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準備といっても、旅の発案者である次期王配に較べて、雇われ護衛兵がやるべきことは少ない。
とりあえず、ディークリートにとって一番肝心な準備は、タリッサに行くために気持ちを整えることだった。
あの場ですぐに返答できなかった自分に、彼は結構な苛立ちを感じていた。
聖劇の必要性は理解できたし、警護が必要なこともわかっている。しかもアルヴァン卿とエセル姫からは、何か決意でも秘めたような、ただならぬ緊張感が伝わってきた。
負担の大きい役回りであるラキスが、迷うことなく承諾したのは、それを感じ取ったからだろう。
それなのに単なる護衛の自分が、子どもじみたこだわりのせいで同行をためらうとは……。
ディーは、復興作業で身体を動かしながら、気合いを入れ直そうと考えた。だが彼が現場に移動しようとしたとき、声をかけてきた者がいた。意外なことにラキスだった。
「ディー、ちょっといいか。話があるんだ」
無口なはずの昔馴染みが、自分からこんなことを言い出すのはめずらしい。ディーはうなずき、人気のない宿屋の裏手に移動先を変えて、ラキスと向き合った。
宿の裏手の草原には、きのうまでキンレンカが咲き乱れていたが、薬の材料として重宝されたおかげでずいぶん数が減っている。
ふたりですわれるような気の利いたベンチもなかったため、ディーは樹木に寄りかかり、ラキスは木の柵に軽く腰を乗せた。
声をかけてきたわりに、ラキスの話はなかなかはじまらなかった。どのように言い出せばいいか考えあぐねているらしい。
そこでディーは、自分が抱いていた思いを先に口に出すことにした。
「聖劇の話……よく引き受ける気になったな。姫に近づいた半魔ってことで、風当たりがきつくなるかもしれないぜ」
ラキスは目を上げると、肩をすくめてみせた。
「どれだけきつくなっても平気だ。どうせ祭りがすんだらこの国を出ていく。エセルやアルヴァン卿に風が当たらないように、全部おれが持っていくよ」
「……やっぱり決意は変わらないのか」
「ああ」
ディーは返す言葉をさがしたが、適当なものをみつける前に、ラキスが別の質問を投げかけてきた。
「ディーこそ、よく護衛を引き受けたな。迷ってたみたいだから、断るんじゃないかと思ったよ。タリッサの虹祭りに何か問題でも?」
今度はディーが肩をすくめる番だった。
「別に何も。ただのくだらない感傷だ」
言った瞬間に、気持ちが定まったような気がした。本当にくだらない感傷だと腑に落ちたのだ。
目の前の半魔が抱えている難題や、エセル姫たちが抱えているらしい何かの事情にくらべたら、自分のこだわりなど取るに足りない些末事に過ぎない。
感傷という言葉をラキスが聞きとがめたので、ディーは自分に言い聞かせる意味も込めて説明した。
「昔、一度だけタリッサに行ったことがあるんだ。……ステラの前主座と一緒に」
「前主座……」
ステラ・フィデリスのいまの主座はマドリーンだが、前の代が誰であるかはラキスも知っていた。
ブランゼウス・ローデルク。
みずからの命を賭してレヴィアタンと闘い、勇者様の名をほしいままにした英雄だ。と同時に、庶子というかたちでディーをこの世に放り出した問題人物でもある。
「虹祭りに合わせて行ったんだが、祭りはともかく前主座のほうは不愉快なだけだった。だからタリッサにはいい思い出がなくてさ。でも、いつまでもひきずるようなことじゃない。頭を切り替えるにはちょうどいい機会だよ」
ラキスは考え込むように、少しの間、口を閉ざした。
ディー自身が思っているほど、この問題が彼にとって軽いわけではないことを、ラキスは感じていた。
このところ何度かディーに会っているが、彼が炎の使い手としてめざましく成長していることが、ラキスの目にもよくわかる。
だがディーの中には、コルカムで実家など大嫌いだと言っていた少年も、いまだに住み続けているらしい。
そんな昔馴染みにいまから自分が言うことは、たぶん余計な負荷をあたえるだろうと、ラキスは考えた。
しかし、ディー以外に言いたい相手がいるはずもなかったため、多少のためらいを感じながらも切り出すことにした。
「事情はわかった。とにかく、おまえが護衛をしてくれるのは助かるよ。エセルもアルヴァン卿も喜んでたしな」
コルカムの昔馴染みは、胡散臭そうな目つきを向けると呟いた。
「いやに素直だな……。そんなことを言いたくてここに来たわけじゃないんだろ。本題を早く話せよ」
「………」
「暇なわけじゃないんだ。さっさと話せ」
「じゃあ、さっさと」
ラキスは言うと、本題を非常にさっさと相手に伝えた。
「実は頼みごとがある。ディー。タリッサにいる間にもしもおれが反転したら、おまえに浄化してもらいたい」
「……なんだと?」
「万が一の話だよ。もちろん反転する気はないが、念のため」
「………」
「魔物になって人を殺す側にまわるのは、絶対に嫌なんだ。かといって警備隊に討伐されるのも、できれば避けたい。やっぱり魔法剣で浄化してもらいたいんだよな。自分の剣でやるのが一番いいんだろうけど、自分で自分を浄化するなんて聞いたことがないし。失敗したあとじゃ遅いだろうから、頼めるうちに頼んでおこうと」
「………」
「ディーが引き受けてくれなければ、レマにやってもらうしかない。でもおれとしては、おまえにやってもらいたいと思ってる。おまえの魔法剣で深淵じゃなく天に」
「そんな大事をペラペラと勝手にしゃべるな!」
不機嫌そのものの顔つきになったディーが、怒鳴るようにさえぎった。話を中断させられたラキスが、むっとして言い返す。
「さっさと話せって言っただろ」
「ラキス」
もたれていた樹木から背中を離すと、ディーはつかつかとラキスに歩み寄った。
相手を見下ろし、にらみつけながら告げる。
「インキュバスの二の舞を演じるつもりなら、いまこの場で斬ってやるぜ。普通の剣で」
夢魔との闘いで相討ちを選び、その夢魔に一時期取り込まれていた若者は、無言で相手をみつめ返した。
それから、強い意志が宿る瞳で、きっぱり言い切った。
「あのときのおれとは違う。あきらめて死ぬつもりも、魔物に身体を渡すつもりもないよ。約束する」
「約束?」
「ああ。だが、何度も討伐を経験した剣士として、万が一を考えないほど楽観的でいることもできない。だから」
そこまで言って、彼はふっと目を伏せた。
「……厄介なことを頼んで、ごめん」
ディーは身じろぎもせずに押し黙り、かなり長い時間、相手をみつめていた。そして低い声で答えを返した。
「わかった。引き受ける」
ラキスの顔に明らかな安堵の表情が浮かんだ。それを苛立たし気に眺めながら、ディーは続けた。
「おれも約束する。もしものときは一発で浄化してやると。ただし」
つけ加えた声には熱がこもっていた。
「そんなことにはならないと思っている。反転だかなんだか知らないが、おまえは人間だ。カイルとリュシラはおまえを人間として育てたんだ。魔物になんかなるはずない」
それだけ言うと、ディーはラキスから数歩離れた。
予定通り復興現場に行って身体を動かし、ついでに頭を冷やしたいと思ったからだ。これ以上、ここで会話を続けたくない。
だが、そちらに向けて歩き出そうとしたとき、再びラキスの声がかかった。
「ディー」
「まだ何か?」
「ありが──」
ディーは皆まで言わせなかった。
「気持ち悪いこと言うな!」
不機嫌の極みに達した使い手は、すわったままの昔馴染みに背を向けると、大股で立ち去っていった。