1(召喚の儀)
地の底をうねり流れる魔法炎が、好んで地表近くまで上がってくる時間帯がある。
夕陽の名残りと押し迫ってくる宵闇が、蒼穹で共存している短い時間。
夜の気配を感じながらも、まだ肉眼で景色を見分けることができる、薄暮の時間がそれだ。
剣の中に炎を呼び寄せ招き入れる召喚の儀が、日没時に開催されるのは、したがって当然のしきたりなのだった。
儀式を主催するのはステラ・フィデリスという名称のギルドである。このギルドが志願者たちを厳格な審査で選抜し、高位の者たちの立ち合いのもと、召喚に挑む権利をあたえる。
開催場所は、魔物を退け雷を呼ぶオークの木々にかこまれた、円形の聖地。
その聖地の中心にある円環の中で、いま召喚の時を迎えているのは、屈強そうな体躯の青年だった。
円環とは、古代文字を刻んだ細長い石板をいくつも連ねて描いた円のことを指す。大人の身長二人分ほどの直径をもつ、召喚者のための特別な場所だ。
青年は、そこに片膝立ててひざまずき、両手を前に突き出して剣の柄を握りしめている。
剣は地面に対して垂直。真下に向けた切っ先は、土に触れる寸前の位置。青年の構え方は堂々としたものだったが、内心ではかつてないほどの緊張を覚えていた。
彼はいま、地底の炎の存在感というものを生まれてはじめて体感し、動揺しているのだった。
知識としてはもちろん、徹底的に覚え込んでいる。炎の使い手たちの話もじかに聞き、この瞬間をずっと夢みてきた。
だが、知識と体感とではこんなにもちがうのだ。
真下で動くこの大いなる力に、自分は認めてもらうことができるのか。認められたとしても、それを受け止めることができるのか。
今日、召喚に挑んだ六人の者は、全員あえなく失敗した。七人目の我こそはと思っていたが……。
魔法炎への畏怖が自信と期待を呑み込みはじめ、思わず剣先が揺らぎそうになった、そのときだ。
冷然と冴えわたる声が、彼の心を引き戻した。
「ルークス」
青年は打たれたように顔をあげ、声を放った人物をみつめた。そして訓練通り腹の底から、導の言葉を復唱した。
「ルークス」
声の主は、ステラ・フィデリスの主座たる女性、マドリーン・ローデルクだった。導の言葉の第一声は、常に主座の権限により放たれるのだ。
灰紫のローブに身を包み、赤銅色の髪を高い位置で束ねて垂らした若き主座。美しくもきびしい立ち姿は、二十代後半という年齢とは無関係な威風をまとっている。
マドリーンは軽く足をひらいた姿勢で真正面に立ち、召喚者の剣先に視線を据えていた。
さらに。
円環から少し距離を置いた外側に立っているのは、彼女だけではなかった。左右、そして真後ろには、ローブではなく灰紫の皮鎧をつけた人物たちが、厳粛な態度で立っている。
主座に同席して召喚を見届ける、三人の立会人たちだ。
左右の二人はかなり高齢だが、華々しい戦歴を持つ第一座の使い手。それより若い後ろの一人は、いままさに戦歴を積み上げている最中の第一座。
この第一座は主座の夫であり、ドーミエの大討伐からここキリシュの地に帰還したベルター・ローデルクである。
彼ら三人が、召喚者と同時に復唱の声を上げたため、導の言葉は四つの層になって式場内に響き渡った。
ルークス。
その反響が消えるか消えないかのうちに、マドリーンの唇がひらき、第二の導が発せられた。
「テネブラエ」
四つの声が、またもやそれを復唱する。円形の式場から青い薄闇に沈む木立にまで、声は陰々と染み込んでいくようだった。
立会人たちの向こう、木立のきわでは他の使い手たちが見守っていたのだが、そこには召喚に失敗した六人の者も含まれていた。
彼らは年齢も性別もばらばらだったが、意気消沈した顔つきが共通している。
自分たちも第二声まではよかったのだ。魔法炎の存在を感じ取れたし、昇ってこようとしている気配もはっきりとわかった。それなのに。
テネブラエ。
彼らの思いにかかわらず、主座の声は続く。張り上げているわけではないが、強さが次第に増している。
「アニマ」
式場内にいた全員が、瞳を見開き円環の中をみつめた。
もちろん召喚者の青年も息を呑み、自分のひざまずいている地面を凝視した。
石板にかこいこまれた内側で、円形の地面が光りはじめている。真下から近づいてくる光源が、土を透かして召喚者の全身を照らし出す。
魔法炎が、円環めざして昇ってきているのだ。
円のかたちに湧き出す光をみつめながら、召喚失敗者たちは唇を嚙みしめる。彼らの炎は、この後つれなく下がっていってしまった。
召喚真っ最中の青年も、ここからが本番だと知っているため、歓喜の気持ちを必死で押さえつけている。必要なのは、剣に宿ってくれるようにと炎に呼びかけ、必死に願い続けることだ。
立会人たちの復唱の声が、心の叫びに力をあたえる。
アニマ。
続く第四声には、認可の意味が込められていた。円環内の光を前面に受けながら、主座が一段と声を強めて発声する。
「コルプス」
召喚者は突き動かされるように大きく息を吸い込むと、両の腕を高くかかげた。
力を込めるあまり腕がぶるぶるとふるえたが、剣の柄が頭上まで上がったときには、ふるえはぴたりと止まっていた。
意志の力は、召喚者を選抜するときの重要要素だ。事前に動揺したとしても、この瞬間にまでふるえるようでは、もとより資格がない。
だがどれだけ意志が強くても、人間は肉体に縛られている。かたちを持たない魔法炎とはわけがちがう。
主座はもちろん、炎が昇ってくることを待ち望んでいるが、第四声は人間のために発するものだ。復唱の声が大きく反響する。
コルプス。
直後の第五声。その瞬間を見極めた強い声が、式場内に響いた。
「サンクタ・フラーマ」
最後の導に復唱はない。
召喚者が声のかわりに両腕を振り下ろし、全力で剣を地面に突き立てる。
円環の中で光と突風が吹きあがった次の瞬間、鈍い地響きが足元を揺らした。
突き刺した長剣の剣先に、魔法炎が突入したのだ。
地面が輝きを増し、召喚者は突風に巻き込まれて地面に倒れながら、剣の柄を握りしめている。吹き飛ばされまいと必死だ。
召喚成立? しかし……。
そのときを迎えられなかった六人が、固唾を呑んで青ざめる。
長い。成立は一瞬の出来事であるはずだ。
六人は炎の受け取りには失敗したものの、誰も最悪の事態は招いていなかった。最悪、つまり剣身に入る炎の圧力に耐えられず、四肢が吹き飛ばされること。あるいは外見が無事であっても、心臓が停止すること。
悲鳴こそなんとかこらえていたものの、青年の顔も恐怖に歪んでいる。剣の柄にしがみつく以外、どうすればいいかまったく考えることができない。
だが、思考している者はちゃんといた。
迷わず円環をまたぎ越えたマドリーン・ローデルクが、彼の横に膝をつく。ローブが巻き上がるのもかまわず、彼の肩に右手を置いて高く叫んだ。
「サンクタ・ウィータ!」
その声が地下に届いたかのように──。
突風が次第におさまり、円環内の光が急速に弱まった。
押しやられていた夕闇が、一段と深さを増して戻ってくる。夜になる前の静寂が、何事もなかったかのようにあたりを満たす。
伏せていた青年が、呆然としながら顔を上げ、ゆるゆると上体を起こした。
主座はいつのまにか離れており、円環の中には彼しかいない。仕上げの動作は、剣の持ち主が一人でおこなうのだ。
彼はかたく握りしめたままの両手を、ゆっくりと上に持ち上げていった。
夕闇の中、先ほどとはちがう光がともる。
地中からあらわれた剣身の内側で、虹色の炎の芯が、細く淡くゆらめいていた。