三十五.交渉の行方
魔国での一件から数週間後。予定されていた通り、燈雅と紫暗が燈凰宮を訪れた。
宿敵茗の国主が和議を目的にやって来るなど、先帝たちの時代では考えられぬことだった。燈雅が世間の度肝を抜く申し出をしたのは、麗蘭との対話を早期に実現するため。恵帝崩御の経緯からして、聖安の領域深く以外での会談は聖安側が了承しないと読んだのだ。また、麗蘭たちが魔国から帰国したばかりという事情を踏まえた、燈雅なりの配慮も有った。
恵帝が珠帝に依って命を落とした事実を知る者も多い。報復行為を避けるため、宮中では瑛睡上将軍の指揮下で万全の警備態勢が敷かれた。茗側からの要請も有り、大国の国主を迎えるにしては控えめな奉迎と為った。
宮殿内、外朝の紅玉殿において国賓を迎え、其のまま一日目の会談が行われた。聖安からは麗蘭と丞相翠峡、瑛睡上将軍が列席し、魁斗が護衛として立ち会った。出自を明かさぬまま兵に紛れたのは、相手の動向を窺い易いからという魁斗の要望に依るものだ。
半年間に亘る交渉で、停戦協定に盛り込む条件等は概ね決められていた。残るは領土問題の行方であり、双方の主張が噛み合わず最後まで難航すると思われた。
ところが会談の場で燈雅が示したのは、先の大戦で聖安から奪った属国の一部を無条件で返還するという、驚くべき譲歩であった。聖安には領地の回復以外に和解の道は無いと考える者も多くおり、燈雅の見せた歩み寄りは大きな説得材料と為った。
聖安側の誰もが見込んでいなかった展開と為り、早くも落とし所は見えた。日が没した頃に初日の会談が終わると、燈雅たちは近くの殿舎に在る客室へと案内される。引き取る前に話がしたいという燈雅に応え、麗蘭は魁斗と共に会場に留まった。
先程までと同様、麗蘭と燈雅は卓で隔たれた椅子に対座していた。麗蘭は表に出さぬよう気を張り続けていたが、会談が終了して幾らか肩の荷が下りていた。
「燈帝陛下。此度は遠路お越しくださりありがとうございます」
麗蘭の謝辞に、燈雅は丁寧に頷いた。
「圭惺の会談において、我々の先帝が貴国にした仕打ちを思えば当然のことです。身に余る歓待も恐れ入ります」
今までのところ、賓客に接した聖安の者たちは誰一人として燈雅への敵意を見せていない。祝宴などは開かれないものの、敵国以外の要人を迎える時と同じく、最大限の礼節を以て持て成されていた。
「属領の返還も、心よりお礼申し上げる」
「古くより貴国に属する彼の国々は、我々の手には余る。かねてよりお返ししたいと考えていた」
対象と為る二つの国は大戦で茗のものと為ったが、燈雅の言う通り手を焼いている地であった。とはいえ茗国内にも戦争続行派が一定数居る状況で、領土を返すという話を纏めたのはさぞや難儀しただろう――紫暗が各所に上手く根回ししたというのが、実際のところだった。
「母君を亡くされた貴女がたのお気持ちを思えば申し上げにくいが、互いに遺恨を捨てて、向後は手を取り合ってゆきたい」
気品に満ちた燈雅の顔には驕り高ぶりも無く、真摯其のものであった。麗蘭の目を見詰めて離さず、暫し経つと席を立って彼女の傍に片膝を付いた。
慌てて立とうとする麗蘭を手で制止し、臣下さながらに首を垂れる。
「此の度貴国へ参ったのも、私の決意を貴女へ直接お伝えするため。何としても、貴女と再びお会いしたかった」
「陛下」
明らかな動揺とまでいかずとも、麗蘭は戸惑っていた。彼女は臣以外の男から、斯様な態度を取られたことが無い。其れも相手は、父母の代から相容れなかった敵国の主である。
固まっている麗蘭と燈雅との間に、鞘に入れたままの剣を差し出し割って入って来た者が居た。
透かさず立ち上がった燈雅は、思わぬ横槍にも訝しむ素振りを表さない。
「貴殿は」
尋ねられ、答えたのは麗蘭だった。
「魔国の王子、昊天君にあらせられる」
「名乗らずにいた非礼、お詫びする」
言葉の割には悪びれない魁斗が、剣を下げて会釈した。側から見れば無表情でしかないが、麗蘭には彼が心なしか苛立っているように思えた。
「護衛かと思いきや、こちらこそ無礼をいたしました」
意に介さぬ燈雅の慇懃さが癪に障ったのか、魁斗は更に言い重ねる。
「此の国では身分が有りませぬが、麗蘭公主へ求婚しております」
流石の燈雅も片眉を上げたが、唖然としたのは麗蘭の方だ。『求婚』という単語が分からなく為り、聞き返すことすら忘れていた。
「左様でしたか。神巫女殿と半神の君、此の上無い縁であろう」
他意は窺わせず、難無く躱した燈雅は、今一度麗蘭へ向き直り頭を下げた。
「では、今日は此れにて」
退室した燈雅は、外で待っていた女官に連れられ紅玉殿を後にする。漸く二人だけと為り、麗蘭が上ずった声で訊いた。
「か、魁斗。さっきのは何だ」
「おまえが隙を見せるからだ」
決まり悪そうな魁斗の心中が分からず、彼女は眉根を寄せた。
「隙? そんな積もりは無かったが、そう見えたのか?」
意味を取り違えた麗蘭は、納得出来ぬ顔をしている。良くも悪くも鈍感な恋人を微笑ましく思い始めると、魁斗は浅く嘆息した。
「許せ。近いうちに仕切り直す」
「仕切り直すとは……」
悪気無く喰い下がる麗蘭の口を、魁斗が不意の接吻で塞ぐ。魔国で初めて口付けた時とは異なり、紅の塗られた鮮やかな唇は、微かに苦い味がした。
賓客たちが夕餉を終えた時分、蘭麗は挨拶のために燈雅と紫暗の室をそれぞれ訪れることと為っていた。
当初麗蘭は、蘭麗が長年茗に質として囚われていたのを考慮し、別の者と代わらせるよう提案していた。四神であった紫暗の監視下に置かれていたのを特に気にしていたが、本人は役目を降りようとしなかった。国賓の接遇は公主の務めであり、聖安が茗との関係改善を図るなら、遅かれ早かれ避けられない。
蘭麗の望みも有り、護衛として付き添ったのは蘢だった。燈雅との謁見をそつなく済ませた後、同じ建物内に在る紫暗の室へと向かう。
茗の丞相にあてがわれたのは、皇宮において燈雅の室の次に格式高い客間だった。彼らの室は対角線上に位置し、移動には然程時間を要さない。
「姫。大丈夫ですか」
背後に従う蘢の声掛けが無ければ、入り口の前で暫く呆けていただろう。薄絹の肩掛けを掛け直し、振り返って蘢の顔を見る。
紫暗――白虎は、蘢にとっても死闘を繰り広げた敵である。思うところも多いだろうが、彼は何時も通り、至って冷静であった。
「大丈夫です。貴方が居てくれて良かった」
姉でも瑛睡でもなく、魁斗でもなく蘢だからこそ、落ち着いて立って居られた。己を救うために紫暗と戦ってくれた蘢だからこそ、少しだけ勇敢に為れた。
取り次ぎの衛兵を待つ間、蘢は蘭麗の背に視線を送っていた。慈しむように、愛おしむように。
亡き茗の先帝、珠玉に仕えた白虎こと紫暗は、九年間人質の蘭麗を見張る任に在った。
公主を奪還しに来た蘢と戦い、果てに蘭麗を逃がしたために大御史を罷免され、以降は燈雅の右腕として務め始めた。間を空けずに丞相に任じられ、聖安との停戦交渉に当たっている。
半年前と変わらぬ様子の彼は、客間に蘭麗と蘢を迎え入れた。文官として、客人として招かれている以上当たり前であるが、常に手にしていた双剣は持たず丸腰であった。
「ご無沙汰しております」
相変わらず起伏の乏しい声で言うと、紫暗は丁重に頭を下げた。蘭麗も辞儀で返し、かつて激しく剣を交えた蘢もまた、何事も無かったかの如く自然に礼を執った。
「怪我はもう、良いのですか」
窮地に陥った蘢を救うため、蘭麗は紫暗の虚を衝いて深手を負わせた。其の後直ぐ、紫暗が姿を消したがゆえに、蘭麗は敵ながら彼の生死を案じていた。
「はい。お心遣いを賜り恐悦至極に存じます」
紫暗の平坦な返事の後、ややあって、蘭麗が息を吐く。
「もうお会い出来ないと、覚悟しておりました」
捉えように依っては、会いたかったと言っているようなものだ。紫暗は眉間に皺を作ったが、即座に戻して話を続けた。
「申し上げたはずです。私と貴女さまの間には、左様な感情は無用だと――貴女が私を許す必要は無い」
『お忘れになりましたか? 私は貴女の敵なのです』
あの時と似た台詞が、蘭麗には大きく違って聞こえた。冷淡な拒絶ではなく、祖国に戻った若き公主への忠告めいたものに聞こえたのである。
「仰る通りです。私は、貴方の行いを決して忘れません。時折、憎しみすら覚えます」
珠帝の命であるとはいえ、紫暗は蘭麗から自由を奪い続けた。蘭麗のため命を懸けた聖安の勇者たちを、尽く惨殺した。彼女が恭月塔で紫暗から受けた深い傷の痕は、此の先も消えずに残るだろう。
茗から逃れ、次に紫暗と会った際に如何様な反応を取るか。誰に相談出来ることでもなく、蘭麗は独り考え続けていた。怒りが溢れる時も有るが、九年間で否応無く結ばれた不可思議な絆を、捨て去りたくない心も認めていた。
「されど貴国との和睦が成れば、貴方と私の立場も変わる。違いますか」
聖安と茗の和平にのみ望みを託す――透き通った声で問う、蘭麗の想いを汲み取ったのか否か。紫暗は黙した後に、己が胸に手を当てて頷いた。
「貴女の御心のままに。月白姫」
久方振りに響きの良い名で呼ばれ、蘭麗は頬笑みを漏らし掛ける。側に居た蘢に諫められなければ、紫暗に僅かでも心を許してしまったかも知れぬ。
「姫」
蘢のお陰で我に返り、蘭麗は紫暗へ暇を告げた。
「では、此れにて失礼いたします」
「お運びいただき感謝申し上げます」
一礼する紫暗に目礼で返し、蘢を連れ退室してゆく。晴れた顔をしている蘭麗とは異なり、二人の男たちはおのおの抑え難い情を空虚なる面で直隠していた。




