33(ケルベロス)
大通りには祝祭らしい風景がひろがっていたが、一か所だけ奇妙に静止している場所があった。遠巻きの人垣ができている向こうから、野太い男の声が響いてくる。
「神聖な祭りの日に犬はいらねえ。あっちに行け!」
ぎょっとしたディーとレマが人々の隙間からのぞくと、杖のような棒を持って激怒している男、その足元に散乱する雑多な商品、そして一匹の野犬の姿が目に飛び込んできた。
おそらく、悪さして陳列台をひっくり返した犬を、露店の主が怒っているのだろう。
野犬はやせてみすぼらしく、弱々しそうに見えた。それで周囲の者たちも、店主がどうやって犬を追い払うか、興味本位で見守っているようだ。
だが、ディーたちはそれどころではなかった。腰に下げた魔法剣の中で、炎が暴れているのがわかる。人垣を押しのけながら、ふたり同時に叫んだ。
「やめろ!」
「やめて!」
制止の叫びは、しかし届かず、店主は手にした棒を犬めがけて振り下ろした。
本当に殴るつもりはなく、追い払うために大げさにしただけかもしれない。だが標的にされた犬が、嬉々として打たれにいったように見えたのは、ディーとレマの気のせいか。
頭を打ち据えられた野犬は石畳に這いつくばり、激しく身体を震わせた。人々は最初殴り過ぎだと思い、次に身震いが激しいせいで頭部が複数に見えるのかと錯覚した。そして直後、すべての思いを捨て去った。
膨れ上がった胴体があっというまに三つに裂けて、四肢を備えた魔物の姿に分裂する。
そこにいるのはやせた野犬ではなく、三体の身体に分かれた魔犬ケルベロスだった。
見物人が多かった分、悲鳴の量も凄まじかった。叫び声をあげた人々が、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
その混乱で興奮したらしく、ケルベロスは殴りつけた張本人の男ではなく、大衆のほうに向けて走り出した。
右に二体、左に一体。
本体とそっくり同じ顔かたち、灰色の毛並みと鋭い牙を持った魔犬が通りを駆ける。
ディーとレマは、目くばせしあうまでもなく二手に分かれた。ディーが二体のほうに向かい、レマが一体めがけて走った。
ディーの視線の先で、女の子が派手に転んだ。祭りのためにつけていた花冠が、石畳に投げ出される。
魔犬がそれを踏みつけた。ついで彼女の小さい身体に両前脚を乗せ、獲物をとらえた喜びに一声吠えた。
ディーの真横を、半狂乱になった女性が走り抜けようとした。子どもの名前らしきものを呼んでいる。
だがディーは、とっさに彼女を組み止めると、そばで棒立ちになっていた男に押しつけた。
母親だろうが何だろうが、駆け寄っても無駄だ。何より道をふさがれると邪魔になる。
次の瞬間、障害物のなくなった空間を、白銀に燃える魔法炎が突き抜けた。光芒を引いた炎が、子どもを噛もうとしていた魔犬の顔面を直撃する。
ディーの剣から放たれた、渾身の一撃だ。
ケルベロスの全身が炎に包まれ、銀色の松明となって燃え上がる。その松明が、爆発するように大きくなる。
女の子の姿までも銀色に呑まれて見えなくなり、人々は驚愕した。
しかし、火柱はそれ以上大きくはならず、ほどなく勢いを落として火の粉のかたまりに変わっていった。そして、みるみるうちに細かく崩れはじめた。
その部分だけを見れば、まるで日差しを浴びてきらめく粉雪のごとく──その粉雪の中、間一髪で命を救われた女の子が、伏せていた顔を上げる。
目をパチパチさせてあたりを見まわし、何が起きたかわからずにいるようだ。
歓喜した母親が今度こそ走り寄ったが、ディーはそれを見ていなかった。心はもう一体の魔物のほうに向いている。
どこだ。あの分裂の速さでは、本当に町中にひろがってしまうかもしれない。
幸いにも二体目はすぐにみつかった。こちらはこちらで、人々を大混乱に陥れているうえ、何人かをすでに傷つけているようだ。
だが、多すぎる獲物に目移りしているのか、あるいはもてあそんでいるのか、致命傷をあたえてはいないらしい。
ディーは再び魔法炎を放とうとしたが、そのとき自警団らしい男が脇道から走り出てきて、彼より先に魔物に迫ろうとした。
なんと長剣を構えている。武器を持っていないほうがましだと思いながら、ディーは叫んだ。
「半端にやるな。首を落とせ!」
面積の広い背中を狙っていた男が、予想外の注文をされて立ちすくむ。ディーは彼のそばまで走り寄ると、時間惜しさに予備動作もなく、薙ぎ払うように魔法剣を振った。
男の口から盛大な悲鳴が飛び出した。輝く剣が、よける間もなく彼の胴体を両断したからだ。
無論、斬られてなどいない。魔法剣は人間の身体を通り抜け、ただひたすらに魔性を求める。
男の腹部を通った剣の切っ先が、ケルベロスめがけて魔法の炎を噴出した。
一方、レマのほうは人々を逃がそうと必死になっていた。
逃がすといっても、遠くに行かせるわけではない。民家に入ってもらうのだ。
大通りは広場とはちがうため、両側には普通に民家が並んでいる。窓辺を花や旗で飾ったり、扉に輪飾りをぶら下げたりして、祭りを彩っている家々だ。
騒ぎに仰天した住人たちは、窓を閉め、かたく扉を閉ざしていたが、それを開けてもらうのが一番確実な避難方法だった。
魔犬相手に、いつまでも走って逃げ切れるわけがない。
協力に応じた家々が招き入れてくれたため、ある程度の人々はすでに中に逃げ込むことができた。だが、厄介だったのが屋台や露店の主たちである。
品物を置き去りにして盗まれることを恐れている、くらいならまだいいが、なかには頑として動こうとしない強者もいたのだ。
聖書の写本を平台に並べて売っていた女が、それだった。
「あたしはここにいる。犬なんか相手に逃げたりしないよ」
彼女が積まれた写本をかばうように覆いかぶさったため、レマは閉口した。
こういうものを売っている人というのは信仰心が非常に強くて、商売というより、聖書の普及のために店を出していることが多い。
けれど、判断力があるかないかは信仰とは別問題だ。
「大丈夫さ。星の神様があたしを守ってくださるからね」
得意げに叫んだ女を、レマは思わず怒鳴りつけた。
「まずは自分の足で逃げなさい。神頼みは最後の手段よ!」
腰にさげた魔法剣の内側で、炎が大きく跳ねた。レマは剣を抜きながら振り向き、迫ってきた魔犬と対峙した。
すでにレマは、この相手に対して何度か炎を放っていた。だが、まわりに人がいて思うように戦えなかったせいもあり、相手に炎が着火せず、浄化がかなわなかったのだ。
アレイとグリンナが二人がかりで仕留めたと言っていたが、その意味がよくわかる。とんでもなく呪力が強い。これをひとりで討つとなると……。
深呼吸して覚悟を決めたレマは、剣を構えるや否や魔犬に向かって突進した。
炎の使い手たちは、通常、魔物から離れて剣を振るのを鉄則にしている。単独でできないほど呪力が強い相手なら、複数で同時に炎を放つ。
一番効果が高いのは挟み討ちにする方法で、場所的にそれができるのであれば、なんとかその状態に持っていく。
魔法炎が最大限に強くなるのは、当然ながら魔物の身体に直接剣先を入れたときだ。
だが、そこまで魔物に近づくと、使い手自身の命が危ないのはもちろん、浄化の炎を浴びることにもなりかねないので、ステラ・フィデリスもそれを推奨していない。
とはいえ、やらなければならないことは往々にしてあるのだが。
レマは魔法剣をあえて高々と頭上に振り上げ、ケルベロスの視線を上に誘導した。
自分の胴体ががら空きになったが、魔犬は剣につられるように唸りをあげると、大きく跳躍しながら襲いかかってきた。剣身の炎に刺激され、レマだけでなく魔法剣自体に強い執着を示しているのだ。
その機を逃さず、彼女は逆に身体を丸めて、すばやくケルベロスの真下に入り込んだ。そして魔犬の瘴気に圧迫されつつ、相手の下腹めがけて思い切り剣を突き上げた。
さしもの魔犬も、これにはひとたまりもなかった。銀の炎が、中心部でみごとに着火し燃え上がる。みるみるうちに全身を包み、白銀のかたまりに変わっていく。
レマは、入り込んだときと同じすばやさで横に転がり、砕けながら落下してくるかたまりをよけた。
みずからが魔法炎を使役しているにもかかわらず、使い手たちは炎に触れると結構な痛みを覚える。瘴気を浴びる機会が多いため、感覚がそこだけ魔性に同化してしまっているらしい。
転がった姿勢から半身を起こし、息をはずませながら、レマは浄化されていく魔物の姿をみつめた。
この瞬間、彼女はいつも何とも言えない感慨に捉われるのだった。
討伐が成功したこと、そして自分自身が無事だったことへの喜び。当然ながら、それはある。
けれどさらに強く感じるのは、奇妙な切なさと……魔物の命を天に還してあげたという、敬虔さにも似た安堵の気持ちだった。
そのとき、彼女の耳に大切な人の声が聞こえてきた。
「レマ! 大丈夫か」
振り向くと、ディークリートが血相を変えて駆けてくるところだった。
レマは自力で立ち上がると、走り寄った恋人をみつめ返した。そして、今度こそ喜びと安堵を感じながらほほえんだ。
「もちろんよ」
怪我がないことを見て取ったディーが、やはり笑みを浮かべて応じる。
「よし。行くぞ」
この場所はとりあえず落ち着いたようだが、とにかく本体を探さなければならない。
使い手ふたりは、連れ立って再び走り出した。
ちょうど、それと同じころ──。
集会所の広間では、方舟伝説の舞台のために集まっていた人々が、水を打ったように静まり返っていた。
野犬だと思っていたものが、殴られたとたん分裂する。そんな信じがたい光景を窓から目撃して、言葉を失っていたのだ。
なぜ、こんなことに……。
神聖な祝日、誰もが楽しんでいたはずの虹祭りのさなかに、いったい何が起きたというのか。
その思いは、立ち尽くしているエセルとラキスにしても同じだった。
エセルは怯えながらラキスに寄り添い、ラキスは彼女の肩を抱いていた。
建物の扉も部屋の扉も、しっかり閉まっている。ここにいる限りは安全だ。
ラキスは自分に言い聞かせたが、魔物に気づくのが遅れたことを悔やまずにはいられなかった。
けれど、早く気づいたところで、討伐しに外に出られたわけではない。護衛が自分ひとりである以上、姫君から離れることはできないからだ。
それにしても、タリッサにケルベロスが出たなんて聞いたこともないのに、どうして……。
魔犬が曲芸団の荷馬車に紛れ込み、遠方から旅してきたことを、ラキスは知る由もない。
本体が曲芸師を追って小路に入り込み、分身のうちの一体は、アレイたちがすでに浄化。残る一体がディーやレマと遭遇したことも、無論知らない。
その一体が、ディーたちに会う前にすでに分裂し、その分身がまた分裂して町なかに散っていたことも、ラキスには想像できないことだった。
野犬を追い払おうとする猛者たちが多かったせいで、集会所のある通りでもケルベロスは分裂した。
獲物に目移りして興奮している状態は、どの通りでも似たようなものだったため、死者が出る事態にはなっていないようだ。
だが時間の問題だろう。
「ラキス……」
エセルがすがるように彼を見上げた。
「町の人たちを助けてあげて。ここは大丈夫よ」
すると、まわりにいた人々が一斉に同調した。ここにいるのは聖堂関係者ばかりなので、普通の人々よりも救済意識が強いのだ。
ラキスは逡巡したが、ためらっている暇がないのはわかっていた。
魔法炎が剣身の中で唸りをあげている。このままでは殺戮がはじまってしまう。しかもエセルの目の前で。
彼は剣の柄を握りしめると、周囲の人に姫を頼んで部屋から走り出た。
剣を抜きながら、単身、外に飛び出した。




