16
一瞬、夢ではないかとさえ思った姫の身体は、抱きとめたとたん明らかな現実の重みを持った。
たしかな体温。息がかかるほどにお互いの顔が近い。
地面に降りたち彼女を下におろしても、ラキスはその背中にまわした腕をはずすことができなかった。身体を添わせたまま、言葉もなくじっとみつめる。
エセルのほうは、まだ夢の中にいるような心地でラキスを見上げていた。つい先ほどまでリドに乗って<星の道>を翔けていたので、頭がぼんやりしてしまい、よくわからなかったのだ。
すぐ目の前に、会えるはずのない若者の顔がある。見開かれた彼の瞳を不思議そうにみつめながら、夢見るように呟いた。
「緑色……」
ラキスがはっとしたように身じろぎして、姫の身体を離した。同時にエセルも我に返る。
「ラキス、どうしてあなたがここに」
口走りかけたところで、急に思い立って声を高めた。
「ここはモードリッジね。リドったら勝手に。わたし、ルーシャに行かなきゃいけないのに」
天馬の姿はもうどこにも見当たらない。例の気まぐれさを発揮して、役目はすんだとばかりに空の中に引っ込んでしまったのだ。
冷静になったラキスが彼女に教えた。
「ここはルーシャだよ」
「……」
「おれは昨日、モードリッジからこっちに来たんだ。エセルこそ、なんだってこんなところに」
「わたしは……ルーシャが魔物に襲われたと聞いて、心配でいてもたってもいられなくて……」
そのとき、突然外野から大きな声が割り込んだ。
「ちょっと待てよ。エセルだって?」
別の声が即座に続く。
「まさかエセルシータ姫? 王族の?」
エセルは、ぎょっとして周囲を見まわした。そして、自分がいつのまにか大勢の人々に取り囲まれていることに気がついた。
広場にいた村人たちが集まってきて、空から突然あらわれた娘のことをみつめている。みな王族という言葉を聞いて興奮しているようだ。
普通ならそんな突飛なことは信じられなかったかもしれない。だがエセルの姿には、彼らにそれを信じさせるだけの力があった。
村や町の娘はもちろん、領主の娘ともまったくちがう、光に洗われたような清らかさ。
可憐だが気品に満ちた顔立ち、完璧に手入れされた長い金髪。華奢な身体はおそらく最高級であろう絹のドレスに包まれている。
しかも天馬に乗ってあらわれたとなれば、もう身分を疑えるはずもない。
群衆の中のひとりが、感に堪えないような声をあげた。
「あたしたちを助けるために、わざわざここまで来てくれたんですね」
それを聞いたとたん、人々のざわめきがにわかに大きくなった。どの顔にも笑みがひろがり、ほっとしたように隣どうしでうなずきあう。
「なんてありがたい……!」
「これでもう安心だ」
エセルはあわてて人々の声を否定しようとした。魔物の被害を案じていたのはたしかだが、救助のことまで考えていなかったのだ。
「ちょっと待ってください。わたしに皆さんを助けるほどの力は……」
だが、彼女の声はまわりの興奮にかき消されてしまった。みな不安のどん底にいたところだったから、ここで拒否されては大変だとばかりにすがり寄ろうとする。
「そんなこと言わずに助けてください、エセル様」
「お願いします。おれたちすごく困ってるんです」
「エセル様が無理なら、女王様に、女王様に伝えてください。あたしたち、今日のことだけじゃなくずっと苦労続きで……。住むところだって追われて、でもやっとこの村で暮らせそうだと思ったのに、火事でみんな焼けちゃうなんて。いったいどうすればいいんだか」
エセルは思わず身体を引いた。人々の輪が一気に狭まり、その圧力に気押されたのだ。
軽くよろけると、後ろにいたラキスに背中が当たった。彼の鋭い声が飛んだのは、その直後だった。
「第三王女の御前だ。控えろ」
群衆を足止めするに十分な声を発すると、ラキスはすばやくエセルの耳元に顔を寄せた。そしてささやいた。
「翼があるって本当?」
「え……」
「見せて」
彼女の返事を待たずに促す。
「見せて。早く」
エセルは反射的にうなずくと、目を閉じて深く息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出しながら、背中に意識を集中させ、両翼が伸びていく様子を思い描く。
突っ立っていた村人たちは、今度こそ本当に無言になってその光景をみつめた。
そうでなくても神々しく見えていた姫君の背中から、白い何かがあらわれて徐々に上に伸びていく。何かは純白の色を濃くしながら、次第にはっきりしたかたちをとる。
それが天つ御使いそっくりの翼だと気づくと、広場にいたすべての人々から、いっせいに驚嘆のため息がもれた。
数歩さがって彼女をみつめていたラキスにしても、それは例外ではなかった。
エセルは静まり返った人々を見渡した。
第三王女として、翼の持ち主として、それにふさわしい言葉を言わなければならないときだと理解したのだ。
下腹に力を入れ、背筋を伸ばしてから口をひらく。
「皆さんの苦境はよくわかりました」
前ばかり見ないよう左右にも気を配りつつ、心をこめて語りはじめた。
「とても残念なことに、わたしは皆さんをお助けできる手段を何ひとつ持っていません。でも、なんとかしてお役に立ちたいと思う気持ちだけは本物です。微力ですが、いまのわたしにできる限りのお手伝いをさせていただきたいと思っています」
「お……お姫様が……あたしたちを手伝ってくれるんですか?」
群衆の最前列にいた高齢の女が、勇気を振り絞って問いかけてきた。
「こんな半魔だらけの村で、本当に手伝いを……?」
エセルは勇敢な相手をみつめ返した。
女性の大きな両耳は、生粋の人間とはまったくちがい、魚の胸鰭に近い形状をしている。それを確認しながら、しっかりとうなずいて見せた。
「もちろんですわ。外見の問題も種族の問題も、何ひとつ関係などありません」
「お姫様……」
「ここに住まう誰もが等しく、レントリアの大切な民。半魔や生粋などという言葉で人を量るなんて、このうえなく愚かなことです。女王陛下も常々そう仰って……」
ふいにエセルは言葉を止めた。
かたわらにいたラキスが、わずかに怪訝そうな色をうかべてエセルを見やった。聴衆は気づかず、姫君の言葉にひどく感動しながら、次なる発言を待っている。
ここは特につっかえてはいけない部分だ。むしろ、もっとも強く言って然るべき部分であるはず。
エセルは続けようとしたがうまくしゃべれず、無理やり押し出した声がふるえた。
「常々……仰って……」
それ以上話したら、聴衆が異変に気づいたかもしれない。
だがそうなる前に、ラキスが動いていた。
黒々とした翼の彼は、白い翼が目にも眩しい姫君に一歩近づくと、ごく自然な動作で地面に片膝をついた。
そして臣下の礼をとり、静かな声で謝意を伝えた。
「お言葉うけたまわりました。畏れ多くもうれしく思います」
それから顔をあげて、真摯な眼差しで姫君を見上げながら言い切った。
「アデライーダ女王の御代に、光あれ」




