第十話
俺は迷わずロースを選択した。
周囲の時間の流れが正常に戻ったまさにその瞬間、俺の目と鼻の先に光輝く一枚の肉片が降臨する。
「うおぉ!?」
「くっ、なんだ!? みんな気をつけろ! 皇国の第四王子が開発したという新魔法かもしれないぞ!」
「ひいぃ!」
「慌てるな! 全員袋から動物を取り出せぇ!!」
俺たちを取り囲んでいた襲撃者たちは、何故か全員揃って腰に吊るしていた袋に手を突っ込み、その中から次々にネズミやらトカゲやらを取り出していた。
連中はそれらの小動物をまるで盾のよう俺に向かって掲げると、ジリジリと後退を始めたのだ。
昨日この世界に来たばかりの俺には彼らの行動の意味がさっぱり理解できない。
どうやら彼らは俺が何らかの攻撃をしたと考えて、この謎の行動をとったようである。
もっとも俺には彼らを害する意図など微塵もない。
そもそも他人を害する力など俺は一切持っていないのだ。
やるやらない以前の問題で、俺はそもそも他人を攻撃する力など持ってはいないのである。ちくしょうめ。
牢屋で暗殺者に襲われた際、このロースの発光現象は想定外の効果を発揮してくれた。
効果が高かった理由は単純である。あの地下牢が薄暗かったからに他ならない。
か細い光だけが頼りのあの薄暗い地下牢に、突然眩いばかりに光り輝くロースが現れたせいで、あの場にいた者たちは全員揃って目が眩んでしまったのだ。
だから真っ昼間の屋外に現れたこのロースは、決して予想以上の効果を及ぼしたりはしなかった。
襲撃者たちに驚きを与えたことは間違いない。しかしそれ以上の効果はロース単体では決して望めなかったのである。
光は徐々に収束していき、遂にロースの発光現象は完全に収まってしまった。
空中に浮かんでいたその肉片は、光が収まると同時に重力に引かれるようにして静かに落下を開始する。
俺はひょいと手を伸ばし、空中でそれを掴み取った。
手にしたそれをマジマジと見つめる。
俺が手したその肉片は、紛うことなき牛ロースであった。
こいつを浴びるように食いまくってからまだ二十四時間と経っていないのだ。
色といい、形といい、手にしただけで記憶が鮮明に蘇る。
煙と喧騒に包まれた店内。喉を潤す生中ののどごし。次々に焼けていく肉の数々と、斜向かいで貪り食っているサンタの爺さんの幸せそうな笑顔。
服と髭に点々とこびり付いていた焼肉のタレの飛沫すらも、今はただひたすらに懐かしい。
焼肉屋で目と耳と舌に、いや魂に刻まれた熱き焼肉の思い出の数々は、いささかも色あせてはいなかったのだ。
あれからまだ一睡もしていないというのに、思えば遠くに来てしまったものである。
そんな愚にもつかない感傷を抱きながら、俺は手にした肉片を高らかに掲げた。
俺が手にした一枚のロース。
これこそが行く道を見失った俺たちの未来を照らす希望になると信じて。
「全員動くな! 俺の手の中にはロースがある!」
「なっ!? ろーす?」
「ろーすだって?」
「ろーす……とは一体何だ? 皇国軍が開発した新型の武器か何かなのか?」
俺たちを取り囲んでいる襲撃者たちは、俺が掲げたロースに目を奪われていた。
未だかつてこれ程までにロースが日の目を見たことなどあっただろうか。
焼肉をするたびに、ロースはカルビと共に当たり前のようにそこにある肉として食卓を彩っていた。
確かに肩や上や特上といった、安々と選ぶことのできないエリートロースの存在は無視のできない代物かもしれない。
しかしいつだって俺の胃袋には普通のロースばかりが収まってきたのだ。
俺にとって、いや恐らくは焼き肉を楽しむ全ての人にとって、ロースとはそこにあって当然の肉。
決してこれほどまでに注目されるような肉ではなかったはずなのである。こう言ってはロースに失礼かもしれないが。
それが今はどうだろう。
俺を取り囲む全ての人間が、俺が持つロースに注目している。
見ればバルガス王子とフロンもまた、俺の手の中にあるロースに目を奪われていた。
そういえば牢の中でロースを選んだ時は暗殺者の無力化に手一杯で、現れたロースを気にしている余裕はなかったのだったか。
ひょっとしたら二人はあの時の発光現象をロースの仕業だとは考えていないのかもしれない。
いや、考えていないも何も、牢は暗かったので、二人は俺が呼び出したロースをきちんと目にしてはいないはずだ。
というか、俺にしたって初めてなのである。
俺は手の中にあるロースを改めて見つめ直した。
何の変哲もない牛ロースである。
焼けば多分、普通に旨いのだろう。
焼肉屋で頼めば一皿五百円~千円といったところか。いや、それは店によりけりだろうし、枚数によっても変わってくるのだろうが。
俺は肉を食うときはシンプルに焼いて食べたい派だ。
炭火で炙った肉にタレを付けて食うというシンプルな繰り返しが、俺を現世から解き放ち、楽園へと連れ去ってくれるのである。
いや待て、とんかつという手もあるではないか。学生時代にごはん味噌汁キャベツのおかわりが無料のとんかつ屋に通いつめたことを忘れてしまったのか俺は。
間違った、とんかつは豚のロースだ。これは牛ロースなのだから、牛ロースかつになるはずである。
一体何の話をしているのか。一度落ち着いて正気に戻れ、俺。
「貴様が『ろーす』なる物を手にしているのは分かった! だが、それが一体何だというのだ! 貴様の目的は一体何だ!」
襲撃者たちのリーダー、グレンとかいう青年が、俺が持つロースから目を離さずに俺に質問を投げかけてくる。
その様子を見た俺は、狙い通りに事が運んでいることに安堵を覚え、心の中で思わずガッツポーズをとってしまった。
とりあえず相手の出鼻をくじくことには成功したようだ。
後はロースの正体を明かすだけである。
彼らは俺の狙い通りの反応を返してくれている。
このまま行けば、この場を収めることができるはずなのだ。
俺と俺の持つロースにはそれだけの力があるはずなのだから。
「俺の手の中にあるこのロース! これの正体を貴様は知っているのか?」
「なっ、何だと!? ろーすの正体?」
正体は何だと問われたグレンは、更に集中力を増して俺の持つロースを穴が空くほどに見つめてきた。
あれだけ真剣に見つめているのだ。
グレンがロースの正体に辿り着くのも時間の問題に違いない。
昨日連れて行かれた兵士の食堂には、当然のようにいくつかの肉料理も存在していた。
先程の襲撃者たちの会話にも肉という単語が出てきている。
つまりこの世界にもちゃんと肉は存在し、食卓にだって登っているのだ。
だから彼も当然のように、ロースの正体に気づくはずなのである。
そしてグレンは俺の予想通り、ロースの正体を言い当ててきた。
「私にはそのろーすなる物が何らかの肉片に見える! 貴様は一体何者なのだ? 光り輝く肉片を呼び出し、一体何をしでかすつもりだ!」
「何をするつもりかだと……馬鹿なのか、貴様は!」
「なっ、なにぃ!」
「目の前に肉があるんだぞ! 食べる以外の選択肢があるというのか!」
「は、はぁ? 食う? ……って、その肉を食べるというのか?」
「当たり前だ! このロースは紛うことなき牛ロース! 焼いて食べたら普通に旨いはずだ!」
「うっ、旨いのか……」
「旨いんだよ! ロースだからな!」
「ろーす……、いやロースか。ロースというのは旨い肉なのか……」
「その通りだ!」
「その通りなのか……」
グレンは呆然とした表情でロースとロースを手に持つ俺を見つめていた。
それはそうだろう。
突然虚空に現れた光り輝く謎の肉片を片手に「これは普通に旨い肉なんだ!」と堂々と宣言されても、どういう反応をしたら良いのか途方に暮れてしまうはずだ。
俺がロースを呼び出した理由。
それは光り輝くロースを呼び出すことによって、興奮した相手の出鼻をくじき、ロースの正体がただの肉片であることを教えることで、相手の戦意を喪失させることにあったのだ。
彼らは武器を手にして怒りのままに俺たちを襲おうとしていた。
それなのに、襲いかかろうとしていた相手が肉を呼び出し「これは旨い肉だ!」と訳の分からない主張を叫んでいるのである。
どういう反応をしたら良いのか分からなくて当然だろう。やっている俺自身でさえ苦笑を禁じえないのだから。
バルガス王子の直球な交渉は残念ながら失敗に終わった。
たが、彼が作ってしまった不穏な空気はこれで払拭できたはずだ。
ならばここからは再交渉の時間である。
相手が聞く耳を持ってくれるのならば、俺には彼らと交渉する手段があるのだから。
交渉において重要なのは、お互いにとって益となる行為を提示することだと俺は考えている。
一方だけが利益を得る関係は不健全だ。それでは交渉相手は聞く耳を持ってはくれない。
お互いに利益のある関係、つまりはWIN-WINの関係になることこそが、交渉をまとめる最良の手段なのである。
相手を交渉の場に着かせたいのならば、彼らに俺たちに協力する事によって得られるメリットを提示しなくてはいけなかったのだ。
だから俺は彼らに教えるのである。
俺の手の中にあるこのロースが、普通に旨い肉なのだということを。
「俺は肉を召喚できる奇跡を持っている! お前たち腹が減っているんだろう? 俺たちをお前たちの住処に連れて行ってくれれば、この肉を食わせてやるぞ!」
「なっ!?」
「にいっ!? 馬鹿な! 肉を召喚できる奇跡だとぉ!?」
「え? その肉を食べられるの?」
「リーダー、食べたい! 肉を食べたいよ!」
「あっこら、お前たち! 危険だから前に出るなと言っているだろう!」
「危険なんてあるわけないじゃん。だってあれって肉なんでしょう?」
「腹減ったー! 肉食べたーい!」
「食べたーい!」
「食べたーい!!」
「オイラも食べたーい!」
「なんで貴様まで便乗しているのだ、フロン!」
子どもたちと共にフロンまでもが肉を食べたい食べたいと大合唱を始めてしまった。
その様子を呆れた様子で眺めていたグレンは、溜息をついてナイフをしまうと一言「付いてこい」と命令して背を向けて歩き出してしまう。
子どもたちが「腹減った」「肉が食べたい」と言っていたので、ロースを使った交渉が出来るのではないかと思ったのだが、どうやら無事に成功してくれたようだ。
俺はグレンと同じように呆れた表情をしているバルガス王子と共に「食べたい、食べたい」と叫び続けているフロンを引っ張ってグレンの後を追いかけていく。
気のせいか彼の背中は大分煤けているように見えたのだった。
とりあえず絶体絶命の窮地からは脱することに成功した。
彼らに付いていけばとりあえず今日の寝床くらいは手に入るだろう。上手くすれば拠点も手に入るかもしれない。
たとえ駄目でも、一時的に追っ手から距離を置くことは出来るはずだ。
とにかく目的もなくスラムを放浪するという現状からは脱することができる。
俺たちは黙ってグレンの後を追い、スラムの奥へと進んでいった。
そうして俺たちは彼らのアジトへと辿り着いたのだ。
「ここが俺たちのアジトだ。中に話を通してくるから少し待て」
そう言ってグレンは、目の前の建物の中へと入っていった。
俺たちはグレンの仲間たちと共に、建物の前で大人しく待機している。
彼らのアジトになっている建物、それは崩れかけた古い神殿であった。
実は建物を見た瞬間に「教会なのか?」と思ったりもしたのだが、バルガス王子が建物を見るなり「ほう、このような所にも神殿が建っているのだな」と呟いていたので、この建物が神殿であることに疑いの余地はない。
スラムとは言っても、昔はこれほど荒れ果ててはいなかったのだろう。
だいぶ古ぼけたこの神殿も、かつては地域の人たちの生活に根ざした大事な宗教施設だったのかもしれない。
今や荒れ果て崩れかけ、スラムにたむろするゴロツキの根城になっているのだから世も末であるのだが。
いや、世も末もなにも、この国はつい昨日皇国に占領されたばかりではないか。
国は戦争に負け、城は占拠されてしまっている。
スラム街にある神殿の一つや二つ、崩壊したところで何の不思議があるというのか。戦争で傷つくのはいつだって弱者なのである。
「それは違うぞ、肉屋殿。この神殿の崩壊と、我が皇国の侵攻には何の因果関係もありはしないのだ」
「この街のスラムはもう百年も前には存在していたって話だしなぁ。皇国が攻めて来る前からこんな感じだったんじゃないの?」
俺の勝手な妄想は、バルガス王子とフロンの手で、バッサリと断ち切られてしまった。
どうやら目の前に佇むボロボロの神殿は、随分前からボロボロの状態だったらしい。
そういえば、この世界の宗教はどういったものなのだろうか?
思えば俺はこちらの宗教に関しては全くの無知なのである。
どれだけこちらにいるのか分からないが、最低限の知識くらいは身に付けておきたい。
知らずに神を冒涜し、恨みを買ったりしたら大変だ。
俺はバルガス王子にそのことを説明し、彼は俺の疑問に答えてくれた。
「ふむ、では肉屋殿にも分かりやすいように簡単に説明しよう。この世界にはあらゆる場所に神殿が存在しており、全ての神殿は神々の庭へと繋がっているのだよ」
「神々の庭?」
「うむ。数多の神々が集う、美しき天上世界だという話だ。この世に生まれた人々は神殿に参拝し庭に集う神々に祈りを捧げる。そして神々は、地上に生きる人々の願いを聞き届け、奇跡の力を授けてくださるのだ」
「えっ? じゃあ、俺以外にも奇跡を使える人間がいるってことですか?」
「おいおい、何言ってんだよ、カイト。そんなの当たり前じゃんか。オイラも使えるし、王子様なんだから当然バルだって使えるんだろう?」
「うむ、当然だ。むしろ奇跡を使えない人間の方が少ないだろうな」
「おい、お前たち黙って待っていろ! それとそこの剣士! いい加減、皇国の王族のフリを止めないと後で痛い目を見るぞ!」
「むう、なぜ彼らは私の話を信用しないのだろうか?」
「それについても聞いておきたいよなぁ。こいつらにとって皇国は敵国のはずなのに、どうして皇国の王子様を名乗るとこんなに怒るんだ?」
「それは……「待たせたな」グレン!」
俺たちの見張りをしていた男が質問に答えようとした瞬間、先に建物に入っていたグレンが戻り、俺たちに向かって建物に入れとジェスチャーをしてきた。
どうやら中の住人の許可はおりたようだ。
俺たちはスラムの住人に取り囲まれたまま、古びた神殿の中へと足を踏み入れた。
中に入った俺たちは驚く。神殿の中は、外観からは想像もできないほど整理整頓され、綺麗に掃き清められていたからだ。
扉の奥には何もなかった。内部はまるで体育館のようなだだっ広い空間となっており、椅子や机は愚か祭壇すらも存在していなかったのである。
どうやら元の世界の教会のように、十字架があったり長椅子が並んでいたりするわけではないらしい。
内部は大分薄暗かった。
高い位置にある窓が光を取り込む役割を果たしていたが、それ以外の窓の大半には板が打ち付けられていて、これが光を遮っていたのだ。
おまけに室内には灯りすらないのである。これでは暗くて当然だ。
天井は高く、奥行きもある。
どうやらこの建物は縦長の構造をしているらしい。
建物の奥には老人と女性、そして多くの怪我人や病人の姿を見ることができた。
彼らは俺たちに警戒の眼差しを向けている。
しかし、グレンが「大丈夫だ」と言った途端、彼らの警戒度が目に見えて下がった。
やはりグレンは彼らの取りまとめ役をしているようだ。
一声掛けただけで彼らの目から険が消えたのを見れば、グレンがどれだけ信用されているのかは手に取るように分かる。
「おやおや、皆様ご苦労さまです。お茶を入れましたので、一息入れてください」
「神官様!」
「神官様、ただいま!」
建物の奥の扉が開いたと思ったら、黒い外套を着た背の高い男性が姿を現した。
彼は湯気の立つカップをいくつも盆に載せて運んでいる。
柔和な笑顔を顔に貼り付けた大柄な中年男性だ。
子供たちが声上げて走り寄っていく姿を見れば、彼が随分と信頼されているのが理解できた。
「そちらのお三方もよかったらどうぞ。どうやら大分お疲れのご様子ですからね。何の変哲もないお茶ではありますが、どうか喉を潤してください」
「神官様! こいつらの正体は未だ知れないままなんだ。茶なんぞ振る舞ってやる必要はねぇ!」
「じゃあ僕が先に飲むー!」
「あ~僕も~」
「お茶だ、お茶~」
どうやら彼はこの神殿の神官であり、親切にもお茶を用意してくれたらしい。
彼は神殿の端にまとまっていた老人や女性たちにお茶を差し出した後、こちらにゆっくりと近づいて、子供たちにもお茶を振る舞おうとしていた。
子供たちは我先にと神官へ手を伸ばし、彼が淹れたお茶を飲もうとしている。
〈三択です!〉
その時、俺の脳裏にいつもの声が鳴り響いた。
それはもはやお馴染みとなっていたものではあったが、これまでにないタイミングで俺以外に迫る危機を、俺に告げてきたのである。
〈神官に化けた王国の魔法使いが、子供たちに毒入りのお茶(微毒、継続摂取により人体変異性あり)を飲ませようとしています! どうする?〉
①こんなガキ共がどうなろうが知ったことではない。無視する。
②子供たちに毒を盛るなんて許せない! 事実を告げて神官の正体を暴け!
⇒③ロース
なにぃ?




