31
閉じた扉を見やりながら、ふたりはしばらくの間、じっとその場にたたずんでいた。
どちらも無言だ。非常に気まずい時間が流れたのち、ふと、ふたりの目が合った。
だが、エセル姫は勢いよく首を振って視線をはずした。それでラキスは、姫から顔を背けられるという苦行に耐えなければならなかった。
でも、仕方ない。これはきっと、自分がかつて姫君を派手に無視したことへの報いなのだろう。
エセルに目をそらされ続けるという、ここ数日の経験は、ラキスに嫌でも王城での日々を思い起こさせていた。
勇者様と呼ばれながら王城で暮らしていた、あの冬の日々。
あのとき自分は、お姫様と別れるために、あえて露骨なやりかたで彼女を無視した。何度も何度もあからさまに視線をそらした。
そうすれば、姫が自分に愛想を尽かすだろうと思ったし、愛想を尽かされたほうが自分自身も楽だったからだ。
だが……。
知らなかった。目をそらされるという行為が、こんなにこたえるものだったなんて。
そのエセルは、ラキスに構わず、視線をそらした先にある壁画にじっと見入っていた。
最初は眺めていただけだったが、いまは真面目な表情に変わっている。精緻に描かれた聖画の世界に引き込まれたらしい。
それは、タリッサ聖堂の祭壇画を模したもので、本物のような板絵ではなく壁に直接描かれたフレスコ画だった。
蝶番でつながれた板絵は十連以上あり、祭壇の後ろ全面を飾っている。それに比べて、こちらは三連しかない小規模なものだ。
それでも、聖書の場面を想像させるには十分な出来栄えだった。
描かれているのは、大人の女性の姿をした天つ御使いで、三連すべてで美しい立ち姿を見せていた。
ただ、その表情はずいぶんちがう。
一番幅の広い中央絵では、御使いは幸せそうにほほえんでいる。
背景になっているのは、虹祭りの由来たる虹の架け橋。まろやかな手が抱いているのは、三角形の角部分を切り落としたようなかたちの小さな琴だった。
それに対して、中央絵より細長い左右の絵に立つ御使いは、何も手にしていない。なぜなら、両手を合わせて悲しげに祈っているからだ。
左の背景は、下半分に青系の顔料で複雑な曲線が描かれ、それが洪水であることを想起させる。
そして右の背景は、やはり下半分が曲線だが、色は赤系だった。この色は、洪水よりもはるかな昔に起きた、人と人、国と国同士の大戦を表すのだと伝えられていた。
喜びの隣に悲しみを置くのは、レントリアの聖画としては馴染み深い構図だ。いまの世の幸せが、悲しみを経た先に成り立ったのだということを、人々が忘れないようにするための構図なのだった。
右側の絵を凝視していたエセルが、ふっと口をひらいた。
「信じられないことだけど……昔は人と人との戦があったのね。魔物と人ではなく……」
ラキスは目を見開いた。彼女の言葉を聞いたからではない。
聖画に触発されたのか、姫の背中にかくされていた純白の翼が、少しづつあらわれ伸びあがっていったからだ。
光を帯びたように白い両翼が、しだいにかたちを取っていく。まるで天つ御使いに見守られているかのように。
それに気づいているのかいないのか、姫君は身じろぎもせずに続けた。
「いまはもう、そんな戦なんてどこにもない。でも……悲しいことに、やっぱり間違ったことはいまだに起きてしまうのよ」
「……そうだな」
「わたしはそれを正したいの。半魔と呼ばれている人たちが、そんな呼び方をされなくてすむような世の中にしたい。そのためにも、今日の聖劇はとても大切よ。だから精一杯演じたいと思っているわ」
「おれもそのつもりだよ」
と、ラキスが応じた。エセルに言われるまでもなく、それは彼の心からの声だった。
だが、少しは和らぐかと思った姫の表情は、あいかわらず固いままだった。
そして、ふいにまったく別のことを問いかけてきた。
「この劇が終わったら、あなたはどうするの」
ラキスが静かに答えを返した。
「レントリアを出ていくよ」
エセル姫が、ゆっくりと振り向く。
「そう……。やっぱりね。そうだと思ったわ」
それから、目を伏せると平坦な声で続けた。
「やっぱり、わたしのことがそんなに嫌いなのね」
ラキスの反応はいくぶん遅れた。何を言われたかわからなかったからだ。
「……いま、なんて?」
二度言うことが大変なのか、エセル姫は眉を寄せると、つっかえながら繰り返した。
「わたしのことが、そ、そ、そんなに嫌いなのね」
ラキスは、お姫様をまじまじとみつめた。
彼女の発言が想定外だったことなら、いままでにも多々ある。だが今回ほど突飛だったことは、もしかするとなかったかもしれない。
姫は真剣そのものの顔つきで、にらむようにこちらを見ている。大きな瞳が、こころなしか潤んでいるようだ。
「わかってるわ。本当はわたしの顔も見たくないんでしょう。でも劇が大切だから、無理してくれているのよ」
「ちょっと待て」
ラキスがたまらずさえぎった。
「顔も見たくないと思ってるのはそっちだろ。おれを見るたびに目を背けるじゃないか」
臣下の礼以降、ラキスが自分から視線を合わせないようにしていたのはたしかだ。親しくしてはいけないと、始終自分に言い聞かせていたから。
けれど、彼女が公然とそっぽを向くようになってからは、それを確認するのが嫌なあまり、目をそらすようになってしまっていた。
エセル姫が、怒ったような声で言い返した。
「あなたを見るなんてできないわ。嫌われていると思うとつらいんだもの。だから一生懸命、見ないようにしてたのよ」
「………は?」
「だってわたし、あなたとは全然ちがう、こんな翼がついてしまったし」
エセル姫は本気だった。
ルーシャで自信をなくしてからいままでの間に、姫の脳内ではいつのまにか、そこまで話が進んでしまっていたのだ。
いまの自分の、ラキスとは真逆といっていい姿。そして過去の自分の、誤った言動の数々。
それらを考えれば考えるほど、好きになってもらえるはずがないという気持ちが膨れ上がってくる。
それを示すために、彼女は理由を並べ立てはじめた。
「そもそもわたし、嫌われても仕方ないほど、あなたにひどいことしたわ。あのとき天幕であとずさったこと、本当に申し訳なかったと思っているの」
「なんでいまごろ、そんな話をするんだ」
と、動揺したラキスが口をはさんだ。
「その件はとっくに終わったはずだろ。おれは全然気にしてないし、エセルだって王城に帰ってから何度もあやまってくれて……」
「いいえ」
と、エセルが強い口調でさえぎる。
「あのときのわたしは、本当にはわかってなかった。半魔と呼ばれる人たちのこと、まったくわかっていなかったのよ。ルーシャに来て、はじめて知ったの。王女のくせに、こんなことも知らなかったなんて」
「それは……」
「まだあるわ。あなたは結婚式にわたしを助けに来てくれて、コンラート様の……シャズの犯罪をわたしに説明してくれた。なのにわたし、全然それを信じなかった。人違いだとかなんとか言い張ったのよ」
「いきなり言われて、信じられなくても無理ないよ」
「ほら、怒らない」
エセルの声に確信がこもる。
「あのときもそうだったわ。信じないほうがエセルらしいって、言ってくれたわね。あなた、やさしいのよ。それなのに」
エセルは、肩をふるわせて息を吸い込んだ。そしてついに、もっとも大きく心を占めていた事実を吐き出した。
「わたし、わたし、ほかの男の人と結婚しようとした。わたしが本当に結婚したいのは、ラキスだけなのに。それなのに、ラキスを裏切ってほかの人と誓いを立てようとしたわ。ほかの人のために花嫁衣裳を着て、星の神様の御前に行って、本気で誓いを……」
その続きを、彼女は言うことができなかった。身体に圧力がかかり、息ができなくなったからだ。
ラキスの両腕が、彼女を引き寄せ、抱きしめていた。背中がきしみそうに強い力だった。
「……エセルに嫌われたと思ってた」
うつむいた自分の顔を、姫の頭に押しつけながら、うめくように彼が呟いた。
「嫌われても仕方ないと思ってた。でも……」
目をみはったエセルが、かすれる声をなんとか押し出す。
「嫌う……? わたしがラキスを? まさか」
「ごめん」
「………」
「勘違いしてごめん。つらい思いばかりさせて……ごめん」
抱きしめて謝罪を繰り返しながら、ラキスが味わっていたのは、かつてないほど激しい葛藤だった。
エセルの言葉がうれしかった。
信じられないほどうれしくて、引き寄せずにはいられなかった。
けれど、彼女の体温と息遣いを感じたとたん、悲鳴のような警告が自分の中で鳴り響いた。
彼女にさわるな。いつ反転するかしれない身体で、彼女を抱きしめたりするな。いますぐに離れろ。
──そんなことできるわけないと、ラキスはぼんやり考える。
でもだからといって、エセルの言葉に応えてあげることも、またできない。おれも同じだ、なんて言えない。おれもエセルと……なんて絶対に言っちゃいけない。
謝罪する言葉も途切れ、黙り込んだ彼の耳に、エセルの声が聞こえてきた。
「わたしこそ……わたしこそ勘違いしてごめんなさい」
ラキスは何も言えないと思っていたが、エセルに言葉はいらなかった。抱きしめられている。彼女にとっては、それだけがすべてだったのだ。
全身から彼の心が伝わってきて、エセルはいま、深く納得していた。
ラキスはわたしが好きなんだわ。
そうよ、わたしはそれをよく知っている。彼と出会ったときから、誰よりもよく知っている。
なのに嫌われているなんて、どうして思ってしまったのかしら。
何も言わなくたって、彼の声がこんなにも聞こえてくるのに。
好き。好き。好き。
そうして──。
ふたりはどちらも黙ったまま、長い間、その場で抱き合っていた。
やがてエセルの耳のそばで、ラキスが困惑したように呟いた。
「エセル……」
頭がぼうっとなっていたエセルが、夢心地の声を返す。
「なあに?」
「どうしよう……。おれ、翼にさわれない」
彼女を抱きしめている自分の両手が、純白の翼を突き抜けていることに気づいたらしい。
「あ……。大丈夫よ、この翼は誰にもさわれないの」
「そうなんだ……」
「そうなのよ……」
しばらくすると、再びラキスが困惑したように呟いた。
「エセル……」
「なあに?」
「どうしよう……。みんなが見てる」
「………」
突然、ふたりは我に返って顔を上げた。
そして同時に部屋の後方を見やり、飛びすさるようにおたがいから離れた。
後ろにある扉がいつのまにかあいていて、楽団や聖歌隊が広間に入ってきている。
皆、ふたりと同じようにぼうっとなった顔つきで、身動きもせずこちらをみつめていた。
彼らは時間より前にやってきたのだが、声をかけることができず、いままでただ見入っていたのだった。
一同のほとんどは、エセルもラキスも見たことがなかったため、はたしてどんなふたりなのかと興味津々だった。
ただ、なかには懐疑的だった者たちもいる。いきなり方舟伝説を改変すると言われても、肯定できなかったのだ。
はたして、ろくな練習もせず演じられるものなのか。そもそも、それにふさわしいふたりなのか。王女はともかく半魔のほうは……。
加えて、一同の中には、マリスタークから来た聖堂関係者も混じっていた。
この人物は、タリッサの聖堂側から招待されて虹祭りに来ていたのだが、エセル姫にぜひとも会いたかったため、聖歌隊についてきた。
というのも、彼は以前、姫の婚儀に参列して、乱入事件の一部始終を見届けていた。
たしかに婚儀はゆゆしきもので、それを中断させた半魔はお手柄だっただろう。だがそれでも、あのときの半魔の態度がよろしかったとは、けして言えない。
そんな相手と聖劇に出るのは、いかがなものか。これはぜひ、練習を見て確かめなければ。
と、このように、様々な思いを抱いていた一同だったのだが──。
興味本位の者も文句を言おうとする者も、いまはどこにも見当たらない。
白い翼と黒い翼の抱擁に、誰もが魅入られ、声をたてることもできずに突っ立っている。
無言だったのは、翼を持った本人たちだけではなかったのだ。
「あの……姫様──」
と、一番先に職務を思い出した楽団長が、おそるおそる進み出た。
「たいへん申し上げにくいのですが、時間がなくて……。音合わせしてもよろしいでしょうか」
音合わせ、とエセルがぼんやり繰り返す。あやうく、なんのことかと訊き返しそうになったが、幸いその前に気がついた。
「もちろんよ。どうぞ」
正直、聖書の言葉を思い出せるかどうかすら疑問だったが、そのとき、楽師たちの間から透き通った音がやさしく響いた。
天つ御使いが好んで弾くといわれる、小さな琴──プサルテリウムの響きである。聖劇のために、ちゃんと用意されていたのだ。
エセルとラキスは、思わず顔を見合わせてほほえんだ。
音に導かれるように、集会所の広間が方舟伝説の世界へと変わっていく。
ごく自然に練習がはじまり、主演のふたりも、音楽に合わせて動作を確認しはじめた。
方舟の前にたたずむ、天つ御使い。静かに歩み寄って彼女を見上げる、黒翼の半魔。
御使いが手を差し伸べる。尊い御手に、半魔の手がふれる。
ふたりはともに、方舟に向かって歩いていく──。
その美しい情景を間近に見た者たちは、幸運だった。なぜならその日、聖劇は結局上演されなかったからだ。
少し前から外が騒がしかったのだが、皆、練習に夢中でそれにはまったく気づかなかった。
無論、普段のラキスであれば、誰よりも先に異変を察知したはずだ。
だが、このときの彼は、全神経をエセル姫に向けていたため、それに気づくのが大幅に遅れた。
ようやく気づいたのは、一番窓際にいた聖歌隊の少女が、何気なく外を見やって悲鳴をあげたときである。
広間にいた一同はその声に仰天し、窓辺に走り寄って息を呑んだ。
窓の外では人々が逃げまどい、狂暴な魔犬がそれを追い回していた。




