四.白銀の王姫
魔族――神でも人でもなく、妖でもない。麗しの民と呼ばれた彼らは、天地開闢の折より天治界に住まい、人界からは独立した王国を築いていた。
魔国、或いは魔界と呼ばれる彼らの地は、聖安の東方に位置する箔州の向かいに在る。最東端の浜辺に立って望める空と海は、人界側から見ればほぼ毎日雲と海霧に覆われ、暗い鉛色をしていた。
人界の中でも唯一魔族と繋がりの有る聖安皇家は、彼の国の王族と対等な立場で親しく交流している。そうした関係は、麗蘭の母恵帝や父甬帝の数代前――数十年前に交代した前王朝の頃から始まり、百年程続いているという。
現魔王は魁斗の異母兄に当たる、豹王。三年程前、彼が烈王の後を継ぎ即位して以降、聖安の皇族が魔界を訪れたことは無かった。
数ヶ月後に即位を控えた麗蘭は、第二公主蘭麗と共に魔王への表敬訪問をすべく出立した。
護衛として同行するのは禁軍少将である蘢と、其の麾下の将兵二十余名。公主の女官たちも従い、総勢四十名近くの一団と為って国境の箔州へとやって来た。
蘭麗や女官たちは輿を使ったが、麗蘭は蘢を含む護衛たちと同じく馬に乗った。七日程の旅を経て、海を挟んで魔国に面する海岸に到着した。
「あれが魔国の土地か」
麗蘭は目を凝らし、濃霧の彼方に横たわる魔族の領土を視認した。然程距離が有るわけではないが、あちらの様子は霧に阻まれて判然としない。
当然、海を渡ることに為ると思っていたため、乗っていた馬は途中の町に預けて来た。蘭麗も輿から降りて、子供の頃以来久し振りに見る海原を物珍しげに眺めていた。
「魔族の迎えが待っているはずなんだけど、見当たらない。先に行くなら渡し船が要るね」
そう言って蘢が部下に探させようとした時、不意に聞き知らぬ声がした。
「船では渡れないよ」
声の方を見やると、一行の傍らに一人の美々しい少女が立っていた。
そよ吹く風に靡く銀髪は、落日の光に当てられて黄昏色に染まっている。振り返って麗蘭たちを一瞥した際、彼女の顔を数瞬垣間見られた。
年の頃は、恐らく麗蘭や蘭麗と同じ位であろう。魔族特有の鼻筋の通った顔立ちに、涼しげな眼元は独特の色気を漂わせ、人界では目にしたことの無い雪肌に紫色の薄衣を纏っている。幼さと妖艶さを混在させた少女は、麗蘭を含めた人の子の一行を刹那に魅了した。
「此の海には術が掛けられていて、船は渡せないんだよ。渡ろうとすると船ごと波濤に呑み込まれてしまうの」
少女は海の方へ向き直り、片手をゆっくりと上げて島へと翳す。時を移さずして地が揺れ始め、重い地鳴りが響き渡った。
突如起こった振動に足下がぐらつき、浜辺に立つ麗蘭たちは体勢を崩しそうに為る。踏み止まって正面を見上げると、俄かには信じられぬ光景が在った。
浜から島側へと波及するように、何かに押し上げられて海面が盛り上がり、やがて海水が左と右に分かれて落ちてゆく。現れたのは、人一人歩ける程度の幅を持つ土道であった。霧に埋もれて先が良く見えないが、海を隔てて存する陸地に続いているのであろう。
「此の道は魔の血を継ぐ者にしか開けないんだ。さあ、どうぞ」
皆が呆気に取られているうちに、少女は軽やかな動きで麗蘭に道を譲った。
「忝い」
会釈して足を踏み出すと、麗蘭はもう一度少女を見返った。だが不可思議なことに、彼女の姿は跡形も無く消えている。
「姉上、美しい方でしたね」
幾度か瞬きをする間の出来事に戸惑いつつ、感心した蘭麗は姉に声を掛けた。
「ああ」
やや力の抜けた返事をした麗蘭は、暫し少女の居たところを見詰めていた。
――あの少女、面影が魁斗に良く似ている。其れに、魔の気の性質もそっくりだ。
「麗蘭、彼女を信じて行ってみる?」
蘢の問い掛けに、麗蘭は直ぐに首肯した。
「そう致そう。何となくだが、あの者は魁斗と近しい者のような気がする」
茗への旅路を共にし、斯様な場面における麗蘭の人を見る目の確かさには、蘢も信頼を置いている。部下たちの方へ振り返った彼は、自分を先頭にして公主たちを守りながら続くよう命じた。
開かれた道を暫く歩き、鉛海を渡った先の浜には、先刻橋を通してくれた少女と一人の老人が立っていた。そして彼らに従い、鎧甲を付けた屈強かつ優美な兵たちが並んで跪いている。ざっと数えただけで五十名程は居るだろう。
「ようこそ、お出でくださいました」
初めに口を開いたのは、杖を突いた真白い頭の老翁だった。光るような白髪と髭は癖の無い直毛で、顔や手には乾いた皺が幾本も深々と刻まれ、腰は曲がり貧相な身体をしている。纏った衣服は大き過ぎるものの上物と一目で判る物で、公主たちを迎えたことからも魔国の中で高い地位に就いていると推測される。
酷く老いているとはいえ彼もまた、人が持てぬ奇怪な存在感を有していた。殆ど開いていない小さな目には只ならぬものを感じたし、麗蘭たち若者にとっては老いゆえの得体の知れなさも恐ろしい。
「太師の髄沼と申します。此方は……」
「私は樹莉。魔王の妹だよ」
髄太師の言葉を遮り、少女は屈託無く笑う。
「さっきはごめんなさい。お迎えの兵士たちを用意していたのだけど、貴女がたに早く会いたかったものだから」
樹莉は最も近くに居た蘭麗と蘢を見やり、頭を下げた。
「貴女が蘭麗公主で、貴方が蒼稀少将ね。魔国へようこそ」
名乗ってもいないのに彼らの名を言い当てたかと思えば、呆気に取られている麗蘭へと目を向ける。
「ようこそ、次期女帝陛下……麗蘭公主。神巫女さまと呼ぶよりも、此の場は相応しいよね」
彼女の物言いは、初めて会った時の魁斗を彷彿とさせた。彼の血縁と聞いて納得してしまう。
「樹莉殿に髄太師。出迎えを感謝する」
麗蘭が慇懃に礼をすると、傍らの蘭麗と蘢も其れに倣う。魔国の王女と太師を前に、蘢と後ろに控える将兵たちも片膝を付いて跪礼した。
「王宮に案内するよ。付いてきて」
王女が踵を返したのに合わせ、魔族の兵たちは横に退いて道を空けた。彼らの奥に見えたのは、靄で白くぼやけた深緑の森だった。
魔王の居宮、摩伽羅宮の場所は、地図には決して記されない。魔族たちでさえ正確な位置を知る者は少ないという。主な理由は、外敵の侵入を防ぐためと言われている。
見たところ、樹莉の一行は近くに輿や馬を待機させていないようだ。王宮は意外と近いのだろうか。聖安の公主たちを長く歩かせるとは考えにくい。
想像を広げつつ、砂浜を通って森に入った直後、麗蘭たちは前方に妙な物を見付けた。
「建物も無いところに、扉が?」
蘭麗が呟いた通り、大きな両開きの扉が道の真ん中に在り行く手を塞いでいた。五尺八寸(※)有る蘢の背丈よりもかなり高く、良く磨かれた黒鉄の荘厳な扉で、珍しい意匠の細やかな装飾にも目を引かれる。
一行を先導していた樹莉が立ち止まり、皆も足を止めた。樹莉は後ろの麗蘭たちを肩越しに見てから、隣の髄太師へ丁寧に目配せした。
彼が杖の先で扉を軽く押すと、重量の有る鉄扉が音を立てて奥へと開き始めた。人の目からすれば実に奇想天外なことに、扉の向こうに森の中とは全く異なる景色が現れた。
最前に居た麗蘭たちだけでなく、背後に居た部下たちも何度も瞬ぎ声を上げそうに為っている。
「あれが、摩伽羅宮でございます」
太師が示す、扉の先に見えたのは、白練色の角石を積み築かれた巨大な城だった。水堀に囲まれて浮かぶ洗練された要塞の如き姿で、両端には丸い塔が在る。整然とした左右対称の城には霧が掛かっており、奥には森が仄見えていた。
様式は聖安のものでも茗のものでもなく、此処に居る全ての人間が初めて目にする形をしている。幻想的な菫色の空と水も相俟って、麗蘭たちは、異界に来たのだという現実を実感した。
――なるほど。此の扉を使って宮殿の在処を知られぬようにしているのか。
城を見詰めている麗蘭に、樹莉が腕を広げて歩みを促す。
「さあ、どうぞ」
頷いた麗蘭は、勧められるまま扉を通る。樹莉の美麗なる微笑みに、何故か言い知れぬ不安を感じながら、魁斗の生まれ育った地へと向かうのだった。
※五尺八寸……約175cm