七.傀儡の罠
麗蘭たちが魔界へ発って、六日程経った。彼女たちを見送ってから、ずっと燈凰宮に留まっていた魁斗は、得も言われぬ胸騒ぎを覚えつつ日々を過ごしていた。
一人で旅に出ている時は感じない寂寥が、普段仲間たちが集う宮殿に居ると、ひしと胸を襲い来る。此の国とは友好関係にある己が故郷で、何も起こり得ないと信じてはいても、麗蘭たちを案ずる気持ちが拭えない。
皆が不在の間、魁斗が皇宮を離れぬ理由は其処に在った。万一何か起きた時、直ぐ様駆け付けるためだ。
斯様に麗蘭たちが心配に為るなら、自分も付いて行けば良かったと後悔したが、其の度にいずれにせよ不可能だったと思い直す。蘢にも告げた通り、魔族とはとっくに絶縁しているのだから。
今日も城下に出て退屈を持て余して過ごし、賓客への持て成しとして供された豪勢な夕餉を食べ終え、客室に引き取った。
することも無いので早めに床へ入り、瞑目する。瞼の裏に自然と現れるのは、麗蘭の姿だった。
『知ってる? 宮中では、君を麗蘭か蘭麗公主の夫にという声が上がっているんだよ』
蘢の放った一言が甦る度に、何やらこそばゆく為る。不可思議な心境のわけを考えようとするうちに、気が遠く為ってゆく。
外では決して気を抜かず、睡魔にも強い魁斗が、あっという間に寝入ってしまう。人間ではないため、睡眠を取らずとも活動は出来るが、寝られる環境に在れば寝付きは良い。
数刻経過した頃、突然目が覚めた。未だ夜半なのだろうか。窓の外は変わらず暗く、橙色に燃える燭台の明かりのみが室内を照らしていた。
重みを感じて天井を向くと、誰かが上に乗っていた。柔らかな髪が首元、胸元に掛かり擽ったい。そして微かだが、覚えの有る控えめな香の薫りがする。
「麗蘭、か?」
警戒心が強い魁斗なら、反射的に払い除けそうなものだが、殆ど動かない。身構えるより先に、彼女の意外な振る舞いに度肝を抜かれて硬直していた。
暗がりでも、はっきりとした目鼻立ちや身に纏う神気から、間違い無く麗蘭だと分かる。だが奇妙なことに、彼女は名を呼び掛けても黙したままで、体勢を変えずに魁斗を見詰めているのみだ。
共に旅をしている時から、魁斗は麗蘭が自分のことを特に意識しているのに気付いていた。不意に近寄ったり話し掛けたりすると、彼女は驚いたり恥ずかしがったり、分かり易い嬉しげな反応を示してくれる。其れを好意と受け取り悪い気はしていなかったが、敢えて知らぬ振りをしていた。正しくは、如何応えて良いものか決めかねていたのだが。
生死をも共にした仲間とはいえ、夜更けに男の閨に入り込むという大胆な行動を、初心な麗蘭が取るだろうか。其れとも只の自意識過剰で、彼女が魁斗のことを男として気にしているなどという想像は、思い過ごしに過ぎないのだろうか――などと、魁斗は少なからず戸惑っていた。
「魔界に行ったんじゃなかったのか。蘭麗や蘢も帰って来たのか」
動じている素振りなど見せずに、魁斗は尋ねた。話でもしなければおかしな空気に為りそうだったのと、此れ以上密着されれば自制心を失いそうで怖かったのだ。
だが魁斗の意に反し、麗蘭からの応えは無い。己の声が耳に入っているのかすら怪しい。
「麗――」
痺れを切らし、やや声を荒らげ名を呼ぼうとした瞬間、魁斗は目を疑った。麗蘭が静かに剣を抜き、此方へ突き付けようとしていたからだ。
異常な事態を察知した魁斗が、咄嗟に麗蘭を押し退けて側方へと転がり、寝台から下りた。傍に置いていた刀を取ると、柄を顔の前にして抜かずに構えた。
「おまえ、何で」
隙を与えずに臨戦態勢と為り、距離を取ったまま麗蘭と思しき者の様子を探る。あちらも寝台の上で剣を持ち、魁斗の出方を窺っているらしい。
どう見ても、戯れではない。「麗蘭」からは本当の殺気を感じる。そう為ると、彼女が正気か否かを疑うが、神気に乱れは無く正常であり、誰かの術に掛かっているとは考えにくい。そもそも光龍として開光した彼女を操れる者など、先ず居ないだろう――左様な思考を巡らせ、睨み合い時が過ぎ行くが、策は全く浮かばない。
――麗蘭相手じゃ、戦えない。
舌打ちすると同時に、麗蘭が動き出した。頭目掛けて振り下ろされた剣を、魁斗が己の刀で受け止める。但し依然として抜刀せず、鉄鞘に納めたままだ。幾度か受けてみたところ、太刀筋や身のこなしからもますます麗蘭だと信じざるを得なく為る。
何ら敵意を持たぬ、其れどころか大切にしたいと思っている女との不本意な戦いは、此れが初めてではない。亡き想い人、紅燐相手にも斯様な苦渋を強いられ、彼女を救えず逝かせるという最悪な形で終わったが、あの時は原因が明確に分かっていた。されど今は、如何すれば良いのかがさっぱり分からない。
時間は掛けられなかった。魁斗が貸し与えられている此の客間は狭くはないが、広くもない。彼に戦う気が無いとはいえ、攻防が続けば物音を聞いて人がやって来るであろう。こんな夜深くに、若い男の寝所に公主が居たと知られれば外聞が悪い。
かと言って麗蘭に手荒な真似も出来ず、そう易々と抑え込むことも不可能だろう。実力的な意味でも以前ならばいざ知らず、開光していると為ると話が違ってくる。
「麗蘭、止せ!」
制止にも聞く耳を持たない麗蘭は、何度躱され、受け止められても手を緩めない。紅燐の時と似たような状況が、魁斗を追い込んでゆく。
腕力は然ることながら、剣の扱いにおいても麗蘭より魁斗の方が数段上だ。其れでも剣を抜かずに防戦一方では、相当厳しいものが有る。
明白なのは、此れが麗蘭の意思に依るものではないということだけ。彼女の性格からして、たとえ何らかの誤解が生じて魁斗に殺意を覚えているとしても、寝込みを襲うなどというのは有り得ない。
見聞きしてきた凡ゆる術式を現状に当てはめ、一つの可能性に辿り着く。違っていたらと思うと恐ろしいが、逡巡している場合ではない。
「済まない、麗蘭」
短く謝った後、魁斗は麗蘭の右腕を掴んで強引に剣を奪い、力任せに後ろの寝台へと押し倒す。彼女の両手首を左手で束ねるように抑え付け、胸の着物をはだけさせた。
胸に巻いた晒しの上辺り、白い肌の上に期待していたものを見付けると、抵抗する間も与えずに剥がし取る。其れは、白い墨で呪言を書き付けた黒い霊符だった。
符を失うや否や、麗蘭は両目を見開いてぴたりと動かなく為る。札が貼られていた部位から黒煙が噴き出して、熱せられた蜜蝋の如く溶け始めた。
麗蘭の姿をしていたものは、見る見るうちに形を変えて小さく為り、遂には不気味な黒色の木偶人形と化す。剥がした呪符も独りでに焼失し、魁斗は予想が的中したのを確信した。
――やはり、魂封術か。
魂を抜き傀儡に封じ込め、其の者そっくりな姿形を写し取って操る。抜き去る魂が小さな断片であれば、本人にもばれずに術を行えるが、先程のように強度は弱まるため簡単に符を奪われ解呪されてしまう。
彼自身、実際目にしたのは一度しか無い。使える術者の限られた高難度の邪術である。
欠片とはいえ、神巫女である麗蘭の魂を縛する程の力を有し、彼の術を以て魁斗を殺そうとする者と為ると、心当たりは少ない。
「浮那さま、なのか?」
魔界を離れ、久しく忘れていた継母の名。魔宮において魁斗を憎み邪魔者扱いしていた者は多く居たが、彼の女が代表格であった。
――だが、何故今更。
自問の答えは直ぐに見付かった。たとえ魁斗が魔界から遠ざかろうと、浮那には彼を憎悪し続ける理由が在るのを思い出したのだ。其の途端彼ともあろう者が、慄き怯えて手足に震えを覚え始めた。
「行くしか無い、か」
避け続けたいと願っていた因縁が立ちはだかり、魁斗もいよいよ覚悟を決める。彼を責め苛む消えぬ傷痕が、心の奥で疼き始めていた。