14
「お母様……それはどういう意味ですか?」
我知らず問いかけながら、エセルは女王に歩み寄っていた。
女王が「ルーシャだけでよかった」と言ったのならまだわかる。周辺に拡大していないことに安堵するのは、残念だが自然な心境のようにも思えたからだ。
けれど、いま聞こえてきた台詞はそれとは違うものだった。
「ごめんなさい、お話に割り込んで。でもいま、ルーシャでよかったと聞こえてしまいました。わたしの聞き違いかも……しれませんけど……」
自分自身の発言にひるんだため、途中で声が尻すぼみになる。
アデライーダ女王は、青い双眸を見開いて末の姫君をみつめていた。
それから、階段をあがってきた姉姫たちに視線をすべらせ、彼らの顔つきに末姫と同じものを認めると、何かを考えるように瞳を伏せた。
そして、その瞳が再び上がったとき──。
エセルは思わずはっとした。
レントリアの星と誰もがたたえる美しい瞳に、かつて見たことのない異質な光が宿った気がしたのだ。
それは、凍てついた夜空でまたたく真冬の星のような光だった。
厳寒の光をじっとエセルに据えながら、女王が答えた。
「言ったとおりの意味ですよ」
「言ったとおり……」
エセルが繰り返すと、女王はうなずき説明を加えた。
「ルーシャには半魔たちが多く住むと聞いています。一方、ソラやラフタは明らかに生粋だけの村。生粋たちの無事を優先するのが当然でしょう。だからルーシャでよかったと言ったのです」
驚きのあまり、エセルは声を返せなかった。立ちすくんでいると、同じく衝撃を受けたリデル姫がふるえる声で口をはさんだ。
「何を言ってらっしゃるの、お母様。まるでルーシャなら襲われてもいいと仰るみたいな……」
「まるで……?」
姉姫にちらりと目を向けた女王が、心外そうに呟いた。
それから、ふいに向きを変えると、いま出てきたばかりの部屋に戻るために歩きはじめた。
視線だけを振り向けて、一同を軽く促す。
「立ち話でできる話でもない。いらっしゃい。もちろん、アルヴァン殿もぜひ」
アデライーダ女王が戻っていった部屋は、いまは亡き王配であるエルランスの私室だった。
主がいなくなって十四年あまりたつが、手入れの行き届いた部屋は、当時の面影そのままの姿で残されている。
この部屋で、女王がいまも時おり故人を偲ぶ時間を過ごしていることを、王城の皆はよく知っていた。そしてその間は誰も立ち入らないという思いやりも、城の不文律のように行き渡っていた。
エセルたち姉妹は、幼いころはよくこの部屋に入って遊び、なんだか父に見守られているような気がしたものだ。アルヴァンも、姫たちの遊び相手として何度か訪れたことがある。
だが、こんな状況でここに招き入れられるのは予想外としか言いようがなく、一同は緊張した面持ちで女王のあとにしたがい、部屋に入っていった。
最後に扉を閉めたダズリー伯爵が、夕暮れ間近の部屋を足早に横切り、明かりをつけてまわる。
アデライーダ女王は腰をおろさず、ランプの灯に照らし出された中央にたたずんでいた。
そして立ち尽くしている皆を見まわし、口をひらいた。
「このようなこと、言葉にせずともわかっていると思っていましたが……どうやらわたくしが間違っていたようですね」
それから静かな声でつけ加える。
「けれど、いまから話すことをそなたたちが他言するほど愚かだとは思っていない。それを信じてたずねますよ。リデル」
急に名指しされて、リデルライナの背筋が伸びた。
「は、はい」
「そなた、半魔と呼ばれる者たちのことをどう思っているの?」
「どうって……」
一瞬当惑したリデルが、すぐに語気を強める。
「半魔だからどうだということはありませんわ。生粋であれ半魔であれ、同じく大切なレントリアの民です。種族が多少ちがうとしても、そのことになんの罪もない。守っていくのが王家の務めだと思っています」
「そのとおりですよ。半魔たちに罪はない。何ひとつ」
跡継ぎである長女の言葉に、現女王がうなずいた。そして、なんのためらいもなく言葉を継いだ。
「ですが、これ以上増えてほしいとは思いませんね」
エセルは自分の耳がおかしくなったのかと思った。母の言った言葉が信じられなかったのだ。
言われたリデルも返事ができずに立ち尽くしている。隣にいたアルヴァンが、たまりかねたように声をあげた。
「失礼ながら陛下、そのお言葉はあまりに……。レントリアのすべての民はひとしく尊い存在だと、陛下ご自身が日頃から仰っているではありませんか。もちろんリデル様も、そんな陛下のお言葉を体現していらっしゃいます」
未来の王配である青年の反論を、女王陛下は眉を寄せて聞いていた。
「たしかに……。リデルにそうあるようにと教えたのは、このわたくしです。次期女王たるもの、民に対する建前はしっかり学んでほしかったですからね。でも……」
いったん閉じた唇から、長いため息が漏れる。
「生粋と半魔を、額面どおりそこまで同等に扱うなんて。リデル、そなたはもっと賢いと思っていたのに」
そのとき、やはりたまりかねたらしいダズリー伯爵が割って入った。
「陛下、おやめください。姫様がたにそれを仰ることはない」
「いいのですよ。こちらの気持ちをまったく察していないのですから」
「知っているのはわたしだけでいいはずです。姫様がたには、どうか」
エセルたちの動揺は、このやり取りでさらに深まった。ダズリー伯爵が女王をいさめるのかと思いきや、そうではなかったからだ。
アデライーダ女王が、腹心の部下に言い聞かせる。
「いいえ、もうそなただけでは足りません。この子たちにこそ自覚が必要。無論、未来の王配にもです。レントリアが国をあげて魔物を撲滅しようとしているときに、みんなして半魔などを気にするとは、なんと情けない……」
「お母様」
と、セレスティーナが悲鳴のようにさえぎった。
「お母様は、生粋でない人々を魔物と同じだと思っていらっしゃるの? だから……だからエセルの結婚をあれほどまでに急がれたの?」
「結婚──」
「わたくし、ずっと不思議でした。いつも冷静で慎重なお母様が、ラキスが領主館でコンラート殿に斬りかかった理由をどうして調査しなかったのか。大聖堂で告発したときも、どうして完全に無視なさったのか。あれは彼が半魔だったから……魔物と同じように思っていらしたから……」
アデライーダ女王は次女を無言でみつめたが、ふと視線をはずすと、かたわらにある机に歩み寄った。机の上には、在りし日のエルランスが愛用していた鵞鳥の羽ペンや羊皮紙の束が、そのまま残されている。
真鍮のインク壺をそっと指先でなでながら、女王が呟いた。
「同じでしょう」
「お母様!」
「同じですよ、わたくしにとっては」
そして再び娘たちと相対したが、その声はかすかなふるえを帯びていた。
「半魔とは魔性の血を宿した者。魔物の痕跡をその身体に刻んだ者。エルランスを……そなたたちの父の命を奪った、憎き魔物の痕跡を。どんなにわずかな混じり物であれ、そんな存在をなぜ許せるのか、わたくしにはわかりませんね」
陛下、とダズリー伯爵が制止すると、女王は背筋をのばして口調を変えた。
「半魔と呼ばれる者たちすべてが憎いわけではありませんよ。けれどそうした存在は、やがて淘汰されて自然に減っていくと思っていました。それなのに、その気配がないのはどうしたことか」
「陛下!」
「ルーシャには半魔たちが集まっているとの報告を受けていた。だから何か策を高じなければと思っていたところでした。それが、集まっているその場所めがけて魔物襲来とは──」
アデライーダ女王の頬に、艶然とした笑みが立ちのぼった。
「好都合ではありませんか」
呑み込まれるような沈黙のあと、エセル姫がふいに動いた。きびすを返して扉に走り寄る。
「エセル様、どちらへ」
「ルーシャに行くわ。護衛はいりません」
振り向きもせずダズリー伯爵に叫び返すと、エセルは部屋を飛び出した。
ドレスの裾を両手でからげながら階段を下り、玄関ホールを駆け抜ける。
外に出ると、息を切らしながら足を止めた。そして、頭上にひらけた空を見上げて叫んだ。
「リド!」
確信があったわけではない。だが、すべてを飛び越えて村に連れて行ってくれる存在といえば、天馬しか思い浮かばなかったのだ。
こうしているいまも、村は魔物の群れに襲われている。一刻の猶予もない。
「リド、どこにいるの。出てきて、お願い、リド!」
無我夢中で呼んでいたエセルの声が、急に止まった。
なつかしい天馬の頭が空からひょこんと突き出したのは、彼女には当然のことのように思われた。
地上に降りてきた天馬が、純白の片翼を姫に向けて差しのべる。彼女はためらわず背中にのぼると、すべすべした首にしがみつきながら命じた。
「ルーシャに行って、リド。<星の道>を通るのよ。早く!」
天馬はたちまち舞い上がった。そして姫君の命じるままに空をこじあけ、そこに吸い込まれていった。
一方──。
姉姫たちふたりは、妹のように外に出たいとは思わなかったため、蒼白な顔で女王と向き合っていた。
女王は氷の彫像のようにたたずみ、姫たちもまた凍りついたように目の前の人をみつめている。
姉妹はともに、思いがけないショックのために何も考えることができないくらいだった。
だが、ただひとつだけ、ふたりが強く理解したことがある。それは、自分たちがいままで、目の前にいる人のことを何もわかっていなかったということだ。
氷のような眼差しでわたくしたちをみつめている、この人は誰?
けして言ってはならないことを平然と唇にのせ、それでもなお恐ろしいほどに美しい、この人は。
彼女が自分たちの母であること、深い愛情を持って自分たちを育ててくれたことは間違いないと知っている。
掛け値なしのやさしさで娘たちを包み込み、守ってくれたことも知っている。
だからこそ、自分たちもなんの疑いもなく彼女を愛した。
慈愛に満ちた母を、レントリアで唯一にして無二の女王を、心から信じた。
けれど、自分たちは実は知らない。何ひとつ知ってはいないのだ。
アデライーダという名の、ひとりの女を。