19
そういうわけで、エセル姫は少年の看病をしながらルーシャでの夜を過ごした。
といっても、気合を入れるほど看病が大変だったわけではない。少年は高熱だったがそれほど苦しそうではなく、ひたすらおとなしく寝ているだけだったからだ。
ただ、ひたいに当てた濡れ布巾を取りかえたり、暑そうにしているとき団扇であおいであげたり、容体が急変しないかどうか気にかけるといった配慮は必要だ。
そして、そうやって少年を気遣うことは、別の意味でエセルの役に立っていた。ラキスに対するどうしようもない思いを、一時的にせよ押しのける役割を果たしていたのである。
実のところエセル姫は、過去に経験したことがないほど、ラキスに対して自信をなくしていた。
合わせる顔がない──ひとことで言えばそんな心境だったのだが、半魔と呼ばれる人々の生活やその本音に接したことが、自信喪失にいっそうの追い打ちをかけた。
彼らについて、自分がいかにいままで無知だったかということを、突きつけられた気がしたからだ。
でも……。
わたし個人の感情や事情なんて、いまはどうでもいいんだわ。枕元で少年を見守りながら、姫君は自分に言い聞かせた。
ティノが早くよくなるように、そして村が早く復興するようにと祈ることのほうが、よほど大切。いまのわたしにはそれくらいしかできないんだもの──。
養い親のイリいわく、成長過程の子どもが精神的ショックから発熱するのは、それほどめずらしいことではないらしい。
ティノの場合も、過去に突然寝込んだ経験があるそうで、最初は周囲もわけがわからずあわてふためいた。だが、子どもは一日二日でけろりと平熱に戻ったという。
芸術家は繊細ですからね。歌ばかり歌っている子のことをそんなふうに評して、養い親は苦笑した。
そんなものかしら? 半信半疑で首をひねったエセルだが、イリの見立てが正しかったことは、翌朝ちゃんと証明された。患者の熱がゆうべよりずいぶん下がっていたのである。
すやすや、と形容していいようなティノの寝顔をみつめて、彼女は心底ほっとした。
一晩つき添ったおかげで、とんがり耳までが前よりかわいらしく見える。そもそも、この子が魔物に襲われたのではないかと案じるあまり、王城を飛び出しルーシャまでやってきたのだ。
こんなに静かな再会になるとは思わなかったが、ティノが無事だっただけでも星の神様に感謝しなければならないと、エセルは思った。
もうつき添いは不要なようだったので、朝食後の姫君は──最低限の朝食でもイリの調理はすばらしかった──別の仕事をこなすことにした。
本格的な看護の補助は無理でも、厨房を手伝ったり食事を運んだりすることくらいはできる。
きのうからずっと働き続けていることになるが、何しろじっとしていると余計な気持ちが湧き上がってくるため、やるべき仕事があるのはありがたかった。
最初は恐縮しきりだったイリや宿の主人のトーベも、姫君の熱心さと親しみやすい態度に押され、徐々に仕事をまわしはじめた。
そのうちに村長が訪れ──皿洗いしている姫を見たときは気絶しそうになっていたが──あらたな依頼を持ち込んだ。
村の中央にある施療院のほうも慰問してもらいたいというのだ。
エセル姫はもちろん承諾し、施療院におもむくと、眩しい翼を披露しながら皆を元気づけた。
そんなふうに忙しい一日が過ぎ、日が傾き始めたころ、姫君は食堂の一角のテーブルで本日最後の作業に没頭していた。
治療所となっていた食堂に患者の姿はなく、いまは足りなくなった薬をつくる作業所に変わっている。作業の中身は傷薬の精製で、材料となるのは野原で咲き乱れていたキンセンカの花だった。
それ自体が炎のように明るい色彩のキンセンカは、火傷によく効く薬としても知られている。かごいっぱいに摘んできた花を、煎じて油に浸してから布で漉し、別の油と蝋に混ぜ込めば軟膏の完成だ。
イリや手伝いの村人たちもいたのだが、入院患者たちの食事時間で皆そちらにまわり、この場にいるのはエセルひとりになっている。
混ぜるにつれて重くなる木べらを懸命に動かしていたとき、ふいに新しい手伝いが加わった。
エセルから木べらと器をひったくったのは、女性の手だった。その手が、すごい勢いでたちまち軟膏をこね上げる。
驚いて横を見ると、そこにいたのは旅装束姿のレマだった。
「何をなさっているんです、姫様」
と、憤懣やるかたない表情でレマがうめいた。
「こんなところにたった一人で、おいたわしい」
「レマ、どうして……」
「ラキスはどこです。なぜ姫様のおそばにいないんですか? 彼、この村に来ていますよね。魔法剣を持った半魔がいるという話を聞いたので、きっと彼だと」
いきなり問題人物の名を出されて、エセル姫はたじろいだ。
「か、彼は彼で忙しいのよ。別にわたしについている必要はないわ」
「護衛は?」
「村のみんながとてもよくしてくれるの。護衛なんていらないのよ」
だが、エセルは実は気づいていた。今日一日の間、ラキスの姿が何度か自分の視界の隅に映ったことに。
いずれも離れた場所であり、映っていたのも一瞬だった。といっても、エセルがすぐに目をそらしてしまったせいで一瞬に見えたのかもしれないが。
多分彼は、お姫様の様子を時おり確かめに来ていたのだろう。そして安全が確認できると、近づきはせずに去っていく。
姫の仕事の邪魔はしない。臣下だから……もしかすると、本当に臣下だと思っているから? それとも、単にわたしと話したくないだけなのかも──。
「そんなことより、どうしてレマがここにいるのか教えて」
考え込みそうになったエセルは、あわてて別の方向に頭を切り替えながらたずねた。
彼女の護衛でシンセリ聖堂まで行ったのが、もはやずいぶん前の出来事のように感じるが、きのうの昼間の話だ。そのあと王城で別れたはずなのに、ここでまた会うとは思わなかった。
するとレマが、非常に簡潔に答えた。
「わたしとディーは、今朝アルヴァン卿に雇用されたんです。それで殿下の用意してくださった船に乗り、ここまで参りました。殿下のほうは支援部隊をととのえてからいらっしゃるので、到着が明日になってしまいますが……」
「支援部隊? アルヴァン様が?」
「ええ」
「よかった……!」
エセルは思わず声をあげた。涙が出そうなほど安堵したのだ。
くわしい事情はわからなかったが、そんなことはまったく気にならないほどうれしい言葉だった。
「アルヴァン様が来てくださるのね。よかった。本当によかったわ」
声をふるわせてから、はっと気づいてつけ加える。
「レマ、それをラキスにも知らせてあげて。彼もすごく喜ぶと思うの。いまどこにいるか、わたしは知らないんだけど……」
レマはどことなく釈然としない色を浮かべつつ、姫君の顔をみつめていた。
それから、考えてもわからないと思ったのか、肩をすくめるとこう答えた。
「大丈夫ですわ。彼のほうにはディーが行っていますから、ご安心ください」