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集会所の門扉から通りに出るや否や、ラキスは逃げてくる新たな集団に遭遇した。
皆、いかにも動きにくそうなローブ姿でよたよたと走っている。聖地巡礼でタリッサまでやってきた、巡礼者団体のようだった。
この集団が、飛び出してきたラキスを見るなり、一段と恐怖に満ちた悲鳴を上げた。真っ黒な翼を生やした新たな魔物だと思ったらしい。
至近距離だったので、勇敢にも闘おうとする者さえいた。
あまりにもうるさいうえに前が見えなかったため、ラキスは問題の翼を迷わず使って飛び上がった。
一気に視界がひらけて、向こうにいるケルべロスの姿が見える。一瞬でそれに狙いを定めると、集団の頭上から魔法剣を振り切った。
不安定な姿勢だったにもかかわらず、炎は驚くほどの威力で魔犬の全身を包んだ。
相手にしてみれば、いきなり落雷にでも当たった気がしたことだろう。それは周囲にいた人々も同様で、突然降ってきた光をみな呆然とみつめている。
雷? まさか、こんな晴天に。
だが、それが雷ではなかったことは、直後に空から舞い降りた剣士の姿が証明した。
剣士の背には魔物まがいの翼があったが、いまはそれより、右手に握る剣のほうが人々の注目を集めていた。
長剣は眩しい光を放ち、切っ先から炎の雫がこぼれている。
彼はわずかな間、浄化されていく魔物の様子に目をやった。ついで巡礼者たちのほうに向き直るなり、集会所の門を指さして叫んだ。
「建物の中に入れ。早く!」
我に返った巡礼者団体が、あたふたと門内に走り込んでいく。すると、それを見ていた通り沿いの住人たちが、次々に自宅の扉を開きはじめた。
住人たちは皆、恐ろしさのあまり扉を閉ざしていたのだが、ラキスの言動が彼らに勇気をあたえたのだ。
通行人たちの避難がいっせいにはじまり、にわかに通りが生き生きしてくる。老若男女が助け合いながら、近くでひらかれた戸口をめざす。
魔犬が幾度かあらわれて、避難民を襲おうとしたが、そのときは魔法剣が即座に力を発揮した。
そして大半の避難が終わり、騒々しかった通りがしんと静まり返ったとき──。
石畳の道に残っているのは、剣先を下げてたたずむラキスと、遠巻きに彼を囲んでいる三体のケルベロスだけだった。
ケルベロスは、もはや町民たちを求めてはいなかった。
激怒した三対の赤い瞳が、魔法剣だけをただひたすらに凝視している。灰色の毛並みは逆立ち、怒りによって剣身の炎を吹き消そうとしているかのようだ。
そんな相手を、ラキスは眉ひとつ動かさずにみつめ返した。
けして舐めていたわけではない。軽々と浄化したように見えても、魔犬たちの呪力が並みの強さではないことを肌で感じ取っている。
だが、それでもなぜか、負ける気はまったくしなかった。
いまラキスが感じていたのは、目の前の相手ではなく、魔犬をここまで分裂させてしまった人物に対する激しい怒りだった。
誰かが原因を作ったのだ。誰かが最初に悪意を向けて、こんな事態を呼び寄せた。
ケルベロスは、攻撃さえ受けなければ単なる野犬にすぎない。甘い菓子などが好きで普通に人になついたりもする、無害でおとなしい犬にすぎないのに。
こんなにたやすく分身が増殖したのは、町が虹祭りのさなかだったからだろうと、ラキスは思っていた。
人々はみな怖がっていたが、大事な祝祭をめちゃめちゃにされた怒りも同じくらい激しかったのだ。
町じゅうに恐れと憤りの感情が渦巻き、それが魔物を刺激しているにちがいない。
もちろん魔物だけでなく、おれ自身の中に巣食う魔性も──。
ラキスは、牙を剥いて飛びかかってきた一体の魔犬を巧みにかわした。さらに、もう一体の攻撃もすばやくよけてから、こちらには軽く魔法炎を放った。
炎は浄化にはいたらず、魔犬は身震いして火の粉をふるい落とすと、勝ち誇ったように吠えた。
だが、吠えた直後に輝く剣で斬り込まれたため、声はあえなく途切れ、銀色の炎に呑まれて消えた。
ラキスは横目でそれを眺め、空に舞い上がって上から討てば、二体くらい同時に浄化できるのではないかと考えた。
それをしなかったのは、自信がなかったからではない。そんなことをしたらすぐに闘いが終わってしまい、面白くなかったからだ。
自分の力が、ぞっとするほど強まっているのがわかる。そもそも以前は、飛びながら魔法炎を放つなんてできなかった。
ドーミエでレヴィアタンと闘ったとき、チャイカに乗っていたのはそのためだ。はばたきながら魔法剣を使えるとは、とても思えなかった。
なのにいまは……。
ラキスの片頬にわずかな笑みがのぼった。
きっといまなら、飛行中でも闘える。だがそんなことはしない。長引かせたほうが楽しめるから。
気分的には、レヴィアタンとの闘いで亀裂に飛び込みそうになったときと似ていた。いいじゃないか、このほうが強い。町の人たちだってみんな喜んでいる──。
そんなことを考えながら、けれどその一方で、彼は別のことも願っていた。いまの自分をエセルだけは見ないでほしいと、それだけを切実に願った。
エセルは見ていた。
集会所の広間の窓には鈴なりに人が集まり、みな手に汗握りながら外の闘いをみつめている。白い翼を引っ込めたエセルも、その人垣の間から剣士の姿を見守っていた。
彼の翼は一段と黒々と大きく見えたし、翠緑の瞳は炯々と輝き、一見魔物どうしが闘っているのではないかという印象さえ受ける。
だが、すっかり彼を信用した人々は、その挙動ひとつひとつに目を奪われ、浄化の炎に歓声をあげて喜んだ。異形の外見よりも、魔物を討伐してくれるという安心感のほうが大きかったのだ。
エセルも無論、はじめのうちは皆と同じようにラキスの闘いぶりに見とれていた。
けれど、彼女はほかの人々とちがい、以前からラキスのことをよく知っている。それで比較ができたため、次第にどうしようもない違和感を覚えはじめた。
わたしの目がおかしいの? ラキスがなんだか楽しんで闘っているように見える。本当は一発で浄化できるのに、あえてそれをしていないような──。
こんな闘いかたをする人だったかしら。それに瞳は、あんなにも緑色だった? 翠緑に変わったことは知っていたけど、あんなふうに光ってなんかいなかった……。
そう思いながらみつめるうちに、彼女はさらに重大なことに気がついた。
ケルベロスめがけて放たれている魔法炎が、ときどきラキス自身に向かっているように見えるのだ。
螺旋を描いて魔犬の周囲をめぐる炎、その先端がときに彼の腕をかすめている。一瞬だが、完全に当たったことさえあった。
ラキスもわかっているらしく、そのときはさすがに顔をしかめた。だが動きが止まることはなく、ひときわ速さを増してケルベロスを翻弄した。
やがて遊びが終わり──エセルにはそう感じられた──魔犬がすべて浄化されると、広間は一斉に歓喜の拍手に包まれた。
巡礼者団体を受け入れたため、広間は結構混雑していたのだが、みな周囲の人たちと顔を見合わせて、喜びを分かち合っている。
それは同時に、誰一人としてエセル姫を見ていない時間でもあった。
エセルはそろそろと後ずさると、広間の出入り口の扉に近づいた。
音をたてないよう気をつけながら扉をひらき、隙間をさっとすり抜ける。
用心深く閉めてから、ドレスの裾をたくし上げて玄関へと走りはじめた。




