第六話
「お答えください、肉屋様。一体何が起こっているのです?」
俺は現在、壁ドンの真っ最中であった。
王国の城の中の王族専用区画の中にあるバルガス王子にあてがわれた部屋の中で、俺は壁際に追い詰められてクリスティ王子の手によって壁ドンをされているのである。
男女の立ち位置が逆ではないかとも思うが、壁ドンであることに変わりはない。
真っ直ぐに伸ばされた右腕は壁にヒビを作っており、残された左腕が固く握りしめられていたとしても、壁ドンであることに変わりはないのだ。
俺に壁ドンをしている女性が殺し屋のような目つきをしているとしても壁ドンであることに疑いの余地はない。
壁ドンと言うよりもこれはむしろ脅迫に近いのではないかと思わないこともないが、壁ドンであることに疑いの余地はないのである。
ああ、素晴らしきかな現実逃避。
目の前の現実から目を背け、思考を明後日の方向へ飛ばすことが出来さえすれば、心はいつだって静謐であり続けられるのだ。
「まさか無視をするつもりではないでしょうね? それならそれで私にも考えがあるのですが?」
「痛ててて! 言います言います! 脇を拳でえぐらないで、えぐらないで!」
しかし暴力という名の現実の前に、現実逃避はあっさりと膝を屈してしまった。
どれだけリアルに想像力を働かせたところで、本物の痛みからは決して逃れられなかったのである。
彼女の雰囲気は非常に剣呑だ。
目は充血を通り越して血走っており、握りしめられた拳からは止めどなくポタポタと血が滴っていた。
受け答えを一つでも間違えれば、その瞬間に殺人パンチが飛んでくるだろう。
そんな光景が容易に想像でき、俺はゴクリと喉を鳴らすのだった。
まぁ元々目の前の女性に対しては隠す事など何一つない。
俺はクリスティ王子からの地味に痛い攻撃……もとい突然の壁ドンにあっさりと音を上げ、事細かに状況の説明を行ったのであった。
彼女が正気を取り戻したのはつい先程のことだ。
肩ロースによるやけどを両肩に負った彼女は、勇者の盾が使い物にならないと判断したがために、自らの意思で呪いの盾を放棄。
結果として絶対服従の呪いから逃れることに成功した彼女は、俺の下に辿り着く頃にはすっかり正気を取り戻していたのである。
彼女は正気を取り戻した。
そして目が覚めた彼女の前には俺という不審人物がいたのである。
彼女は俺をあっさりと拘束。
そして彼女はその凶悪な拳を俺に押し付けることで、俺から情報を引き出そうと考えたのだ。
「……というわけで、バルガス王子は無実の罪を着せられて殺されそうになったので牢から脱獄。勇者の装備には絶対服従の呪いが掛けられているのです」
「馬鹿な! では私たちはあの無能国王に良いように操られていたというのですか!」
「そうなりますね。なんでも勇者の召喚が成功した段階で、仕掛けられていた呪いが発動するようになっていたらしいですよ」
「だから私たちは疑問も持たずにあの老害の意のままに……。くっ、小賢しい真似を! 今すぐ奴の下へ向かい、腐った命を刈り取らねば!」
クリスティ王子は拳を握りしめると、踵を返してそのまま部屋から出ていこうとする。
その際、床に放置したままであった勇者の盾を拾おうとしたので、俺は慌てて彼女を呼び止めた。
「待った待った! 俺の話を聞いていたんですか! その盾には呪いが掛かっているって言ったでしょう! 不用意に手にしたらまた呪いが発動してしまいます!」
「しかし向こうにはまだ勇者の鎧を着込んだダスティンがいるのです。勇者の盾の力なくしては、勇者の鎧を着込んだ弟には太刀打ち出来ません」
「だったら無理をしないで、ここは引いてください! 一旦城から脱出し、下町かスラムにいるはずのバルガス王子に助力を請うべきです!」
「兄上様にお手を煩わせろと言うのですか、肉屋様! 客人とはいえ、無礼千万にも程がありますよ!」
「大切な妹が危機に陥る方がバルガス王子にとっては苦痛ですよ」
「え? ほっ本当に? 本当にそう思うのですか? 肉屋様」
「あんた結構面倒くさい人だなぁ! バルガス王子は家族思いだから間違いないですよ。首を賭けたって構いません!」
「面倒くさい……ううぅ、薄々気付いてはいましたが、やはり私は面倒くさい女なのですね……」
「大丈夫です! 良い男ってのは、面倒くさい女性でも厄介事と一緒に背負える背中を持っているものですから!」
「流石は兄上様……。その背中は広大にして私ごときでは及ぶはずもなし」
クリスティ王子は何故かうっとりとした表情で虚空に視線を彷徨わせていた。
そこには目の前にいる俺の存在など映っていない。彼女の瞳には虚空でサムズアップをするバルガス王子の姿だけが見えているようであった。
この人ヤバイ。
ブラコンなのは分かっていたけれど、少々常軌を逸しているように思える。
いや、それは今更か。部屋に忍び込んでジャケットに顔を埋めていた時点で一線を超えていたのは確実だったのだ。
あの時点でこの状況まで考慮して然るべきだったのだろう。俺もまだまだ修行が足りない。
本来ならばお近づきにはなりたくない相手だ。
しかし正気を取り戻した彼女が重要人物あることに疑いの余地はない。
戦力としても申し分ないし、何よりこれから城の中を移動するにあたって、彼女ほど役に立つ人材は他に見当たらないのである。
俺は彼女に隠し通路の存在を教えることにした。
夜が明ける前にそこから外へ出るつもりだと説明したのである。
すると彼女は、決行するならば今すぐが良いと提案してきたのであった。
「肉屋様はどうやらこの世界の人々の生活というものを良く理解していないようですね。明け方近くといえば、ほとんどの人間は目を覚まし、活動を開始している頃合いなのですよ?」
「えっ!? 本当ですか?」
「もちろんです。普通の生活をしているのならば、日が落ちたら眠り、日が昇る前には目を覚まします。人目を忍ぶのならば夜間が鉄則。幸いな事に私は発光の魔道具を持っていますので、夜間であっても地下通路であっても移動に支障はありません」
それは助かる。正直明かりもなしにあの狭くて暗い地下通路を通るのは不安だったのだ。
善は急げと俺はクリスティ王子に城から脱出することを提案した。
彼女は二つ返事で承諾する。しかしバルガス王子の部屋を出た彼女は、一旦逆方向へと移動し、自室に入って着替えをすると言うではないか。
女性の着替えを覗く訳にもいかないので、俺はもうしばらくバルガス王子の部屋の中で待機することとなった。
それからしばらくすると、準備を終えたクリスティ王子が部屋の中へ入ってきた。
彼女は普段着に着替えていた。
流石に夜間ともなれば、鎧を着るわけにはいかないのだろう。
とはいえ服の下には鎖帷子等を着込んでいるらしい。流石は侵略国家の王族である。常在戦場の備えは常に怠らないというわけか。
俺はクリスティ王子と共にバルガス王子の部屋から抜け出し、抜け道のある井戸がある城の中庭へ向かって移動を始めた。
ちなみに勇者の盾はバルガス王子の部屋の中に放置したままである。
不用意に触ることで、もう一度クリスティ王子が呪いに支配されることを恐れたのだ。
せめてもの処置として一応ベッドの下に隠しておいたのだが、回収することが出来なかったのは痛手であった。
クリスティ王子の右腕には別の盾が備え付けられている。
なんでも勇者の盾に形状が近い別の盾を用意したのだそうだ。
見つかった時の対策なのだろう。正気に戻って時間が経っていないにも関わらず、すぐに頭が働く辺り聡明な女性であることが伺えた。
俺は彼女にローブを被らされ、彼女の指示に従って彼女を先導しながら城の中を歩いて行く。
夜間に王族を先導する従者のふりをしているのである。
実際にはクリスティ王子の指示で俺が動いているのだからあべこべではあるのだが、はたから見れば違いなど分からないものらしい。
謁見の間を通り抜け、扉を潜って廊下を進めば見覚えのあるいくつかの部屋が視界に飛び込んできた。
医務室を通り抜け、大浴場の入り口を横切り、後ろ髪を惹かれながら食堂の横を通り過ぎる。
召喚されてからずっと隠れていたのである。
当然のことながら俺の胃袋はすっからかんであった。
何か摘める物でもないかと聞いてみたのだが、この時間では流石に何もないだろうとのことで、泣く泣く食堂は素通りすることとなったのである。ああ、コンビニが恋しい。
それからしばらく城の中を歩き続けた俺たちは、見覚えのある中庭へと辿り着いた。
フロンに案内されて辿り着いた、城の外へと通じる秘密の脱出口のある涸れ井戸がある中庭である。
流石にここは城の端だからだろう。周囲に人影は見当たらなかった。
むしろ移動中、夜間であるにも関わらず城内で多くの人の姿を見かけた時は驚いたものだ。
警備やらなにやらで夜間であろうとも、城の中は大勢の人間が動き回っているのだという。
彼女と出会い、正気に戻せたのは本当に幸運だった。
俺一人ではこれだけの人間がうろついている城から出ることは不可能だっただろう。そもそもここまで辿り着くことすら出来なかっただろうからな。
中庭に到着した俺は、ここまで来てようやくクリスティ王子を本当の意味で先導することが出来るようになった。
俺たちは庭を真っ直ぐに突っ切り、涸れ井戸へ向かっていたのだが……
「危ない!」
キィン!
「へっ? うおおっ!?」
突然クリスティ王子が俺の前に進み出たと思ったら、彼女が掲げた盾が暗闇から飛来した矢を弾き飛ばしたではないか。
しかしこの周辺には人影などなかったはず……と思ったのもつかの間、建物の影や茂みの奥から次々と武装した兵士が姿を現したので俺は驚くこととなった。
「あなた達、これは一体何の真似です? どうして突然矢を射かけたのか答えなさい!」
クリスティ王子の問いかけに、兵士たちは沈黙で答えを返した。
この反応は明らかにおかしい。彼女は仮にも王族なのである。
少なくとも何らかの返答があっても良いと思うのだが、彼らは言葉を発しないのだ。
「くっくっくっ」
兵士たちの更に向こう。
暗がりの中から地下深くから響くような低く暗い声が聞こえてくる。
「くっくっくっ、くっくっくっ」
「くっくっくっ、くっくっくっ」
「くっくっくっ、くっくっくっ」
「くっくっくっ、くっくっくっ」
それは四方八方から同じ様なリズムで聞こえてきた怨嗟の声だった。
声の中には明らかに不平が不満が怨念が入り混じっているのが感じ取れる。
絶対に許さないと、この千載一遇の機会を今か今かと待ち望んでいたのだと声を聞くだけで感じ取れるような呪いの声が中庭中から響いてきたので、俺は何事かと身構えた。
「「「「くっくっくっ、くっくっくっ」」」」
それらは最終的に数十もの大合唱へと膨れ上がった。
暗闇の中から姿を現したのは、全身を真っ赤に染めたローブ姿の集団である。
その中の何人かに俺は見覚えがあった。
そこでようやく俺は相手の正体に気付くことが出来たのだ。
俺たちを取り囲んでいる謎の真っ赤なローブの集団。
その正体とは俺をこの世界へと呼び寄せたあの召喚の間にいた魔法使いたちだったのである。
「くっくっくっ、くっくっくっ。……ここで会ったが百年目ぇ! 貴様を殺してもう一度正式な奴隷を召喚してやるぞぉぉ! 肉屋ぁぁぁ!」
集団の中から一歩前に出てきた一際傷だらけの魔法使いが、俺に向かって恨み骨髄の声を張り上げる。
俺はその顔に見覚えがあった。俺が初めてこの城を訪れた際に、俺に向かって呆然とした表情を見せていた魔法使いの一人だったのである。
「貴様のような偽勇者を召喚したせいで、我らがどれだけ陛下の怒りに触れたと思っているのだぁぁぁ!」
「罰として傷を治すことを禁じられ、食事すらも罪人と同様のものを支給されるというこれ以上ない屈辱!」
「それもこれも、貴様が召喚魔法に介入した結果だぁぁぁ! 一日千秋の思いで待ち望んだ復讐の機会! 逃してなるか! なるものかぁぁぁ!!」
「いや、あんたら。あれから本当に一日しか経っていないだろうが」
何が百年目だ。何が一日千秋の思いだよ。
僅か一日前の失敗をここまで恨みに思うだなんて、どれだけ堪え性がないんだこいつらは。
「気を付けてください、肉屋様! この者たちは王国が誇る魔法使いの精鋭たちです! 全員が全員、一騎当千の肉魔法の使い手! この数に一斉に襲いかかられては、いくら私でも防ぎきれません!」
クリスティ王子は戦慄の表情で状況の悪さに歯噛みしていた。
だが心配は無用なのである。
相手が肉魔法の使い手であるのならば、俺との相性が抜群なのはあなたの弟が既に証明してくれているのだから。
「こんな夜遅くにご苦労なこったな。どうしてあんたらはこんな場所にいるんだい?」
「肉屋様!?」
「随分と余裕があるではないか! この偽勇者ごときがああぁ!」
クリスティ王子は焦り、魔法使いたちのボルテージは天井など無いかのごとき勢いで跳ね上がっていた。
もしも隠し通路の存在がバレているのならば、予定を変更して正門を正面突破する以外に道がなくなってしまう。
だが彼らが偶然ここに居ただけなのだとしたら、予定通り俺たちは逃げることが出来るのである。この質問は必要だったのだ。
相手は人数差のおかげか油断し、おまけに怒りで正常な判断が出来ていなかった。
だから簡単に情報が得られると思っていたのだが、予想通り彼らはあっさりと情報を吐いてくれたのである。
「貴様が! 全ては貴様のせいではないかぁ! 貴様たちの足取りが途絶えたこの辺りに引っ込んでいろと陛下にぞんざいに扱われた時の我らの屈辱が貴様に分かるのか!? 貴様がのこのことやって来た時に感じた我らの喜びが貴様に分かるというのかァァァ!!」
「いや、知らんがな。あんな老害に良いように使われるだなんて、あんたらも大変だねぇということくらいしか分からんよ」
「陛下に対して何という口をぉぉぉ! もう許さん! もはやこれまで! お前たち合わせろぉぉぉ! この偽勇者を血肉の一欠片も残さずに吹き飛ばすのだァァァ! 三! 二! 一!」
「「「ひでぶっ!!」」」
〈三択です!〉
俺の挑発に乗った魔法使いたちが、一斉に肉魔法を放ってきた。
それと同時に俺の脳裏にはいつもの三択を告げる声が響いたのである。




