21
まず黒翼が生えて、それから瞳の色がはしばみから完全な緑に変わった。それだけでも十分すぎると思ったが、あいにくまだ足りなかったらしい。
左脇腹だけだった銀鱗の範囲が、徐々に広がってきている。左半身の背中から肩甲骨の上、そして肩へ、肩先へと──。
「あんたたちが使い手でよかったよ」
と、ラキスが苦笑した。
「逃げ出さずに聞いてくれるもんな。証拠、見る? 背中って自分じゃ見えないんだけど、間違いないと思う」
炎の使い手たちは、ふたりとも絶句していた。
相手が嘘をついていないことは、見るまでもなくわかる。剣の中の炎が、反転という言葉の真実味を持ち主たちに教えていた。
「いつから……」
ようやくディーが問いかけると、大討伐の日の夜からだとラキスが答えた。
「レヴィアタンの呼気をさんざん浴びたから、魔性が我慢できなくなったのかな。おれにもよくわからないよ。だが何にしても──」
緑色の双眸が、まっすぐレマのほうに向けられた。
「こんな状態でエセルのそばにいることはできない。これで納得しただろ」
「は……反転しているのはいまだけよ。きっと途中で止まるわ」
動揺したレマが早口で言うと、ラキスは否定せずにうなずいた。
「そうだな。もしかすると」
続いてディーが呟いた。
「もとに戻るかもしれない。ドーミエのジンクたちは一斉にもとに戻った」
「そうだな。もしかすると」
ラキスはこれにもうなずいたが、すぐにきびしい目つきになった。
「だが、たとえそうだとしても。いつ魔物に変わるかもしれない男が、姫とともに生きることはできない。反転の可能性がわずかでもある時点で、失格だ」
レマは気圧されたように黙り込んだ。しかし肯定したくなかったため、別の質問をすることで反論しようとした。
「エセル様には話したの?」
「……いや」
「話すべきよ。ディーから教えてもらったけど、あなたがインキュバスに同化していたとき、エセル様は自分から内部に入ってきてくれたんでしょ?」
「……」
「そこまで強くあなたを思っているんだもの。話せば必ず受け入れてくれる。逃げ出したりなんかしないわ」
「だからだよ!」
ふいにラキスが、我慢しかねたように声を荒げた。
「だから余計、駄目なんだ。逃げてくれるならいい。でも逃げずに飛び込んでくる姫だから、おれのほうから離れなきゃいけないんだ。じゃないと、また──」
気持ちの高ぶりに揺さぶられて、声がふるえた。
反転を自覚してからというものの、ラキスは何度も考えたのだった。インキュバスの中にエセル姫が呑み込まれた、その瞬間のことを。
だが、どれだけ考えても思い出せなかった。
魔物に同化していたとき少しでも正常な意識があれば、呑み込むのを阻止しようとしたはずだ。けれど自分は、身も心も青灰色の闇に取り込まれてしまい、何ひとつ制御できなかった。
だから。
「おれはまた彼女を呑み込んでしまうかもしれない。あのときは奇跡的に助かったが、奇跡なんて二度と起きない。こわいんだ。今度こそ取り返しのつかないことになると思うと。だから、そうなる前に」
「そうなる前に離れるの? ともに生きることを……エセル様が望んでも?」
レマの問いかけに、ラキスはためらわず答えを返した。
「望んでも」
けれどそのあと、確固とした彼の口調がふっと緩んだ。少し目を伏せ、苦い笑みを浮かべて呟く。
「でも……望まないんじゃないかな」
「え?」
「彼女、昨日から全然おれを見ないんだ。ずっと避けてる。さすがに嫌になったんじゃないかと。自分の背には純白の翼、こっちは真っ黒なうえ目の色まで変わってるんだから、嫌われても文句は言えないよ」
「そんなこと……」
本当はエセルにも全部打ち明け、そのうえで別れを言うつもりだったのだとラキスは続けた。だが、いまはもう、打ち明ける必要はないと思っている。わざわざ話して、彼女の心をかき乱すことはない──。
「……たしかに」
無言で昔馴染みの話を聞いていたディーが、低い声で口をはさんだ。
「その話を聞いて、それでも第三王女のそばにいろとは、おれには言えない」
「ちょっとディー」
レマの抗議にかまわず、先を続ける。
「おまえの言うとおり、可能性があるだけでも危険だ。離れるというのはまともな判断だと思う」
言ってから、軽くため息をついてたずねた。
「別れたあとはどうする?」
ラキスはしゃがみこむと、散らばった樹皮や植物を手早く拾い集めた。
籠をぶらさげ立ち上がりながら、この国を出て隣国にでも行くつもりだと告げた。
「とりあえず、ここから行きやすいのはエシアかな。ただルーシャがこんな状態だから、もう少し手伝おうとは思っている。支援部隊でも来てくれればいいんだが……」
そこでディーは、支援部隊が来ることを昔馴染みに教えた。それから、人家の集まる方角に歩き出しつつ、自分たちがなぜこの村に来たのかをざっと説明した。
昨日エセル姫に同行したあと、ディーとレマは王城内にある兵舎に泊まった。キリシュに帰るには遅い時刻だったし、姫君が別れを惜しみ、明日また話がしたいと言ってくれたからだ。
それで言葉に甘えたのだが、今日の早朝、突然使いの者が来て、新たな契約を結びたいと言ってきた。
雇用主は女王陛下ではなく、意外にもアルヴァン卿だった。これから魔物討伐のためルーシャに向かうから、炎の使い手たちにもぜひついてきてもらいたいという。
急な仕事にとまどったディーたちだが、ルーシャにはすでにエセル姫が行っているはずだと聞いた以上、依頼を断る理由はなかった。
「援軍が来てくれるのか。よかった、見捨てられたわけじゃないんだ」
ラキスの表情が、安堵のために明るくなった。
「誰も来てくれないんじゃないかと心配したよ。すごくいい村だから、廃村にでもなったらどうしようかと思った」
使い手ふたりは、人の心配をしている場合かと言いたかったが、なんとかこらえた。
柳の木々が並んだ低い場所から、傾斜のついた草むらを上がって田舎道に出ると、遠くにいくつかの民家の屋根が見えた。火災の被害は受けていない家々だ。
一歩先を歩いていたラキスが、ふと思いついたようにレマを振り返った。
「そうだ。マリスタークで聞いたけど、クリセダの黒魔術師を捕まえてくれたんだってな。ありがとう。礼を言うよ」
めずらしく真正面から感謝されて、レマがまたも動揺する。
「わたしは別に……。アレイとグリンナもいたし、ディーに言われたとおりにやっただけよ。お礼ならディーに言って」
するとラキスはディーに目を向け、その顔をじっとみつめた。それから口をひらいた。
「おまえ、なんでレマと結婚しないの?」
礼はどうしたとディーが唸り、レマが無言で赤面した。
「もうとっくにしてると思ってたのに、まだみたいだよな。求婚してないのか」
「もちろん、している」
真顔になってディーが答えた。
「ところが、この女が承諾しない。何がそんなに不満なんだか知らないが」
ラキスが目を丸くしてレマを見る。
「ディーを待たせてるのか。さすがの余裕だな」
「何が余裕よ!」
レマの声が急激に高くなった。次の言葉をさがしあぐねて、ひと呼吸おいたのち、強い口調で言いはじめた。
「いいこと思いついたわ。ラキス、あなたディーと組みなさいよ。ふたりで組んでメイデンシャイムに行けばいいんだわ」
「なんでメイデンシャイム?」
「この人、メイデンシャイムのステラに誘われてるのよ」
「へえ、引き抜きか」
と、ラキスが再び目を丸くする。ディーがうんざりしたような声をあげた。
「何を言い出すんだ。あれは断ったって言っただろ?」
「いいえ、断ることないわ。ふたりで行けばいい。あなたたちが組めばきっと、一支部分くらい稼げるわよ。わたしは降りるわ」
言うなり、男たちにくるりと背を向ける。小走りで進みはじめた彼女のあとを、ラキスが急いで追いかけた。
「待てよ、レマ。別に怒らなくてもいいだろ」
レマの返事はつれなかった。
「わたしに近寄らないで! あんたを見てると切なくなるわ。こっちに来ないで」
「なんだよ、それ」
「視界に入るのもお断りよ!」
「普通そこまで言うか?」
出遅れたディーは、恋人──彼の認識では──と黒翼の昔馴染みの後ろ姿を、突っ立ったまま眺めていた。
それから、自分が遅れをとっていることにやっと気がつき、あわててあとを追いはじめた。