」
ラキスは思わず強い声を出したが、姫君はそれに構わず、こわばった表情のままこう言った。
「ありがとう、魔物を退治してくれて」
言いながら、ふいに右手を伸ばす。そして、彼の手から魔法剣をひったくるや否や、飛びすさるように数歩離れた。
ラキスは不覚にも、まったく反応できなかった。意外すぎる行動に、ただ呆然として口走る。
「エセル、何を……」
剣の柄を胸に抱えるようにしながら、エセル姫が言い返した。
「これはわたしが預かるわ。討伐は終わったから、もう必要ないでしょ」
「終わってなんかいない。返してくれ」
「嫌よ」
「返すんだ、エセル」
エセル姫が、くるりと背中を向けて門のほうに走り出す。その華奢な背中を、ラキスの叫びが追いかけた。
「エセル!」
通り沿いの民家から出てきたアレイは、ふと立ち止まるとあたりを見やった。
彼の後ろにいたグリンナが声をかける。
「どうしたの?」
「いや、片づけが大変だろうと思ってさ」
通りの様子は散々だった。人っ子ひとりいなくなった石畳には屋台の商品が散乱し、屋台そのものが倒れてしまっているところもある。
はなやかだった祭りの風景は、いまや見る影もなかった。
だが、このあたりは怪我人が出ていないようだから、それだけで幸運だろう。屋台や商品が壊れても、作り手さえ無事ならやり直せるのだ。
「わたし、蜂蜜味の棒つきパンが食べたかったのに」
屋台を見たグリンナが残念そうに言う。
「ぼくは塩味だ。でも、本体をやっつけたらまた営業してくれるかも」
「そうね。じゃあ、さっさとやっちゃいましょ」
軽口を叩き合うのはいつものことだが、相手の冷静さをたしかめるためにあえて叩くこともある。いまがそのときだ。
おたがいの返答に満足したふたりは、うなずきあうと次の行動に移った。
彼らが出てきた民家は、両隣の家と軒を合わせるような近さに建っているが、左側には人が通れる程度の隙間がある。
ここを通れば裏庭に行けるので、アレイは表情を引き締めてそちらに足を向けた。
一方、右側の隙間は狭いうえにがらくたが積んであり、通り抜けることはできない。それでグリンナのほうは、右手から入れる場所をみつけるために、駆け足でアレイから離れた。
なぜなら、狭い敷地で魔物を挟み討ちにするためには、別の場所から入る必要があったからだ。同じ方向から入っていっても、双方で魔物を挟める位置を取るのは無理だろう。
たとえ、ケルベロスが獲物をむさぼり喰っている最中で、油断しきっていたとしても。
ディーたちと別れたあと、ふたりは分身たちを討伐しながら、魔犬の本体を捜していた。そしてつい先ほど、ようやく貴重な情報を得たのだった。
家と家の間の敷地、おもてからは見えない裏庭に、何匹もの蛇を絡みつけた野犬がいると。そこで人間を──人間らしきものを──喰い殺していると。
情報提供してきた住人とともに、アレイたちは家に入り、台所の裏窓から外の様子を垣間見た。
住人はずっと二階に閉じこもっていたため、自宅裏で起きていた惨劇にまったく気づかなかったらしい。悲鳴も聞こえなかったというから、被害者がここに引きずり込まれたときにはもう、喉笛をかき切られていたのだろう。
その被害者の身体は、すでに一部の骨しか残っていない。衣服すらもほとんどなかったが、少し離れた場所には、奇跡的に血飛沫から逃れた靴が片方だけ落ちている。
曲芸団の団員がよく履いている、派手な黄色い靴だった。
細い場所を進みながら、アレイは曲芸師の所業を思い出した。
サンクタ・ウィータ。どれほど自業自得でも、殺されていい命があるとは思わない。
誰にも邪魔されないこんな場所に引きずり込んで、肉を食み骨を砕き、全身の血をあますことなく啜り上げ──。
犬の口と蛇の口、そのすべてを使い、思う存分楽しんでいたのか、魔物。
おまえを表通りに解き放つわけには、絶対にいかない。
完全に気配を消して近づいたつもりだったが、やはり本体は気がついた。
振り向いた犬の身体は以前と同じ形状だが、両肩では何匹かの蛇がうねっている。巻きついているのではなく、肩から生えているのだ。
グリンナの姿はまだ見えないが、アレイは瞬間的に魔法剣を振り抜き、炎を相手に開放した。魔法炎は本体を輝く白銀で包んだが、着火まではしなかった。
一度でできないのは予想済みだ。アレイの剣から二度目の炎が飛び出し、日の当たらない庭を眩しく照らした。
日差しの下、集会所に面した通り道では、ラキスがエセル姫から剣を取り返そうと必死になっていた。
「エセル、それはおれの剣だ。あんたのものじゃない」
行く手をふさがれた姫君が、彼から逃れようと身体をひねりながら叫ぶ。
「知ってるわ。でも、いまはわたしが預かるの」
「どうして」
「あぶないからよ。だって魔法炎があなたに当たるんだもの」
エセルのほうも必死だった。炎がラキスに向かっていくのを見た以上、もう彼にこれを持たせるわけにはいかない。
魔法剣は、召喚した使い手自身しか使えないと聞いている。だから、本人から離しておきさえすれば安全なはずなのだ。
エセルの返答を聞いたラキスは、一瞬動きを止めた。魔物みたいに闘わないでほしい──そんな言葉を予想していたのに。
けれどすぐに我に返り、ふたたび剣に手を伸ばす。
「そんなことはどうでもいい。とにかく返してくれ」
「どうでもよくないわ。嫌よ!」
魔法剣の剣身は、物質に当たったときは鋼と同じだが、生粋の人の身体に触れればそれを突き抜ける。
だから、どれだけ剣を動かしてもエセルが傷つくことはないのだが、ラキスのほうはそうはいかなかったため、取り戻すのは簡単ではなかった。
業を煮やした彼は、力づくでやるしかないと姫君の右腕をつかんだ。あわてた彼女が、左手だけに剣を持ちかえ、遠ざけるため大きくそれを振り回す。
そのとたんに手がすべり、勢いのついた魔法剣がななめ上空に投げ出された。
剣は弧を描いて意外なほどの距離を飛び、石畳の道に音をたてて落下した。
ぎょっとしたふたりは、同時に振り向いて剣のほうを見やった。そして拾いに走ろうとしたが、直後、それが不可能であることを知った。
剣に足をかけ、踏みつけたものがいる。
赤い両眼をぎらぎらと輝かせた、ケルベロスだった。
ケルベロスはふたりに視線を据えると、獲物をみつけた喜びに震えながら剣身を踏み越えた。濡れた舌がせわしなく伸び、全身にみるみる力が溜まっていく。
ラキスはとっさにエセルの身体を抱き寄せ、みずからの翼を広げて飛び立とうとした。
だが、まさにその瞬間。
彼の片翼に、まったく予期せぬ激痛が走った。
背後から来たもう一体の魔犬が、広げた翼に噛みついたのだ。
痛みによろけながらも、ラキスが全力で回し蹴りを放つ。魔犬の身体が吹っ飛んだ隙にエセルの手をつかみ、集会所の門めがけて走り出した。
剣がないから応戦できず、痛みで翼も動かせない。建物に逃げ込むしか道がないのだ。
ラキスに引っ張られて走りながら、エセルは自分がしでかしたことの重大さに息も止まりそうだった。
後悔と恐怖で足がもつれて、あやうく転びそうになる。すぐそばにあるはずの集会所の門まで、なかなかたどり着かない。
転ぶ寸前のエセルをラキスが抱え込み、開けっぱなしの門の中にふたり同時に転げ込んだ。
そして門扉を閉めようとしたが、体当たりして魔犬が入ってきたため、閉めることができなかった。
ラキスは集会所の玄関扉に目をやった。閉ざされた扉、目の前に見えるその場所までの、絶望的な遠さ。
しかも追いかけてきた魔犬は二体。飢えた四つの赤い目が、容赦なく襲いかかってくる。
その瞬間、彼が思いついた行動はただひとつだった。
転んだ姿勢から起き上がろうとしていた姫君を、真横にある建物の外壁に押しつけ、彼女に覆いかぶさった。
エセルのほうは、急に身体を押さえつけられたうえ前がまったく見えなくなって狼狽した。
ラキスに抱きすくめられている。なんとかそれには気づいたが、そんなことをされる理由がわからない。けれど次の瞬間答えがひらめき、今度こそ息が止まりそうになった。
ラキスが盾になっているのだ。わたしを助けるために。
「ラキス!」
悲鳴のように叫びながら、エセルは彼の身体を押しのけようとした。だが、さらに強く抱きすくめられてますます動きがとれなくなる。
「ラキス、やめて」
叫ぶ彼女に、切羽詰まった彼の声がきびしく命じた。
「動くな」
「やめて。わたしなんかをかばわないで」
「動くな!」
乱暴に頭を押さえつけられ、抵抗できない。しかもその間にも、ケルべロスたちが彼に攻撃を加えているのがわかる。
盾になった身体から、受けている衝撃が伝わってくる。何度も何度も。
エセルは、かろうじて見えた自分のドレスが赤く染まっていくことに気がついた。彼の背中から流れ落ちてくるものを確認した。
「ラキス……!」
呼びかけると、浅い息の下からかすかな声が返ってきた。
──守らせてくれ。頼む。
抱きしめている腕の強さは変わらないが、彼の身体がどんどん重くなっていく。抱くのではなく、もたれかかっていくように。
やがて、腕の力が少しづつゆるんだ。彼女の背中にまわされていた手が、徐々に下方に落ちはじめた。




