15(ルーシャ)
西空にたなびく雲が、夕陽を受けて橙色に照り映えている。
だが、いまのルーシャでその美しさに目を向ける者はいなかった。赤く燃えるものを見るのは、皆うんざりだったからだ。
ラキスが泊まっていた宿屋前の広場では、被害にあった村人たちの炊き出しがおこなわれていた。
食堂用の大鍋を外に持ち出しスープをふるまっているのは、宿屋の主人夫婦だ。着の身着のまま焼け出された大勢の人々が、食べ物と休息を求めて集まっている。
ベンチにすわる者、草地にへたりこんでいる者、あるいは横になっている者と格好は様々だったが、疲れ切っているのは皆同じだった。
早朝に突然としてあらわれたペルーダの群れは、思うさま村中を走り回ったあげく、結局は再び地中に戻っていった。
昨日牧場にいた幼体ではなく、その倍以上も長い胴体と尻尾を引きずった成体たちだ。それらが短い四肢で土煙をたてて走る様子は、恐ろしいとしか言いようがなく、朝から外で働いていた人々は悲鳴をあげて逃げまどった。
魔法剣をつかんだラキスは、逃げる人々をかばいつつ、自警団の男連中とともにしばらくの間応戦した。
だが、やがて彼は妙なことに気がついた。群れはどうやら獲物を求めて走っているわけではないようなのだ。ただ異常に興奮し、暴れまわっているだけに見える。
これならもしかすると、かくれていればやり過ごせるのでは──その予想通り、毛むくじゃらの竜体たちは、家に逃げ込んだ村人を追う素振りもなく、あらわれたときと同じ唐突さで地中にもぐり消えていった。
といっても状況がよくなったわけではない。魔物たちがとんでもない置き土産を残していったからだ。地面に戻る前にあちらこちらで火を吹いたのである。
複数のペルーダの口が放った真っ赤な炎は、そばにあった家屋の壁や木々に引火し、またたくまに燃えあがった。
魔物を恐れ息をひそめていた人々が、今度は逆に家から飛び出して火の手から逃れようとする。
木造の家が燃え落ちるのはあっというまだ。漆喰壁と瓦屋根の家はまだしも、木組みと藁ぶきの小さな家々は、なす術もなく炎の渦に巻かれて焼け落ちていった。
人々にできたのは、延焼しないよう火災周辺の建物を打ち壊すことくらいのものだった。
防火のために水を溜めている家などほとんどなく、あったとしても消せる範囲は知れている。井戸水を桶のリレーで現場に運ぶことができても、火の勢いのほうがはるかに強い。
鎮火させる唯一の方法は、建物が全焼するのを待つことだけなのだ。
幸いにも町のように建て込んだ場所がなく、無風の天候だったため、村全体が焼け野原になる悲劇が起きることはなかった。
一時はあちこちで上がっていた黒煙も次第に細く消えていき、夕暮れにさしかかったいま、燃え続けている場所は見当たらない。焼け跡に熾火が残っているかもしれないから、もちろん油断はできないが。
木の椀につがれたあたたかいスープを飲み干すと、ラキスはほっと息をついた。
彼にとって、今日一日の大騒動は完全に予定外のものだった。
本当なら都に向けて旅立つはずだったのに、本日やったことは、燃える家から住人を引っ張り出したり塀を打ち壊したりするという滅多にない労働。昨夜せっかくベッドでとった休養が台無しだ。
いまから出発するのはさすがに無理だから、仕方ないが今夜もここに泊まらないと……。
そんなことをぼんやり考えていたとき、広場に集まった村人たちの間から金切り声があがった。
「どうすればいいんだい、あたしたち」
顔も衣服も煤だらけにした女が、半泣きになりながら叫んでいる。彼女の横では両親らしい老夫婦が力なくうなだれていた。
「家も家畜小屋も蓄えも、何もかも全部焼けちまった。明日からどうやって暮らしていけばいいのさ」
うちも丸焼けだよ、と別の方向から共感の声が飛んだ。それをきっかけに、あたりの皆が我慢できなくなったように不安を叫びはじめた。
ラキスは最初、口をはさむつもりもなく聞き流していた。旅人の自分が加わるべき話題だとは思えなかったからだ。
だが、ふいにひとつの台詞が耳に入り、彼ははっと顔を上げた。
それは、誰かが口にした「領主様が助けに来てくれるよ」という言葉に対する、反論の声だった。
一人の男が立ち上がり、肩をふるわせながら叫んだのだ。
「来ないぜ、領主様なんか」
男の両耳の上あたりからは、羊のように丸く曲がった角が突き出している。明らかな半魔の彼は、青ざめた顔を引きつらせて続けた。
「何度魔物があらわれても、全然来てくれないじゃねえか。助けてくれる気がないんだよ」
皆が絶句したように静まり返った広場の中央で、怒りにまかせた言葉が響く。
「なんでだと思う? ここが半魔だらけの村だからだ。だから誰も来てくれない。見捨てられてるんだよ、おれたちは」
集まった被災者たちは生粋が大半だったが、中には半魔たちも混じっていて、一緒に炊き出しの恩恵を受けていた。彼らにことさら視線を当てながら、男がさらに言い募る。
「ローゼット・ローズのことだってそうだ。領主は奴らを知っていながら、野放しにしてるんだぜ。領主だけじゃねえ。この国は、レントリアは結局おれたちを……」
「やめなよ」
空になった椀をおくと、ラキスは立ち上がった。
男が驚いたように台詞を止め、広場の端に立つ黒翼の若者をにらんでくる。相手を刺激しないように軽い口調を保ちながら、ラキスは続けた。
「そういうことを話すのは明日にしなよ。領主が来るか来ないか知らないが、来るとしても今日中には無理だ。無理なのにいまから怒ったって疲れるだけだろ」
「いや、だが……」
「スープだってまずくなる。せっかく作ってくれてるのにもったいないぜ」
ラキスとしては、ここで別の騒動が起きるのだけは勘弁してもらいたかった。半魔がいるから助けが来ないなどという論法を聞いたら、逆に生粋から「それなら出て行け」と言われてしまいそうだ。
それに万一、領主につながる者がこの場に混じっていたりしたら、来るはずの助けだって絶対来なくなってしまう。
「スープはまあ……しかし……」
「それに、子どもの前でするような話じゃないよな」
「子ども……」
「そうだ。見なよ、みんなこんなに怯えて──」
広場には何人もの子どもたちがいて、先ほどから皆、緊張しながら身を寄せ合っていた。
ラキスはそれを指し示してみせたのだが、意外にも子どもたちはそのとき怯えてはいなかった。
なぜか皆、ぽかんとしたように口をあけて、ラキスの背後に広がる空を見上げている。
いくつもの丸い口から、幼い声が飛び出した。
「お馬さん……」
「お馬さんだ」
「お馬さんが飛んでるよ」
ラキスは思わず振り返り、子どもたちの視線の先を仰ぎ見た。
暮色に染まった西の空から、白く輝く何かが近づいてくる。
のびやかにはばたく純白の翼。宙を駆ける四本の脚とたなびく尻尾の、なつかしい──。
「リド……」
にわかには信じられず、ラキスは天馬の姿を凝視しながら呟いた。
そして直後、天馬の首にしがみついている人影に気づいたときは、両手を握りしめて叫ばずにはいられなかった。
「エセル……!」
姫君を乗せた天馬は、悠然と広場の真上までやってくると、進むのをやめてわずかな間その場に浮かんだ。
湖のように青い瞳が、ちらりと下を向いてラキスの姿を視界に入れる。
けれど下降して彼のもとに降り立つことはなかった。
かわりに大きく身体をくねらせ、しがみついている姫君をいきなり振り落とした。
投げ出されたエセル姫が、金髪を長く引きながら落下する。
あぜんとして上を見ていた村人たちの間で悲鳴があがったが、そのときにはもう、黒い翼を広げたラキスが舞い上がっていた。ただ一人、彼だけがリドの動きを察知したからだ。
人々が息を呑んで見上げる中、黒翼の若者は落ちてくる姫君の真下に入った。
両腕を差し伸べ、空中で華奢な身体を受け止めた。