12
外から眺めたときには暗く濁って見えた窓が、聖堂内に入ったとたん、きらめく色彩となって参拝者たちを出迎える。
礼拝室の内陣奥を彩るステンドグラスは、大聖堂の巨大な円窓ほど圧倒的ではなかったが、それでも十分にエセルたちの目を引きつけた。
赤に青、緑、黄、そして白。鉛の細枠で細かく区切られた五つの色は、聖堂には欠かせないものだ。
けれどもちろん、一番なくてはならない色はそれよりもっと低い場所にある。
守護聖獣リンドドレイクの彫刻が祀られている祭壇。
丸く縮めた竜体に守られながら、かすかに揺らめいている白銀は、由緒正しい聖堂の印である小さな聖火の色だった。
聖火というのは、魔法炎が噴き上がって大地を清めたときの名残りなのだと、聖書の言葉は伝えている。
散った火花の一部が石の中に入り、消えずに燃え残っているのを、後世の人々がみつけて大事に保管した。
そして炎をかこむようにして、その石から守護聖獣の像を掘り上げ、像とともに炎を祀るための建物をつくった。
各地に点在している聖堂の起源は、どこも等しくこんなふうだ。
そんな聖火を抱いた祭壇の前にたたずむと、エセルは亡くなった人たちのための祈りを捧げた。司祭と護衛の二人、従者をかねた御者もまじえて祈り、しばし静かな時間を過ごす。
それから、司祭が別室に用意してくれていた昼食をとり──ちょうど昼時だったのだ──その後、皆で袖廊のほうに移動した。
聖堂は東西に長い建物なのだが、それより短く細い建物が交差部で交わり、上から見ると十字形になるように造られている。
その交差した袖廊の南側に、エセルが目当てにしていた一幅の聖画が掲げられていた。
彼女はその絵を──正確にはその姉妹作である絵を、マリスターク領主館で見たのだった。
紺碧の星空を背景に、さざなみのような金髪を長く垂らした天つ御使いの少女がほほえんでいる。
十歳前後に見える少女の背中をおおっているのは、清らかな白い翼。膝にかかえているのは小型のリュート。天啓派の画家ヤーコフの手による傑作だ。
マリスタークにあった作品には仔羊が描かれていたが、こちらでは小さな天馬がそっと鼻づらを寄せていた。
御使い様の聖画がすべてのはじまりだったんだわ、とエセルは思った。
王城の晩餐会で、本性をかくしたシャズ・マーセインと話したとき、話題になったのが姉妹作の聖画だった。
マリスタークまで見に来てほしいと誘われて、その通りに領主館まで行き、並んで絵を鑑賞した。贈られた腕輪を受け取り、うれしそうに身につけさえした。
まさか偽者だったなんて、恐ろしい殺人鬼だったなんて思いもせずに……。
いくら事件の真相と顛末を聞かされても、エセルの心はなかなかそれを受け入れられなかった。何ひとつ自分の目で確かめていないのだから、無理もない。
マリスタークでの日々が、全部悪い夢にすぎなかったのではないかとすら、思えてきたほどだ。
だから、何かかたちのあるものを見て、自分を納得させたかった。そのために選んだのがヤーコフの聖画であり、それはどうやら成功したらしい。
もう、考えるのは終わりにしよう。
これを見て、ようやく気持ちにけじめをつけられた気がする──。
そのとき、かたわらで同じく絵をみつめていた司祭が、そっと話しかけてきた。
「この御使い様はエセル様によく似ていますね」
姫君は身じろぎすると苦笑をうかべた。
以前、マリスタークで同じような台詞を言われたことがあったからだ。
「そうでしょうか。自分ではあまり……」
「清らかで無邪気な雰囲気がそっくりですよ」
年配の司祭はやさしく言うと、ちょっと考えてから続けた。
「しかし、もっと似ているかたがいらしたらしいですね」
「もっと?」
「はい。エシア国のレナーテ姫がそっくりだったようです」
「……」
「かの国の旅行者がこちらに立ち寄ったとき、これを見て感嘆していました。ぜひ譲ってほしいと言われましたが、複製でなく直筆のヤーコフは我が聖堂にとっても宝でして、ご希望に添えず」
コンラートとシャズにまつわる事件のことを、この司祭は聞き及んでいるようだった。
エセルはしばらくの間、言葉がみつからずに口を閉ざしていた。それから視線を伏せると、ゆっくり言った。
「わたし……さっき祭壇の前でシャズ・マーセインのことは祈りませんでした。カーヤたちと一緒に祈るなんてできないと思ったんです。でもレナーテ様のことは祈りましたわ。せめてそれだけはと……」
「それでよろしいと思います」
と、シンセリの司祭がうなずいた。聖職者しか持ち得ない敬虔なものをたたえながら、言葉を重ねる。
「レナーテ姫が魔物の犠牲になられたのが、悲劇のはじまりだったのです。魔物たちを撲滅するため、力を合わせ心を合わせて我々は進んでいかねばなりません。それこそが創星の神の思し召しでもあるのですから」
そこで司祭はふと後ろを振り向き、控えていた二人の護衛に声をかけた。
「そちらのお二人はステラ・フィデリスの使い手だとか」
ディーとレマは、姫と司祭の邪魔にならないよう下がった場所から絵の数々を眺めていた。
急に話を向けられてとまどったらしいが、首肯するとこちらに近づいてくる。
「その剣は魔法剣ですね」
すらりとした男女は、ふたりとも腰に二振りの剣を帯びていた。普通の長剣と炎を招き入れた魔法剣だ。
重いようにも見えるが、魔法の炎を宿した剣が実はひどく軽いことを、エセルは知っている。
「わたくしは討伐に立ち会ったことがない」
そう語る司祭の口調は感慨深げだった。
「静かな聖火と同じものが凶暴な魔物を倒すとは、正直信じられない気がするほどですが──。しかし、聖なる炎を正しく使うステラ・フィデリスの活躍は頼もしい限りです。人々の幸せを守るため、これからもよろしく頼みますぞ」
神妙な顔つきで聞いていたディーが、居住まいを正して答えた。
「無論です。炎を受け取った者として、身命を賭して闘っていく所存。どうぞご安心ください」
どことなく棒読みの気配が感じられなくもなかったが、返答としては完璧だ。
司祭は、若く凛々しい使い手たちに目を細めつつ、満足そうにうなずいた。
ほかの聖画をやや足早に見終わると、姫君一行は帰り支度に入った。もっとゆっくり過ごしたかったが、日帰りの予定なのであまり時間がとれなかったのだ。
名残を惜しむ司祭や助祭たちに礼を言い、再訪を約束して別れを告げる。
石造りの建物から足を踏み出してみれば、吹き抜ける戸外の風が心地いい。
馬車に向かって歩き出そうとしたとき、後ろでいままでのおごそかな雰囲気に似合わない妙な声が聞こえた。
振り向くと、ディークリートが両腕を上げて思い切り伸びをしているところだった。
「失礼。聖堂が嫌いなわけじゃないんですが、ちょっと苦手なんです」
エセル姫と目が合うと、彼は悪びれもせずに笑いかけてきた。
「どうにも肩がこりまして。なんだか教師にチェックされてる生徒みたいな気分になるんですよね」
首や肩をまわしていたレマが「同感」とうなずいた。それから同僚に軽い口調で話しかける。
「でもあなた、子どものころこういう場所によく連れていかれたから慣れてるんじゃないの? ローデルク家のかたがたって好きそうだものね、こういうの」
「だからだよ。うんざりなんだ」
エセルは軽口を言い合っている使い手たちに目を丸くしたが、つられて自分も脱力すると笑ってしまった。
「わかるわ。わたしも実はちょっと」
「まあ、姫様こそ慣れておいででしょうに」
「大声を出しちゃいけないと思うと、やっぱり緊張するのよ。もちろん聖堂はとても大切な場所だけど。それに」
と、シンセリの司祭のためにつけ加える。
「御使い様の絵に合わせるみたいにリュートの音が聞こえていて、素敵だったわ。きっと別の部屋で弾いていてくれたのね」
リュート?と使い手たちが首をかしげた。
「そんな音がしていました?」
「あら、気のせいだったかしら。とても小さな音だったけれど……あっ、そうだわ」
突然エセルは口調を変えた。聞き違いかもしれない楽の音よりも大事なことを思い出したのだ。
聖画の中で天馬を見たとき思いついた質問を、あわてて投げかける。
「それより、ディーに訊きたいことがあったの。あのね、ドーミエにいたときリドを見なかった?」
「リドですか? いや、見ませんでしたね」
「そう……。ラキスがレヴィアタンと闘っているとき、もしかして来てくれたんじゃないかと思ったんだけど……」
エセルは、なつかしい天馬がドーミエにあらわれたのではないかと期待していたのだった。ラキスの身に危機が迫っているとき、リドなら<星の道>を通って駆けつけてくれるのではと思ったのだ。
だが残念なことに、そうはならなかったらしい。
「気まぐれですからねえ」
見るからにがっかりしている姫君に、ディーが同情的な視線を向けた。
「普段だって出たり消えたりして、あまり当てにならなかったらしいですから」
「でも……」
ラキスがインキュバスと闘ったあのときは、リドは最後まで一緒に闘ってくれた。やろうと思えば<星の道>に逃げ込むことだってできたはずなのに、おそらく討伐したいという乗り手の意志を汲んで、逃げようとはしなかった。
それに彼が怪我をしたとき、王城までわたしを迎えに来てくれたのに。リドが彼のそばにいれば、わたしも少しは安心できるのに……。
肩を落としていると、ふいにレマが声をかけてきた。
「姫様。わたしとディーで、明日にでもモードリッジに行きましょうか?」
「え?」
「姫様のお気持ちはディーから聞いています。命じてくだされば、行ってラキスを連れてきますよ。向こうが嫌がっても都まで引っ張ってきますから」
エセルは大きく目をみはると、女剣士のすみれ色の瞳をみつめかえした。
すぐには答えずたっぷり時間をとってから、まばたきとともに返答する。
「いいえ。連れてこなくてもいいわ」
今度はレマとディーのほうが目をみはった。二人とも、姫が迷うことなく命令するだろうと思っていたのだ。
「でも姫様……彼に会いたいとお思いでしょう? 彼だってきっと」
すると姫君は、身体をかたくしながらもきっぱりした口調で答えた。
「いいえ。わたしたち、会わないほうがいいと思うの」
「は?」
「わたし……わたしもう、恋はいいわ」
「は?」
「わたしには、そもそも恋なんて向いていないのよ。昔から殿方より厩舎の馬に夢中だったくらいだもの。これからは公務に打ち込んで生きるか、でなければいっそ聖魔法院の本山に入ろうかと」
「姫様姫様」
と、ディーが早口で言いはじめた。
「一度や二度や三度結婚に失敗したくらいでそんな」
レマがあたふたと続ける。
「だいたい一度も結婚してませんわ」
「いえ、結婚なんてもういいの。でも、そ、そうね。モードリッジに行って様子を見てくるくらいなら、してもいいわ。元気にしているかどうかだけ確かめて、必要なら王家から何かの援助を」
そのとき、辛抱強く後ろに控えていた御者がたまらず口をはさんできた。
「あの……お取込み中すみませんが、もう出発しないと日暮れまでに帰り着きません」
わかったわ、とエセル姫が即座に答えた。
そして、いつのまにかそばに来ていた馬車に近づくと、ぎくしゃくした動作で乗り込んだ。
後半の会話部分が書きたかったのに、執筆が進まず一向にたどり着けない辛さときたら。
なんの修行かと思いました。聖堂は手ごわかったです(涙)
そしてフレスコ画とテンペラ画と油絵の違いとかをいろいろ調べたのに、いざ書きだすと全然使えないという……そんなものですよね(また涙)。
いつもありがとうございます。