三十七.糸紡ぎの神
魔の国に、黄昏の君と呼ばれた公子が居た。王座に近い器と称され、赫赫たる道を歩んでいたが、血の柵から逃れられぬまま現世から去った。
彼、荐夕が眠るのは、彼が生まれ育った宮殿より離れた辺塞の地。埋葬した魁斗と髄太師、そして豹王を除き誰も知らないはずの、果ての果てだった。
紅紫色の海に臨む岬に、彼のささやかなる墓標は在った。小さな墓石には名も刻まれず、王の息子が葬られているのすら示されていない。寄せては返す波の静音と、水気を含んだ冷たい風が過ぎ行くだけで、天も地も寂然としている。
斯様な終わりを迎えるべき男ではなかったかもしれぬ。王に為る資格は持たなかったものの、妻子や兄弟姉妹を愛し愛され、多幸に恵まれ逝くべきだったかもしれぬ。されど彼が達したのは正反対の、陰惨な終幕だった。
此の終焉を不運と見るか自業自得と見るかは、人に依り様々であろう。しかし唯一、そうした人々とは違った見方をする者が居た。
「やっぱり、黒いのじゃないか」
墓所の前に立っている黒髪の男――禍事の黒幕たる一柱の邪神に、美しい少年の姿をした力有る何かが声を掛けた。
銀色がかった白い長髪に、生気を感じさせぬ透明な白い肌。右眼は黄金、左眼は若葉色に色付いている。人の表し方で言えば十二、十三という歳の頃だが、見る目を持たぬ只人でも人ならざる者と判る異様さが存していた。
故有って、気が遠く為る程長く幼い姿で居る所為か、彼の拵える笑みは実に少年らしかった。無邪気で時に人を困らせるような、賢くませた子を完璧に演じている。本来の彼は少年ではないし、対照的な性質であるにも拘わらず、である。
「三百年振りか? 千年振りか? 今日は子供の姿じゃないんだな」
態とらしく目を瞬かせ、大人の形を取っている黒神を見上げる。気安い物言いだが、左右で違う色の目に親しみの類いは無く、かと言って嫌忌の念なども無い。
前回彼らが会った際、黒神は少年に合わせて同じ歳頃に見える姿形をしていた。だが時期については全くの認識違いで、ほんの十年程前の出来事だ。
「こんなところで何をしている。其の墓の男から、自分への恨み言でも聴いてやっているのか」
荐夕が埋められた理由を、白い少年は誰から聞いた訳でもなく知っていた。そして意企した黒き神の思惑も、少年だけが悟っていた。
墓下の青年から眼前の少年へ目をやると、黒神は口の端を緩めた。
「君こそ何しに来たの。此処に眠る哀れな男に、穏やかな来世を与えてやるため?」
戯れではない問いだった。左様な御業を行えるのは、黒神でも天帝でもなく――此の少年のみだからこそ尋ねたのだ。
「あいにくおれは、そんな慈悲を持ち合わせていない。黒いのらしき影を見つけて、話をしに来ただけだ」
嘘か真か、分からぬ黒神ではない。少年の内側を十二分に解しているがために、心を読めずとも見通せる。
「薺明神の息子は、なかなかしぶといじゃあないか」
「僕は死んでも良いと思っていたんだけどねえ」
対した者の息の根を止めかねない、凄みの有る冷笑だった。滅多に情感を滲ませない邪神の只ならぬ一言に、少年は同情めいた顔をしてみせた。
「真誠鏡を息子に見せたのも、黒いのの計らいなんだろう?」
「まあね」
「何処までも酷なことをする。あの息子にとっても、『おまえ自身にとっても』」
黒神は無言で返し語らなかったが、少年は得心したらしかった。
「其れよりおまえの巫女の反抗で、光龍が余計なことを思い出したみたいだな」
指摘した時、俄に風が走った。結われていない黒神の髪が揺れ、静かに流されてゆく。
「開光した光龍には、おまえといえど直接手出しは出来ない。此のままずるずると記憶が漏れ出したら、千五百年越しの涙ぐましい努力も台無しに為るぞ」
「そうだね。あれは失策だった――認めよう」
手落ちと言っている割に、黒神の表情は柔和に為った。不快げどころか、嬉しげとも取れる。
「巫女を罰しないのか」
「あの子も無自覚でやったことで、抗いではないよ。耀蕎の息子を殺させようとして、樹莉に剣を渡したのは僕だし」
彼らが話しているのは、錯乱し始めていた樹莉が瑠璃の助言で答えを出し、麗蘭の前で自決を試みたことだ。
「死にゆく命を持つ下界の女たちが、如何に愚かで恐ろしい選択をするか……すっかり忘れていた」
諦観する一方で、微かではあるが、畏れの念も混じった言い方だった。
「へえ。『今の』黒いのにも、恐いものが有るんだな」
大袈裟に驚く少年に、黒神が苦笑する。
「『今の』僕だからこそ、恐いんだよ」
目立たぬよう嘆息し、少年へ話を投げた。
「君は本当に見ているだけなんだね。偶には暇潰しでもしてみれば。兄上にはもう、君を見張る余力は無いし、君を縛るものは其の『枷』くらいだろう」
「おれは人間どもに何の興も覚えない。下手におまえを刺激して、臍を曲げさせるのも本意ではないからな」
自分に遠慮しているという少年に、黒神は声を発さず笑った。
「君が僕のご機嫌を気にする必要は無いよ。最終的に、僕の願いを叶えられるのは君だけなんだから。君に自由をあげられるのもまた、僕だけだけれど」
つまり、彼らは不可欠と為る存在同士であり、相互に牽制する関係にある。
「そんな時が、一体何時来るのやら」
「そう遠くないさ。人間を相手取っているから、時も迫っているし」
急ぐ積もりだと仄めかし、黒神は会話を終わらせた。
「いずれまた。『此処で』君と会えて良かったよ、結」
終いまで含みを持たせたまま、姿を掻き消す。残った少年――糸紡神・結は小さく舌打ちしたが、愉快そうに呟いた。
「結局其れか。回りくどい奴だ」
改めて、石の下に沈んだ青年と向かい合う。海と同じ、紫に近い赤に染色された空を仰ぎ見て、此の世で彼にしか行えぬ仕事に取り掛かったのだった。




