10
その日、ラキスは結局ルーシャの村に泊まっていくことになった。
最初はそこまで長居するつもりはなかった。少しだけティノと話してから立ち去る予定だったのだが、事情が変わったのだ。
村人の一人が教えてくれたところによると、今日は宿場が混みあっていて宿泊は難しいらしい。
少し離れたところにある町で、数日後に大規模な祭りがひらかれるため、それを目当てに移動してきた一座が宿を占領しているそうだ。
その話を聞いていた親切そうな村人夫婦が、ぜひうちに泊まってほしいと申し出た。
自分たちの家も食堂兼宿屋だし、宿代は討伐の礼に村長が負担する。そこがティノの家でもあると聞いては、ラキスに断る理由はなかった。
そういうわけで、夫婦に提供された宿泊室に入ったラキスは、思わずほっと吐息をついた。
二階にある部屋は古びていたが清潔で心地よく、窓を開けると景色がひらけて狭さも気にならない。何より、やわらかそうな寝具つきのベッドの存在がありがたかった。もう何日も、ベッドとは無縁の生活をしていたからだ。
彼は腰から剣をはずすとベッドに近づいたが、そのときふとテーブルに置かれた一冊の本に気がついた。
それは薄い絵本で、聖書──聖なる魔法の書の一部を子ども向けに書き直したものだった。
泊り客が手持ち無沙汰にならないように、宿の主人が置いてくれているらしい。字が読めない大人もいるので、聖書を絵本形式にするのはめずらしくなく、表紙に描かれた青い円もお馴染みの図柄だ。
聖書ではこの円を星と呼びならわしていて、人々が住んでいる世界そのものを表しているのだと謳っていた。
レントリアも隣国エシアもメイデンシャイムも、もちろんそのほかの国々も、皆この青い星の上にある。
空に散っているあまたの光のことも星と呼ぶが、つまり丸くて美しいものをそう呼んでいるのだろう。
青い星をかこむようにして水色の輪があり、さらに外側には、水色より幅の狭いくすんだ黒っぽい輪がかかっていた。
水色は加護の光が満ちた蒼穹、くすんだ色は魔物が根差す深淵。青い星のちょうど中心部分には、赤みがかった塊のようなものが描かれているが、これは星の中心で燃えさかる魔法炎なのだといわれていた。
実際に目で見てわかる風景でもないため、聖堂などでいくら語られても人々はあまりぴんと来ていない。
ただこうした図柄を眺めると、なんとなく神聖な気持ちが湧いてくるので、彼はしばらくの間、表紙に視線を落としていた。
それからぱらりとページをめくり、今度は本当に自分にとっての神聖なものをみつけて、思わずそれを凝視した。
そこに描かれていたのは、ふんわりした白い両翼をつけた天つ御使いの少女の絵だった。
語り部の役割をしているようで、絵本らしく大変可愛らしい顔立ちだ。だが、可愛いから凝視したわけではない。その絵はラキスに、エセルシータ姫のことを否応もなく思い出させていた。
マリスタークの牢獄に囚われていたとき、次期伯爵が勝手に開示した情報を、ラキスはしっかりと覚えている。
あの男はこう言っていたのだ。姫様は天つ御使いの翼をお持ちになった。穢れなき純白の翼を。おまえの黒い翼とは対極の翼を──。
あの言葉は本当だろうか。エセルの背には本当に白い翼があるのだろうか。
コンラートの名を騙っていた狂人の台詞など、信じるべきではないかもしれない。でも……でもエセルなら。
彼女なら、守護聖獣に愛されてそういうことになったとしても不思議ではない気がする──。
ふいにノックの音が響き、ラキスははっとして顔をあげた。
扉をあけると、とんがり耳のティノ少年が、金の瞳を人なつこく輝かせながら立っていた。
手にした盆の上には、ベーコンと野菜をはさんだパンと揚げ菓子がのっている。
「これね、イリおばさんから差し入れ」
少年は部屋に入ってくると、ラキスに盆を渡しながらにこやかに言った。それから絵本に目をとめて「それ、きれいだよね。ティノも好きなんだ」などと、屈託なく続けた。
差し入れは剣士様への礼で、村長ではなく宿屋からの気持ちだという。魔物を狩ってくれたのがありがたいし、ティノを助けてくれたのもうれしかったそうだ。
ラキスは感謝して受け取り、テーブルに盆を置いた。それからじっと少年をみつめ、もう一度心からの感謝をこめて、ありがとうと語りかけた。
少年は、エセル姫が語ってくれた勇者様が目の前にいる若者だとは、つゆほども思っていない。
それも当然だ。ティノがラキスの姿を見たのは、インキュバスから投げ出されて天馬に乗った瞬間だけ。いくらエセルから話を聞いていても、顔まで知っているはずないのだから。
それにもし知っていたとしても、当時とは決定的な違いがある。背中から突き出した黒い両翼だ。
この場で正体を明かすつもりはなかったが、ラキスは少年のことを大恩人だと思っていた。何しろこの子は、一人で丘を登ろうとしていたエセル姫を助けてくれたのだ。それは同時に、ラキス自身がインキュバスから解放される手助けもしてくれたということにもなる。
そんな気持ちから出た感謝の言葉だったので、会話の流れ以上の熱がこもったのも無理ないことだった。
一方のティノはといえば、ご丁寧に二度もお礼を言われて内心とまどっていた。しかも、相手が自分のことをやけに深い眼差しでみつめているので、ますます当惑した。
パンやお菓子をこんなに喜ぶなんて……よっぽどおなかすいてたのかな?
とりあえず、この妙な空気を変えなければいけない気がしたため、あわててしゃべりはじめる。
「ええと、ええと、足りなかったら持ってくるから言ってね」
「ああ」
「お兄さん、ほんとに強いんだね。びっくりしたよ。それにその翼もすごいよね。大きいだけじゃなくて飛べるんだもん」
「……まあ、そうだな」
「ええと、ティノ、そういう翼を見たのはじめて。最近このへんに半魔の人たちが集まってきてるんだけど、翼つきはまだいないんだ」
パンに手を伸ばしかけていたラキスは動きを止めた。疑問に感じていたことを思い出してたずねてみる。
「たしかにずいぶん集まってたな。最近のことなのか……何か理由が?」
すると、少年は顔を曇らせながら答えた。
「それがさ。ティノもよく知らないけど、最近ローゼット・ローズとかいう一派が半魔に意地悪しはじめて、みんな困ってるんだって」
それからティノは、半魔を嫌う人々が徒党を組んで活動しているらしいのだと説明した。
発起人はしがない農夫で、美しかった一人娘を魔物の餌食にされて以来、魔物を憎んでいるそうだ。
それだけなら普通だが、その魔物が二本足で歩くうえ人間のように屋敷で暮らしていたのが問題だった。
まるで半魔そっくりだ。いや、むしろ半魔という存在が魔物と同じなのだ。
事件が起きたのはもう十年以上前であり、農夫の極端な考えは長いこと彼の胸の内だけにおさまっていた。
ところが最近、この話を耳にはさんだ金持ちが、いたく同調して資金を出し、有志を募りはじめた。人数はすぐに膨れ上がり、ローゼット・ローズという名称までがつけられる。
そして罪もない半魔たちを追い出しにかかったため、困った人々がここまで逃げてきたのだという。
「ここはそういう差別が全然ないし、村長さんもすごくいい人だからさ。みんなで一緒に暮らそうって言ってるんだけど、でも」
話しているうちに腹立ちが抑えられなくなったらしく、ティノは頬を赤くしながら訴えた。
「でも、ひどいよね。魔物といっしょくたにするなんて。娘さんを殺されたのは気の毒だけど、半魔と魔物じゃ全然ちがうのに」
ラキスは少年の話を驚きながら聞いていた。
ここしばらくの間、都の西側であるドーミエやマリスターク方面に行きっきりになっていたが、東側でそんなことが起きていたとは知らなかった。
ラキスは思わず考え込んだが、ティノ少年はその話題を引きずらなかった。楽しくない話は嫌いだったし、イリおばさん特製のパンやお菓子を、熱いうちに食べてもらいたかったからだ。
それで、あっさり気分を変えると、おばさんがどれだけ料理上手か、一階で経営している食堂の食事がどれだけ美味しいかという話題に移行した。
そして、自分もそこで歌っているから、夕食は下に降りて食べるようにと剣士様にすすめた。
ティノの歌はぜひ聴いてみたかったので、ラキスも気分を変えてうなずく。二人の会話は終了となり、少年は機嫌よく部屋から去っていった。
だが、ラキスは夜にティノの歌を聴くことはできなかった。差し入れを食べたあとベッドに転がったら、とたんに睡魔に襲われ、完全に寝入ってしまったからだ。
腹が満たされていたせいで、夕食時間になったことにも気づかなかった。そして目を覚ましたのは、明け方、あたりが明るくなりはじめてからのことだった。
ベッドが心地よかったので、放っておいたら昼まで眠り続けていたかもしれない。それができなかったのは、人々の悲鳴が聞こえてきたからだ。
飛び起きて窓を開け、見えた光景にあぜんとした。
のどかだったルーシャの村を、ペルーダの群れが襲っていた。
ローゼットのお話は前日譚のこちらです。
『花の名前』
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