32
姫君たちを残して集会所を出たディーとレマは、しばらくの間、無言で通りを歩いていた。
やがて固い声でレマが言った。
「離して」
すでに赤みが消えた顔には、どことなくつらそうな表情が浮かんでいる。
「ラキスたちを煽るためにやったんでしょう。もう離して」
ディーが足を止めて、彼女を見下ろした。そして、言われたとおり組んでいた腕をほどくと、呟いた。
「悪いな、煮え切らない男で」
「わかってるならちゃんと向き合ってよ……ローデルクと」
「そうだよな……」
ローデルク家の庶子は、軽くため息をついた。
「でも、さっき言ったことは本当だよ。一緒に歩けば、嫌な思い出もいい思い出に変わるっていうのは」
わずかにためらってから続ける。
「……おれとふたりで祭りを見るのは嫌か?」
レマは、自分から腕を絡ませたくなる衝動を、どうにかこらえた。
「そんなわけないでしょ」
できるだけそっけなく言い返すと、彼女は先に立って中央広場のほうに歩きはじめた。
その後ふたりは、気分を新たにして、祭りの中心となっている広場をぶらぶらと見てまわった。
買い物をしたり何かを食べたりする余裕はなかったが、にぎやかな人並みの中、ずらりと並んだ露店をのぞいているだけでも、雰囲気を楽しむことはできる。
めずらしい異国の細工物を売る店から、職人がその場で品物を手作りしている店まで、店頭は多彩だった。
他方に目を転じれば、悠然とバグパイプを鳴らす楽師たち。派手な衣装を身に着け、相方の肩に乗ったり逆立ちしたりしている軽業師たち。
祝祭ならではの光景は、若い使い手ふたりの心を十分に和ませた。
広場を出て少しまわりを歩いてから、そろそろ戻らなければという話になった。
肝心のお姫様と半魔は、ちゃんと話ができただろうか。
あまり早く帰ったらお邪魔かもとレマが言い、いや、喧嘩して仲裁を待っているかもとディーが言う。
思わず笑い合ったあと、ディーはふと、前方から近づいてくるきらきらした小さな光に気がついた。
意外なことに、それはエルフだった。せわしなくはばたく薄羽とたなびく金髪が、日差しを浴びてきらめいている。
エルフはディーの前まで来ると、彼の顔をしげしげとみつめた。
それからあわててさらに近寄り、小鳥のように肩にとまって、大きく口をひらいた。
ディーもレマも仰天した。妖精の口から、甲高い叫び声が飛び出したからだ。
【ディー! あたしよ、グリンナよ】
「グ……グリンナ?」
訊き返すディーには答えず、甲高い声は続けた。
【やったわ、アレイ。つながった!】
これはディーに向けられたものではなく、グリンナの心の声がそのまま伝わっただけらしい。エルフの交信を体験するのは久しぶりだったが、まさかこんなところでやることになるとは思わなかった。
ディーは思わずあたりを見まわし、声の主である炎の使い手の姿をさがした。だが見当たらず、切迫した声だけが聞こえてくる。
【ディー、いまどこにいるの。建物の中?】
「いや、外だ。オリーブ通り」
【そっちに魔物は行ってない?】
ついでグリンナが放った台詞は、創星の神を寿ぐ祝祭にはあまりにも似合わないものだった。
【ケルベロスが出たわ。もう分裂してる!】
教えられた通りめざして走ったディーとレマは、やはり走ってきたグリンナたちと、息をはずませながら合流した。
彼らの説明によると、分裂した三体のうち一体は、その場で討伐したという。だが呪力が強くて、ふたりがかりで炎を放たなければ浄化できなかったそうだ。
その間に一体は逃げ出し、もう一体は──おそらくこれが一番肝心な本体なのだが──曲芸師を追いかけて走り出した。
酔っ払いにもかかわらず、あれだけすばやく逃げられた曲芸師は、たいした運動能力の持ち主だといえるだろう。それに人格が伴っていれば、もっとよかったのだが。
この曲芸師が、障害物の多い小道に入り込んでいってしまったため、魔物もあとを追い、両者ともに姿が見えなくなってしまった。
二手に分かれて魔犬をさがそうというアレイの言葉に、ディーは躊躇した。エセル姫の護衛という、優先させるべき任務があったからだ。
だが、アレイもグリンナもディーの返事を一蹴した。
「町はどうなる。早くしないとどんどん分裂して、手遅れになるぞ」
「姫様は室内で、しかもラキスが一緒でしょ。なら平気よ。やつら扉は破れないわ」
「幸いエルフがいるから、おたがい連絡を取り合って本体を……あれっ?」
赤毛の使い手が、急に間の抜けた声をあげて周囲を見まわした。グリンナも同じくきょろきょろしてから、憤慨して叫ぶ。
「まあ、あの子たち逃げたわ。なんてすばやい」
「しかたない、連絡はなしだ。ディーたちはあっちの通りを当たってくれ。ぼくたちはこっちに行く。頼んだぞ」
あっちとこっちを手で指し示したあと、使い手たちはディーの返事も待たずにバタバタと駆け出した。駆けながら言い合う声が聞こえていたのが、こんなときでも彼ららしかった。
「ちゃんとつかまえといてよ」
「それはこっちの台詞だ。握りしめてればよかったのに」
「うるさいわね」
もちろん言い合いを聞いている場合ではないし、躊躇している場合でもない。ディーとレマは、アレイの指した「あっち」が集会所方面であることに感謝しながら、ともに走り出した。
たしかに一刻を争う。ケルベロスというのは、分裂を繰り返して何体にも増えるのだ。こんなことになってしまった以上、アレイたちの言葉を呑むしかない。
ケルベロスは犬の形態をした魔物だった。
普段は魔性をかくしているため、単なるおとなしそうな野犬にしか見えない。そして実際、行動もおとなしいので、町をうろついていても案外気づかれないことが多い。
ところが、このおとなしい犬が、ひとたび命に関わる攻撃を受けるや否や、魔物の本性を取り戻す。三つ首の姿に戻り、しかもその後、胴が分かれて三体の魔犬に変化する。
厄介なのは分裂が一度にとどまらないことだ。三体それぞれが、攻撃されるたびに増殖していく──これがケルベロスのおそるべき特徴だった。
とはいえ、はてしなく増え続けるのかと言えばそんなことはなく、止める手立てはちゃんとあった。本体を討つことだ。
三つ首の中央にあった首を持つのが本体であり、これを討つと分身たちも消滅するのである。
文字通り一瞬で霧散する、あっけなさ。そのため、分身は本体が見ている夢ではないかとさえ言われていた。
そういう事情なので、討伐で一番大事なのは本体をみつけることだった。おそらく本体はもう、普通の犬の形状を保っていない。見ればひと目でわかるはずだし、そうであってほしい。
そう願いながら角を曲がったディーとレマは、次の大通りに入ったとたん息を呑んだ。




