三十六.臥待ち月
和睦交渉をたったの三日間で終えた燈雅は、帰路に就いて最初の宿泊先に立ち寄っていた。往路でも泊まった、聖安人だが茗とも繋がりの強い貴族の館である。
行きと同様過剰に歓迎され、主人の酒の勧めにも適度に付き合った。誘いに応じようとせぬ紫暗を連れ出すのも、今回の旅で慣れてしまった。
館内で最も上等な客室に引き取ると、従者たちを早々に下がらせて執務卓に向かう。自国を離れている間にも、時間が空けば持って来た仕事を片付けねばならなかった。
明日の出立予定時刻は遅く、早暁まで起きていても仮眠くらいは取れるだろう――そう考えていたが、会えば共寝せずにいられぬ女の急な訪問に依り、計画は丸潰れと為った。
前回会って以降、望月は数日前に過ぎており、早くとも次月までは現れまいと踏んでいた。彼の黒巫女との密会は快い緊張感を与えてくれるため、機会を逸するのは惜しいと思っていた矢先であった。
夜半を迎えた頃から、瑠璃を寝台へ引き入れて数刻。満月の度に重ねる極上の房事に陶酔する。彼女は燈雅の下で撫でられ舐られ、腰を掴まれ貫かれながら、婀娜やかに喘ぐ。謀めいた笑みも無く、行為其のものに没入する様は、燈雅の目には余裕を欠いて見えた。
聖安に来て此れといった女を抱いていないのもあり、燈雅の方も器用に抑えられない。普段と異なる今宵の瑠璃を前に、制御する理由も無い。彼女の身体を心ゆくまで耽味し、愉しみ尽くした。
言葉らしい言葉すら発さず、燈雅と一頻り交わった後、瑠璃は眠り落ちていた。褥に入り狂わせた男は数知れず、同じ床の上で眠った者はそう居ない――況してや自分だけ先に寝入ることなど、此れまでに在っただろうか。
無防備な瑠璃の寝姿は、男を知らぬ幼気な少女とさして変わらない。拍子抜けしつつも悪い気はしない燈雅は、綺麗な裸身に絹布団を掛けてやった。
神的な尊さを放つ玉貌に、暫時見惚れる。再三燈雅を惑乱させんとする彼の女とは思えず、どちらが真の瑠璃なのか分からなく為る。
じっくりと吟味する暇も与えず、瑠璃は眼を開けた。額に手を当て、やおら身を起こし瞬きを繰り返す。
「起きてしまったのですか」
寝台の端に座した燈雅が、肩越しに瑠璃を見て残念そうに言った。瑠璃は背に掛けられた布団を被ったまま、彼の傍へと移る。
会うや否や床に潜り込んだので、未だろくに話もしていない。腕が触れるか触れないかの位置で並んで座った彼らは、正面の格子窓から覗く暁闇を見据える。程無くして、先に口を開いたのは燈雅であった。
「出遅れたようです。素早く話を纏めたのに、結局欲しいものは得られず無駄骨に終わりました」
属領の返還も聖安まで出向いてきたのも、麗蘭を得るためだと聞こえかねないが、そんなはずは無いと瑠璃にも分かっていた。左様な男であれば、あの焔の女傑が後継に選ぶ訳が無い。
「横から奪おうとは思われないのですか。方法など幾らでも有りましょう」
「麗蘭公主には相応の価値が有りますが、元より私はそうした性分ではないのです」
燈雅とて、五百年に一度しか降臨しないという聖なる巫女は欲しい。されど、別の男のものと為っている女を奪取する趣味は持ち合わせていない。相手が昊天君であろうがなかろうが、根本的に、女に固執し労力を掛ける性質ではないのだ。
かつて只一人だけ、執着させられた女が居たが、あれを手放してからは左様な女は二度と現れまいと思っている――珠帝が燈雅を推した要因の一が、彼があの女を諦めたからなのだが、当人は知らずにいた。
「其れに、私は王として麗蘭に勝利すると決めました。講和が成った後も其の戦いは続くと為れば、男女であるよりも仇でいる方が良い」
詰まるところ、茗王としての矜持が、女である麗蘭への興に勝った。国主として対峙したあの時、燈雅は自ずと悟ったのだった。
「更に言えば、あの二人には既に他者を立ち入らせぬ何かが出来ていた。あのような男と女が如何様な結末を迎えるのか、是非見てみたい」
会談が行われた三日間、麗蘭と魁斗を気取られぬよう観察していた。彼らを取り巻く空気感や所作の細かなところまで見るに、年若い恋人同士にしては底深そうな絆が存していた。育んできた恋情のみならず、黒神を敵とし命運を共にするがゆえの結び付きであったが、訳を知らぬ燈雅にも感じ取れる程の危うい強固さを有していた。
包み隠さず語った燈雅は、漸く瑠璃を見た。
「まさか追い掛けてくるとは。余程私が気に入ったのですね」
此の場に瑠璃が現れたのは、予期出来ぬ正直な驚きだった。燈雅の帰国後、次なる満月まで耐えられず、自ら抱かれに来たとも思えない。彼の見たところ、瑠璃は色を好めど自制出来ず、誇りを捨てる女ではない。
「陛下にお訊きしたいことが有るのです」
返って来たのは、意外だがもっともらしい返答だった。
「黒巫女殿が、私などに何を訊きたいというのですか」
促してみると、瑠璃は単調な声で吶吶と問うた。
「自分のために犠牲と為り、死んだ女が居るとしたら。其の女が取るに足らぬ女であっても、貴方さまのお心には残りますか」
一瞬、燈雅は瑠璃ではない別の女と話している感覚を持たされた。超然として揺るがぬ彼女らしくない、気弱さとも取れる情が現れていたのだ。
そして、問い掛けの中身自体も不意を突くものだった。明かしたことの無い燈雅の過去を知り、敢えて彼に尋ねているとしか思えぬ質問だ。
己が唯一愛執した女が、己のため命を擲ったという傷心を抉ろうというのか――瑠璃の狙いを訊きたくて堪らなかったが、燈雅は何食わぬ顔で答えてやることにした。
「残るでしょうね。後の人生で如何に素晴らしい女が現れようとも、ふとした時に其の女の面影が浮かぶ。私のような冷たい男でもそう思うのですから、『人の心を持つ男であれば』屹度皆、忘れ得ぬでしょう」
虚飾は無い。彼自身が体感したままを、彼の言葉で表していた。俯いている瑠璃の反応を見つつ、付け加える。
「只、男の記憶には残るでしょうが、其れが愛へ昇華したり、元より存した愛が深まったりするとは限りません。或いは、消えぬ傷と為り憎しみに転じるやも」
答え終わった後も、彼女は何やら考え込んでいるらしかった。初め疑った、燈雅の古い傷口を拡げるような企みは窺えない。
「何故、左様なことを?」
燈雅に尋ねられ、瑠璃は間を置いて返し方を選んでいた。
「恋の闇に苦しみ、そんな答えを出した娘が居たのです。貴方さまのような殿方の目に如何映るのか、気に為ったのでございます」
他人事であり、興味本位に過ぎないという口振りだが、思い煩っている様子が見て取れた。探ってみたい好奇心も有ったものの、格別なる一夜が去ろうとしている今、何時もなら耐え忍ぶ衝動に従ってみることにした。
頼りなげな肩に触れて引き寄せ、瑠璃と正対する。渇いた唇を啄み細腰をさすり始めると、彼女は困惑したように囁めいた。
「お珍しい、もう夜明けなのに」
鳶色の鋭利な瞳が、一際輝いて瑠璃を覗く。黒巫女の背負う深遠なる闇黒に挑むが如く、不敵に笑んでみせる。
「今のそなたには、喰い殺される気がしないのですよ」
天に横たう闇の海が、結ばれた光の粒に隠れし頃。紅黄色に明けゆく世界が、直ぐ其処まで迫っていた。




