二.再び集いし者たち
「お帰りなさいませ、姉上」
内朝の中心、正殿陽彩楼に戻って来た麗蘭を、蘭麗が入口で出迎えた。公主の一行が帝都に入ったと聞いてから、彼女は姉の帰城を今か今かと待ち侘びていた。
「今戻った。態態済まぬな、蘭麗」
数日振りに蘭麗の顔を見て、麗蘭は漸く人心地が付けた。後ろに控えている女官たちを下がらせると、妹と共に歩き出す。
宮中に変わりは無かったか、領土内で問題は起きていないか等、報告を受けながら、上層へと続く螺旋階段を上って行く。広々として見晴らしの良い露台に着くと、黄花梨の方卓と背もたれの無い椅子に対座した。
此処は陽彩楼の中で最も高くに位置する露台で、燈凰宮の南側と城下町、其の先の阿宋山まで一望出来る。正殿の中で麗蘭が好んで使っている場所だ。
「稚叡は如何でしたか」
「思った以上に被害が大きかった。海に面した村々は取分け酷く、三、四の小さな集落は全滅だったそうだ」
麗蘭が直に惨状を目にしたわけではないが、視察に行かせた兵に依ると、荒れ果てた家々や妖に喰い散らかされた人々の残骸は目も当てられぬ有様だったという。大きな港町が襲われ惨害が甚大に為る前に片が付いたのが、せめてもの救いだろう。
「もっと早く出られていればと、悔やまれる」
今回、麗蘭が大いに反省したのは、出るのが遅過ぎたことだ。軍からの報せを聞き、自ら退治しに行くのを思い立ったのは早かったが、出発するまでに時間が掛かり過ぎた。公主自ら出向くのに反対する諸臣を説得して、蒼稀少将が供をし神人軍を付けるという条件で納得させるまでに数日を費やしたのだ。
公主でなければ直ぐ様駆け付けられていたかと思うと、口惜しい。麗蘭は改めて、己の立場の不自由さを思い知らされた。
「其れは仕方無いが、省みるべきは他に有るぞ」
懐かしい低声がして、麗蘭は背後を振り返る。廊下には案の定、宮中を歩き回る恰好にしては形式ばらない、砕けた袴姿の魁斗が立っていた。
「魁斗! 帰っていたのか」
驚く麗蘭の声が、嬉しそうに弾む。魁斗は二ヶ月程前に一人で旅に出ており、顔を合わせるのは久し振りだ。麗蘭の隣に腰を下ろすと、彼女を横目で見て労いの言葉を掛けた。
「ご苦労だったな、麗蘭。二つ首の牛鬼をあっという間に斃しちまったんだって?」
「ああ、大したことは無い」
気恥ずかしさを隠せぬ麗蘭は、不器用に謙遜する。分かり易い反応に気付いているのか否か、魁斗は真面目な顔をして続けた。
「そもそも此の国は、領土の大きさの割に妖討伐軍の規模が小さ過ぎる。白林の神人軍のように優れた軍を持ってはいるが、妖の少ない茗に比べれば遅れている」
的を射た指摘を受け、麗蘭は重々しく頷いた。
「そうだな。茗との戦いも一段落した今、そちらに注力せねばならぬ頃合いかもしれぬ」
旅を終えて都に戻り、次期女帝として諸侯たちに受け入れられてからというもの、麗蘭の身には国内外の問題が伸し掛かってきた。茗との戦の後処理や妖の討伐、各所で起こる天変地異に因る災害への対応。其れらだけではなく、宮中の掌握や諸外国要人への顔見せ、数ヶ月後に控えた即位式の準備等、山積している。
丞相である翠峡を筆頭に、上将軍瑛睡と並び兵部を統率する大司馬、土木工作や治獄を担う大司空の三公と、各公の下に二名ずつ配された六卿。彼らの進言を元に次期国主たる麗蘭が吟味、判断し、統治が行われる。今は亡き名君、恵帝に仕えてきた三公六卿は、皆優れた能力と人徳を兼ね備えた者たちで、為政者と為って間も無い麗蘭を全面的に支えてくれている。此の半年、麗蘭が何とかやってこられているのも、彼らの功績に依るところが圧倒的に大きい。
経験豊富な彼らだけではなく、年若いながらも各地を旅して見識を広めた魁斗や、知略に富んだ蘢もまた、様々な場面で力を貸してくれる。優花と共に阿宋山へ戻った風友も、麗蘭が文を書けば直ぐに的確な助言を授けてくれる。余りにも突然にして、大いなる使命を背負わされてしまった麗蘭は、皆の助力を得て前へと進んでいた。
丁度其処へ、蘢もやって来た。以前着ていた藍色ではなく、将官位を示す紫色の軍服姿が未だ見慣れない。
「戻っていたんだね、魁斗。相変わらず気を感じないから、全然分からなかったよ」
魁斗に気安く声を掛け、麗蘭に会釈した蘢は、蘭麗には恭しく頭を垂れる。蘭麗に傍らの空いている席を勧められ、礼を言ってから腰掛けた。
「良かった、聞きたいことが有ったんだ。麗蘭と蘭麗姫の魔国行きの話なんだけど」
「ああ、豹貴兄に会いに行くんだろう?」
魔界への訪問は、数ヶ月前から決定していた事項である。同盟国の魔国へ二人の皇女が出向き、魔王に拝謁するのが目的だ。
「現魔王の豹王さまは、魁斗の異母兄上でしたね」
蘭麗に頷くと、魁斗は腕を組んで続けた。
「兄弟の中では割と親しくしていた方だ。魔族の王族にしては話の分かる奴だし、歓迎してくれるだろうよ」
長く魔王の位に在った魁斗の父、烈王の死後に跡を継いだのが、現魔王の豹王だ。王としての評判は高く、烈王同様人界に友好的である点でも知られている。かつて麗蘭も、豹王との親交を積極的に深めるよう恵帝から言い聞かされていた。
「僕がお供をするんだけど、君も行く? 勝手知ったる人が居ると心強いんだけど」
「いや、悪いが遠慮しておく。俺は勘当同然の身だから」
考える素振りすら見せずに放たれた返答で、麗蘭は以前魁斗が言っていたことを思い出した。
『何ていうか、嫌になっちまったんだよなあ……家が。母親が死んじまった辺りからずっと嫌気が差してて、いよいよ親父も死んで継承者決めって時に……限界が来た』
麗蘭も気付いていたが、魁斗は己の過去を語りたがらない。特に、魔界に居た頃の話は殆ど聞いたことが無い。只彼の様子から、人には打ち明けたくない何かが存しているのは明らかだった。
「どうした、麗蘭。俺が一緒じゃないと寂しいのか?」
図星を突かれ、麗蘭は数瞬答えに窮する。彼女が知る限り、魁斗にしては珍しいからかい方だ。
「そ、そんなことは無い。蘢が居てくれるから安心だ」
「はは、そうだろうな」
愉しげに笑うと、魁斗は席を立ち蘢を見やった。
「蘢、怪我はもう良いのか」
「完治したよ。今回は麗蘭のお陰で出る幕が無かったけど」
半年前、度重なる激闘で重傷を負った蘢は、一時は医官から剣を持つなと忠告されていた。暫くの間大人しく養生していたため回復も早く、直ぐ軍務に復帰した。
「茗での約束を覚えてるか? 魔国に行く前に、一度付き合ってくれ」
何時どんな約束だったか直ぐには思い付かず、蘢は少しの間考えていた。程無くして心当たりを見付けると、快く頷いた。
「ああ、あれね。もちろん良いよ」
二人だけで意味深なやり取りをしている彼らに、麗蘭と蘭麗はきょとんとした目を向ける。
「悪いな。男同士の約束だ」
真顔で言う魁斗に対し、蘢は呆れつつも笑んでいた。
「そんな、勿体付けること無いのに」
こうして皆で冗談を言い合えている状況が、麗蘭にとっては新鮮であると同時に嬉しかった。隣の蘭麗を見ると、彼女も可愛らしく微笑んでいる。
半年前の戦いで母を亡くし、悲しみに沈んでいた時期とは大分空気が変わった。魁斗が旅に出掛ける頃までは、忙しさも相俟って談笑する余裕が無かったのだ。
「じゃあな。当面の間は隣の殿舎に室を借りてるから」
手を振って行こうとする魁斗の後を追い、蘢も立ち上がった。
「僕も途中まで付いて行くよ。兵部に戻らないといけないんだ」
青年たちが去ってゆき、再び姉妹だけと為った。麗蘭は、此処までの会話から浮かんだ疑問を投げ掛ける。
「魁斗だが、何だか以前よりも打ち解けた感じがしないか?」
「私もそう思いました。元より親しみ易い方でしたが、先日お戻りに為られてからずっとあの調子です」
其れを聞き、麗蘭は少々がっかりした。魁斗が自分に対してだけ、あのように明るく接しているのではないかと期待していたからだ。そして蘭麗もまた、表には出さないが姉と同じ理由で落胆していた。
「姉上、お時間は大丈夫ですか? 即位式の打ち合わせが有るのでは?」
「ああ、そうだった。済まぬな」
帰国してから、蘭麗は麗蘭の補佐役として甲斐甲斐しく動いていた。麗蘭の予定を把握し、必要が有れば同席して姉よりも目立たぬように助言する。九年に及ぶ空白期間が有ったにも拘らず宮廷の仕来りに精通しており、聡明で要領の良い妹の存在は、麗蘭にとって大きな助けと為った。
気掛かりなのは、蘭麗が無理をしているのではないかという点だ。寂しさや苦しさを紛らわせるために、敢えて忙しなく働こうとしているのではないかと心配に為る――此の半年間、麗蘭自身がそうだったからである。
生き別れた妹との再会を果たし、半年が経った。一人では背負い切れない悲しみを分かち合い、時に慰め合ったことで、ぎこちなかった当初と比べると大分仲良く為れた気がする。
だが一方で、半年も近くに居るのに姉らしいことをしてやれていないという焦りも有った。長く敵中に居た蘭麗は、泰然として年相応には思えない部分が有る。同じく実年齢より上に見られがちな麗蘭でさえ、時折どちらが姉なのか分からなく為る程だ。
そして其れ以前に問題なのは、そもそも『姉らしい』というのが如何いうことなのか、麗蘭には未だに良く分からないという点だった。
此れから自室に戻って着替え、丞相翠峡たち諸臣と会わねばならない。長旅の疲労は有るが、今日は夕刻まで休んでいる暇が無い。
「お疲れでしょう。宜しければ、翠峡に言って明日にさせますが……」
蘭麗の気遣いに感謝しつつも、麗蘭は首を横に振った。
「行って来る」
休息など、してはいられない。僅かの間だけ側に居られた母も、休む間も無く働いていたのだから。
「早く終わらせるから、夕餉は共に取ろう。其の時にまた、色々と話を聞かせてくれ」
「はい」
十数年を経て二人の時を勝ち取った姉妹は、深く傷付いた心身を癒やし合い、懸命に生き抜いていた。忍び寄る影と試練には、未だ気付かずに。




