24(方舟)
聖書──聖なる魔法の書──は、かつて地上で大洪水が起きたとき、人々が一隻の方舟で難を逃れた話をいまに伝えている。
舟をつくったのは、創星の神からの啓示を受けた正直者の船大工だった。
彼は家族や仲間たちと協力し合って舟を完成させると、皆でそれに乗り込んだ。続いて様々な動物たちの番も、啓示のとおり舟に乗った。
神は、人間やほかの生き物たちが水底に沈んでしまうことを良しとしなかったのだ。
その後、嵐が吹き荒れ大洪水が発生したが、方舟は壊れることなく持ちこたえ、生き物たちはみな命をつなぐことができた。
やがて大水が引いていき、地面が再びあらわれたとき、空には祝福するように大きな虹がかかっていた──。
これが方舟伝説なのだが、何しろはるかな大昔のことなので、方舟自体はもうどこにも残っていない。ただ洪水で流されている間に舟の細かい破片が散ったらしく、それが聖遺物として、いまもいくつかの聖堂で保管されている。
そうした聖堂のある町で、神への感謝を込めてひらかれるようになったのが、虹を冠した祝祭なのだ。
「文章もいいけれど、聖劇はやっぱり格別だったわ」
何年か前の記憶を思い起こしながら、エセルが呟いた。以前タリッサではない別の町の虹祭りに行ったことがあるのだが、そこで鑑賞した一幕の劇はとても心打たれるものだった。
聖堂内でおこなわれる劇だから、もちろん方舟があるわけはなく、舟べりや桟橋に見立てた木製の舞台装置が置かれているだけ。娯楽用の演劇とはちがうので、役者が台詞をしゃべることもない。
それでも、聖歌隊の歌が状況を教えてくれるし、天つ御使い役に選ばれた少女が登場すれば堂内の感動は一気に高まった。
天からつかわされた天つ御使いは、神の啓示を人間たちに伝える大事な存在だ。劇では、舟の前に立つ天つ御使いにひとりづつ礼をして乗り込んでいく人々と、ほほえんでそれにこたえる御使いの様子が、丁寧に描かれていく。
聖歌隊だけでなくゆるやかな楽の調べも加わって、場の雰囲気を盛り上げる。
船大工や家族は大人たちの役どころだが、続く動物を演じているのは、まだあどけない子どもたち。動物らしい耳をつけたり角をつけたり、あるいは翼をつけたりとそれぞれ工夫しているところが、大変かわいらしくて印象的だった。
「わたしも何度か見ていますが、いつ見てもすばらしいですね。動物たちもかわいくて」
と、アルヴァンがエセルに同意してうなずいた。それから、ごく何気ない調子でこう続けた。
「ただ、その動物たちのことですが。あれは聖書の中で、もともと動物ではなく人間として語られていたらしいですよ」
「え……?」
「つまり、尖った耳や角や翼を持った人間です」
「………」
エセルは思わず息を引いた。ラキスもディーもレマも、みな目を見開いて次期王配の顔を凝視する。
アルヴァンは、おだやかな口調を崩さないまま言葉を続けた。
「聖書というのはご存じのとおり、最初は口伝で各地の伝説や逸話などを寄せ集めたものでした。やがて書物のかたちで編纂されるようになりましたが、地方によっていろいろな版があり、内容も少しづつちがっています。わたしはそれを調べるのが好きでね。気ままに研究していたところ、ごく最近、第六章の方舟伝説に異説があるのをみつけた次第。これがどうも異説というより発祥だったらしく……。時を経るうちに変化したものがあらわれ、そちらが主流になっていったようですが」
「要するに」
一人語りのように続くアルヴァンの話を、ふいに無感情な声が断ち切った。
「半魔は動物以下になったわけですか」
ラキスは、底冷えするような翠緑の瞳をじっとアルヴァンに向けていた。無表情ではあったが、こんな話を聞いて平静でいられるはずがない。
その視線を、アルヴァンは逃げることなく受け止めた。ここでこの若者の信頼を得られずして、何が次期王配だろうとさえ思っていた。
「そう思うのも無理ないことだが、もとの話も地方によってはちゃんと残っているよ」
「都で採用されなきゃ意味がないでしょう」
「そう、そのとおりだ」
と、アルヴァンは認めた。
「そういうわけで、ここからがわたしの頼みごとになる」
一呼吸おくと、彼はラキスからエセル姫のほうに視線を移した。そして、午前中から考え続けていたことをはっきりと伝えた。
「姫様。姫様とラキスでタリッサに行き、聖劇を演じていただけないでしょうか。わたしは方舟伝説をもとのかたちに戻したい。本物の翼を持つおふたりなら、それができると思っています」