三.友情の盃
正殿陽彩楼の隣に在る、藤奧殿。賓客である魁斗に与えられた一室で、魁斗と蘢は約束通りに酒を酌み交わしていた。畳の上に向かい合い、寛いだ姿勢で胡坐をかいている。
茗への道中、彼らはこうして膝を突き合わせて語り合う約束をしていた。帰国した後暫くは、恵帝の死を悼み酒席を避けていたのも有り、実行が後ろ倒しに為っていた。
「おまえ、見掛けに依らず相当行ける口だな」
「魁斗こそ」
蘢が軍務を終えた夕刻から飲み始めて四半刻も経っていないが、既に度数の高い白酒瓶を数本空けている。二人共酒には強く、短時間で大量に飲んでも全く顔色が変わっていない。
「旅って、何処に行っていたの?」
「聖安の領土内を見回っていただけさ。おまえたちと会う前の続きだよ」
数年前に魔国を出奔した魁斗は、聖安帝国版図の各地を旅していた。途中で恵帝の依頼を受け、茗との国境白林にて蘢たちと合流したのだ。
「一時期よりはましに為ったし、地域にも依るが、とにかく妖の数が多過ぎる。白林城で燻っている神人兵たちを、そういうところに送り込めないのか?」
妖の蔓延る琅華山と隣り合わせの白林には、昔から有能な神人たちが集められてきた。しかし、琅華山の妖たちは妖王の命に従い、城壁を越えて白林にまで侵入することは無い。黒巫女瑠璃が黒神の力を借りて琅華山の妖を操り、街へ攻め込ませた一件や、茗と開戦し国境を守る兵が多数必要に為るまでは、城壁を守る人員は有り余っていた。
「白林城は茗との戦における要衝でもあるからね。茗と正式な休戦協定を結べば、出来ると思う」
事実、麗蘭が討伐した牛鬼の件でも、白林の神人軍を派遣する案は早い段階で出ていた。だが西方の守りを薄くするわけにもいかず、実現には至らなかった。
「茗との和睦か。そちらの手筈は如何為っている?」
両国の帝が世代交代したことも有り、聖安は宿敵との和平の道を探っていた。
「存外、順調に進んでいるよ。丞相翠峽殿と、あちらの丞相である紫暗とが交渉中だ」
茗の丞相の名に首を傾げる魁斗だったが、ややあって頷いた。
「元大御史、元四神の白虎か。話には聞いていたが本当に丞相に為ったんだな」
禁軍出身の白虎が文官最高の官職に就くのは、茗の史上前例の無い人事だった。蘭麗を逃がし大御史を罷免されたという割には、意外な大抜擢である。
「政治手腕は翠峽殿が上だと見られているけど、やはりなかなかの曲者だそうだよ。武力も然ることながら、頭も切れる男だからね」
話しながら、蘢は半年前の激闘を思い出す。刺せたはずの止めを刺さぬまま、白虎は蘢を置いて戦いの場から姿を消した。
「そうか、おまえは茗で白虎と戦っていたな」
彩霞湖近くの館に幽閉されていた蘭麗を助けるため、蘢が白虎や数十名の敵兵と戦った話は、魁斗も当然聞き及んでいた。白虎が蘭麗を九年間恭月塔に閉じ込め、取り戻そうとする者たちを一掃していたことも。
「あの時、斃せなかったのが悔やまれる」
発した言葉通り、蘢の表情には無念さが滲んでいた。戦いの最中は、蘭麗姫の救出だけを考えて思考の隅に追いやっていたが、白虎は聖安の勇士たちの仇であり、今後も脅威であり続ける男。是が非でも勝たねばならぬ敵だったのだ。
「白虎が残っているとはいえ、珠帝や四神が居なく為り茗側の戦力は著しく衰えた。燈雅皇子が力を付ける前に、此方も態勢を整えなければ」
其処まで言うと、蘢は口を噤んだ。
「済まない、四神の朱雀は君の知己だったね」
「いいや、気にするな」
柔らかく笑んだ魁斗は、空に為った蘢の小酒杯に酒を注ぎ足した。同じく蘢も、魁斗の杯に酒を注ぐ。
注がれた白酒を一気に飲み干すと、魁斗は蘢の目を真っ直ぐに見て言った。
「おまえだから言うが、死んだ朱雀と俺とは――昔情を交わした間柄なんだ」
刹那、目を見開いたが、蘢はさして驚かなかった。以前より魁斗と朱雀の間には、何らかの深い繋がりが有るのではと察していたからだ。
「茗の朱雀とは知らずに、短期間だが共に居た。珠帝の命を受けたあいつに命を狙われ決別し、其処で終わった関係だ」
言い切る魁斗には、少しの躊躇も見受けられない。
「今はもう、未練は無いという言い方だね」
「ああ。だが、未だに守りたかった女だというのも確かだ」
香鹿の地で再会した時、魁斗は己の心も朱雀――紅燐の心も知った。黒神の力に蝕まれた彼女と剣を交え、彼女の真情を悟ってしまった。
「あいつは俺を傷付けた罪悪感に苛まれ、遂には黒神の手を借りて落命した。仮に、俺の面前で逝ったのがあいつの願い通りだったとしても、守れなかった責任は俺に在る」
杯を持っていない右手で拳を作り、静かな怒りを込めて声を震わせる。
「黒神を殺す。奴の戯れが、俺の復讐心を更に燃え上がらせた」
魁斗の告白を聞いていた蘢は、ゆっくりと首を横に振った。
「黒の邪神が憎いのは、もはや君だけではないよ。彼の神は、僕が此の命と剣を賭して仕えた主をも……恵帝陛下をも奪い取った」
彼の声にもまた、秘められた悲憤が在った。麗蘭の宿敵、魁斗の仇敵は、蘢にとっても憎き相手と為ったのだ。
「此れから如何するの。此の国に留まって、麗蘭の側で支える積もりなんだよね?」
麗蘭が神剣を継承した際、魁斗は蘢にそう話していた。
「ああ。今の俺にしてやれることは限られているけどな」
其の言には、二つの意味が包含されていた。魁斗と魔国とは絶縁状態にあり、縁故に依る彼の国の支援は期待出来ない点。そして聖安に在っても、魁斗には友好国の公子だという以外何の地位も無い点である。
「知ってる? 宮中では、君を麗蘭か蘭麗公主の夫にという声が上がっているんだよ」
唐突な蘢の問い掛けに、魁斗は小さな座卓の上に酒杯を置いた。
「初耳だが、何となく意図は見える」
「十年程前にも、君と蘭麗姫の縁談が有ったそうだね」
聖安人からすれば、公主たちの婿として魁斗程の人材は居ないであろう。人よりも高位の種とされる魔族と神族の血を、皇族の血脈に取り入れられる。聖安皇家の血筋に本物の神性を持たせることで、人界での帝国の位地を一段高く出来るのだ。
「あれは、俺が魔国に居たあの時だからこそ進んでいた話だ。今とは事情がまるで違う」
加えて、蘭麗側の事情も異なっていた。当時、蘭麗は表向きには第一公主であり、恵帝唯一の御子であった。同盟国とはいえ、魔国に対してもそう通していたはずだ。
「君は、あの姉妹をそうした対象として見たことが有るの?」
諸々の背景を抜きにして、心の内を直接問うてくる蘢に、魁斗は些か困惑げに首を捻った。
「あいつらのどちらかと結婚出来ればしめたものだろう。俺だけじゃなく、人界中の男がそう思うはずだが」
真意の読めぬ当たり障りの無い返答だが、蘢はあたかも納得したかのように頷いた。其のため魁斗は、蘢が何故斯様な質問をしたのか深く考えようとはしなかった。
「俺のことは良いが、おまえは如何なんだ? 命懸けで少将にまで為ったのは、国への忠誠心だけじゃないだろう。そういう気を起こさせる女が居るんじゃないのか」
「まあね。未だ未だ手が届きそうにないけれど」
ぼんやりとした答えより、魁斗は蘢の想い人がやんごとなき姫君なのではないかと想像した。だが、まさか其の姫君が蘭麗であるとは夢にも思わなかった。蘢の出自や実力を低く見ているわけではないが、平民の出で女帝の娘を望むのは、世間の常識からすれば有り得ぬことだったのだ。
既に何度目か分からなく為ったが、二人は空いた杯に酒を注ぎ合う。双方共に、当分酔いそうにない。
「俺もおまえも、飲み足りないみたいだな」
「そうだね」
身分を越え認め合った友として、魁斗と蘢は取り留めも無く話し続けた。されど夜が更け散会するまで、それぞれ秘匿の想いに関し、口を滑らせる程酔うことは無かった。
幾ら親しく為ったとはいえ、打ち明ける危険は互いに冒せない。賢く武勇に優れた彼らであっても、こと恋路については曝け出す自信も勇気も不足していたのだ。