三十一.***
光を奪い返した樹莉に送り出され、麗蘭は魔王の寝殿へと駆けた。
辿ったのは、黒の気が混じった魔力、そして隠す余裕すら無く解放されている魁斗の神気。別れる前魁斗に教えられた道順も頼りに、途中の結界も難無く破り、白金の装飾扉までやって来られた。
深大に息を吐いて、両の手で扉を開ける。見た目程重くない扉が奥へ開くと、玉座の間の中央に、剣の先を床に突き片方の膝で立つ魁斗が居た。
「魁斗」
「麗蘭か」
普段の魁斗ならば、麗蘭が室へ入る前に気で訪れを察知しただろう。名を呼ばれるまで気付かぬということが、眼前の敵以外に注意力を使えていない状況を示唆している。
麗蘭が走り寄ると、魁斗は小さく胸を撫で下ろした。
「黒巫女は」
「去った。戦う積もりではなかったらしい」
会話しながらも、魁斗の表情は険しいままで、身体は数十歩離れた男へ向いている。抜き身の邪剣を下げた銀髪の青年は、此方を見て穏和に笑んでいた。
「あの方が豹王か」
一つ頷くと、魁斗は荒らげていた息を整えつつ双眼を細めた。
「中身は荐夕だ。剣腕も奴のもので、気を抜けば殺られる」
往年の荐夕が如何に強かったか、麗蘭も話には聞いている。されど今、蘇った彼と戦う魁斗が息を乱しているのを見れば、想像を超えていたのは明白だ。
「いや、正確に言えば荐夕でもない。魔の王族を滅ぼしたいという思念のみで動く、黒神の傀儡だ」
此処まで来て漸く、魁斗は荐夕の目的をそう位置付けていた。得られなかった王座を手にすることでも、大妃や魁斗に報復することでもなく、其の歪んだ願望だけを膨張させ、顕世に舞い戻った。そして恐らく、彼を執念の塊とならしめたのは黒の力であり、樹莉が宿していた邪念であった。
傍らで魁斗の横顔を見詰めていた麗蘭は、決心して申し出た。
「辛いのなら、私が代わろう」
共に育った兄と殺し合わねばならぬ理由が、何処に有るのか。何故、魁斗が斯様な仕打ちを二度も受けねばならぬのか。もし自分と蘭麗が似たような状態に為れば、とても平静ではいられまい――代わってやりたいというのが、麗蘭の本心だった。だが、此処で頷くような魁斗ではない。
「もう二度と、逃げるわけにはいかない。おまえの前では尚更だ」
剣の柄を握り直した魁斗は、刀身を支えにして腰を上げた。共に立ち上がった麗蘭は、続けて彼に囁く。
「魁斗。直に樹莉殿が反魂を解いて豹王から荐夕殿を離す。其の時抜けるであろう黒の気を、私が天陽で滅する」
「其れまで時を稼げということだな」
此れには魁斗も納得し、首を縦に振った。樹莉が術を解いてくれるか否かは賭けだったが、豹貴を殺めずに荐夕を止めるには他に術が見当たらない。
肩越しに麗蘭を見て、彼女を安心させるように頬笑んだ魁斗は、再び荐夕と対する。此れまでの戦いで見せた愉しげな笑みではなく、若干の心許なさを感じさせる。されど麗蘭は、樹莉に掛けた言葉を反芻して見守ると決めた。
――私が好いた魁斗を、信じる。
樹莉が執着に打ち勝ち掴んだ機会を、逃すわけにはいかない。何時でも抜けるように天陽を握り締め、微かな気の変化も見落とすまいと目を凝らす。
荐夕の許へ戻った魁斗は、またも彼と斬り結んだ。見たことの無い次元の激闘に、麗蘭は呼吸を忘れて見入っていた。彼らの神速振りに如何にか付いてゆきながら、戦いの行方を探ろうとする。
身体的な能力は半神の魁斗が上だが、剣の術は似た型を用いておりほぼ互角。片や神剣淵霧、片や『王の爪』から奪った魔界製の無銘剣で、武器の斬れ味や強度は圧倒的に魁斗が不利。豹貴の身体を間借りしているため、荐夕の魔力と気が調和していないのは、魁斗に有利だった。
麗蘭の見立てだと、決定的な違いは相手の命を取る意思の有無であった。豹貴を傷付けたくない魁斗は、荐夕の攻撃を受け流すのが主に為るが、荐夕は違う。頭や首、心臓などの急所を的確に狙ってくる。
過去に荐夕を殺めた魁斗は、踏み込みが甘く為り、技の切れも冴えない。防御し損ねて傷を負うことは無いものの、危うい場面が幾度か有り、麗蘭は其の度に肝を冷やす。
当の魁斗も、終わりの見えぬ戦いに焦りを隠せない。剣を打ち合わせるごとに緊張が走り、神経を擦り減らしてゆく。
何度目かの鍔迫り合いで、荐夕は淵霧の黒い刃越しに魁斗の向こうに居る麗蘭を一瞥した。
「何時まで続ける積もりだ? 此のまま攻防していけば、いずれおまえが負けるのは目に見えている」
視線を魁斗へ戻した荐夕は、豹貴の顔に似合わぬ冷笑を浮かべて言った。
「おまえが戦えなく為ったら、代わりにあの巫女が俺と剣を交えることに為るぞ」
其の一言に煽られ、魁斗の焦燥は頂点に達した。尻込みしていた一歩を踏み、力任せに重ねた剣を押し出す。空かさず荐夕の腹部を思い切り蹴り飛ばして体勢を崩させ、後ろに倒して上に乗った。
地に背を付けた荐夕が身を起こそうとすると、彼の右耳すれすれに剣を突き立てて制止する。初めて殺気を見せた魁斗に、荐夕は恐れるどころか愉色を表した。
「おまえが豹貴や樹莉以外のことで激昂するとは。一人前に、一人の女を愛せるように為ったらしいな」
「荐夕」
物哀しさを漂わせる、包み込むような笑顔は、魁斗に昔の異母兄が帰って来たかのような錯覚を起こさせた。魁斗を思い遣り、豹貴や樹莉、他の家族にも慈しみの心で以て接していた――あの頃の荐夕が。
だが、甘い夢を見られたのは束の間だった。荐夕は隙を狙い、魁斗の頬を殴打して押し退ける。左手に持っていた淵霧を右手に持ち替え、よろけた魁斗に刺突せんと持ち上げた。
「魁斗!」
魁斗が反射的に瞼を閉じるのと、麗蘭が叫ぶのとは、殆ど同時だった。そして何の兆しも無く、荐夕は淵霧を取り落として項垂れた。
異変を察して魁斗が眼を開けると、荐夕が力無く倒れ込んで来た。剣を持たぬ左腕で荐夕を支え、違和感に眉根を寄せる。遅れて気付き、背後の麗蘭を振り返ると、彼女は天陽を抜いて身構えていた。
「魁斗、上だ!」
頭上を見ると、豹貴から抜けたらしき影が浮遊していた。巨大な黒竜に似た姿をしており、広い天井の半分ほどを占拠している。荐夕の魂に巣喰って成長し、形を持った黒の気であった。
顔の無い竜の影は、頭部らしきものを魁斗へ向けて嘶く。哮り声は生き物の発する音ではなく、耳を突き破るような金切音。寝殿中に響き渡る其の音は、悍ましさではなく悲しみを湛えていた。
豹貴の身体を抱えて放心する魁斗の前に、麗蘭が躍り出た。魁斗を狙って下降する黒影を天陽で斬り上げ、真っ二つにする。左右に割れた刹那、巫女の神気に依り征圧されて、残すところ無く清められていった。
黒の力を根刮ぎ払い、荐夕の霊魂の気配も消えたのを確かめると、麗蘭は天陽を下ろして樹莉の居る霊廟の方角を見る。荐夕が豹王から分離し、黒の気から解き放たれたことは、一人の少女が苦しみに喘いだ末、いよいよ決断を下したのを明示していた。
「樹莉殿……」
――第三十一話 黄昏色の王子――
偽王が灼かれ、在るべき地へと還って行く。
冷たい床に膝を付き、胸の前で両手を組んだ樹莉が、独り紅涙を絞っている。
「荐兄……荐兄、兄上……」
魔力で成した青い炎が、銀の棺に納められた兄の枯骸を嘗め尽くしてゆく。棺の形は其のままに、樹莉を囚縛する荐夕の成れの果てのみが、彼女の練り上げた劫火で焼かれてゆく。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
直ぐ側で見守る樹莉は、呪を唱えるが如く謝罪を繰り返した。顔や首元に火の粉が掛かって火傷を負おうとも、気にも留めずに謝り続けた。
「ごめんなさい……ごめんなさい。ごめんな……さい」
燃え盛る焔の勢いに、樹莉の声は徐々に細く為る。息が苦しく為り気を失うところを踏み止まって、終いまで見届けようとする。
「ごめ……なさい。ごめ……荐兄。ごめ、なさ……い」
意識が混濁する中、蒼炎の奥に光を纏った人影が見えた。樹莉の望んだ幻なのか、骸に染みた宿怨なのかは、判然としない。只後者にしては神々しく、輝き過ぎている。そして後者にしては、樹莉を見下ろす黄昏色の眼差しが余りに温かい。
「さよ……なら、荐兄。さよな……ら……」
――ある少女の深い孤独が、冥冥たる地底より黄昏の王子を招き入れ、偽王として立てた。
一族への恨みに喰われた其の男は、現世に戻りて呪詛を成そうとするが、少女が執心に勝ったことで再び幽世へと戻された。
男のため、少女が最後に祈ったのは、彼と彼の愛する者の真なる安らぎであった。




