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偽王の骸  作者: 亜薇
本編
32/41

三十.呪縛

 豹王を支配せし色が、黄昏から闇黒あんこくへと変わった時。魔族でも人でもない大いなる者が、偽王に依りきて降臨した。

「斯様に正対し、言葉を交わすのは初めてか」

 豹貴の声でそう言った時、彼はもはや、荐夕でも豹貴でもなかった。瞬く間の変容を悟った魁斗は、息を止めて海青色の眼をみはった。

「貴様は、まさか」

 其の男は、つい今し方まで片鱗さえ無かった純黒の気を発し、筆舌し難い妙麗みょうれいなる笑みを拵えていた。魁斗と麗蘭の仇、非天の王・黒神が、荐夕と一体と為った豹王に降り顕現したのだ。

「三年前からずっと……貴様が成り代わっていたのか」

 驚愕と虚しき望みから問うてみるが、黒神には呆気なく否定された。

「そう信じたいのだろうが、違う。つい先程まで話をしていただろう。『あれ』は荐夕であって荐夕でないものだ」

 沸沸ふつふつたぎる憎しみをこらえ、魁斗は敵の婉曲的な表現から推し量る。荐夕は黒神の手に依り篤実な心を歪められ、別人と化した。更にこうして邪神の憑代よりしろと為り、気の向くままに使われてきたのだろう――と。

「やはり、すべての根源は貴様か。三年前の事件だけでなく、今回のことも」

 怒りを露わにする魁斗に、黒神は笑んだままかぶりを振った。

癲狂てんきょうを齎す地下宮の魔力から守ってやり、願いを成就出来るよう理性のくびきを外してやったのは私だが、望んだのは此の男だ」

 あくまで黒神は、手助けしてやっただけという口振りだった。

「兄弟姉妹をりくし、おまえと戦ったのも此の男。おまえに殺されたのも此の男――ああ、樹莉を犯しておまえへの殺意を芽生えさせたのは、私だった」

 思い出したように付け加えた言は、明らかに魁斗を煽っていた。

「荐夕と豹貴の身体を奪い、愛を偽りながら樹莉を抱いた。清麗だったあの子を淫らで残虐な女に変えて喰らい尽くしたのは、私だ」

 豹王の顔に浮かべられた静謐せいひつなる微笑は、魁斗の怨憎えんぞうを一気に押し上げた。

「黙れ」

 発せられた憎悪は、剣を抜かずにいるのが不思議な程の凄まじい熱量を有していた。魁斗は吼怒こうどこそせぬものの、彼の怨情ほとばしる冷炎は神気の尖風と為って突き抜け、黒神を撫でてゆく。しかし黒神は何ら構わず、続け様に魁斗を煽り立てる。

「三年の間、樹莉に語り続けてきたのは此の男であり私でもあった。おまえたちの妹を血と肉の快楽けらくに溺れさせ、身も心も堕落させてゆくのは、実に愉しかった」

 勘の良い魁斗は、挑発に乗れば邪神の思う壺だと知っていた。半年前、紅燐の命を捕られた際のように、此処でも地を踏み締め、拳を握り潰して凌ごうとした。

 また押し寄せて来たのは、仇敵への憤怒だけではなかった。己の預かり知らぬところで、多くの者を奪われていた無念の思いにも打たれる。母・薺明神や紅燐のみならず、豹貴や樹莉をも守れていなかった事実に呆然と為った。

「後悔しているのか? 兄殺しの罪から逃げずに魔界に留まっていれば、豹貴や樹莉を救えていたかもしれないと」

 心中を見透かしておきながら、黒神はわざとがましく問い掛けた。

「気に病むことは無い。逃げ出しておらずとも、おまえには為し得なかった」

 敵は言い重ね刺激してくる。魁斗は冷静に為ろうと努めつつも耐えかねて、遂に刀へ手を伸ばした。

「ではせめて、荐夕の魂を貴様から奪い返す」

 とうとう剣を抜いた魁斗を見て、黒神は漸く玉座から立ち上がった。

「其れが良い。今度は豹貴も殺すことに為るが、おまえには簡単だ。兄殺しなら、一度やっているだろう?」

 一笑すると、何時いつの間に手にしていた大剣の柄と鞘を掴む。まがつ闇をたたえた其の邪剣は、幾多の悲劇を生み出してきた邪神の持ち物であった。

「もう一つ――方法が有るには有るが。果たして、今の『あの子』に出来るかな」

 独言どくげんした後、神剣淵霧えんぶを抜き払う。剣先を魁斗へ向けた時、黒神は『荐夕だった男』へ器を返していた。魁斗に兄と戦う痛苦を与えるための、悪意に満ちた趣向であった。







 樹莉は麗蘭に背を向け、巨大な銀を切り出して作った祭壇と再度向き合った。五つ積まれた段は、人界の技術では模倣出来ぬであろう細密な細工が施されている。見上げた先、最上段に在る天の威を象徴する白龍像もまた、磨き抜かれた銀で出来ていた。

「此の下に、『本物の』荐兄の骸が在るの」

 呟くように言うと、冷たい龍神像へ震える右腕を伸ばし、指先で触れる。樹莉の表情は愛おしげにも、何かに怯えているようにも見えた。

「浮那大妃が守っていたあの骸は、やはり偽物であったか」

 闍梛宮崩壊後の魁斗の発言から、麗蘭も疑念を覚えてはいた。振り返らぬまま顎を引いた樹莉は、淡々とした調子で話し続ける。

「焼かれる前に別の亡骸とり替えて、腐敗を止めて枯骸こがいにした。魔国では王族が死ぬと焼かずに土へ還すのだけど、荐兄は罪人として遺灰を野に撒かれ、墓にも入れてもらえないことに為っていたから」

 良識を逸脱した行動とも取れるが、麗蘭には樹莉の気持ちが分かる気がした。埋葬されずに骸が無く為れば、反魂術の難度が上がるだけでなく、荐夕が居た痕跡が残らないためだ。

「術が不完全な間は、死人の魂が一部此方の『器』に留まっている。今のうちに燃やしてしまえば、行き場を失くして在るべき場所へ還ってゆくはず」

 死者を冥府へ戻すというのは、自然の摂理や道徳に適う行為に違い無い。荐夕が魁斗と対峙している今なら邪魔も入らず、客観的に見てさして難しいことではない。

 されど樹莉にとっては、此れ程の責め苦は他に無いであろう。現世に呼んだ兄に、己が手で二度目の死を与えることに為るのだから。

「私にしか出来ない。術を掛けた私以外が燃やして灰にすれば、荐兄は永久に還れなく為ってしまう」

 突然見返った樹莉は、麗蘭へと走り寄って縋り付く。麗蘭の両腕を掴む手からは、驚く程に力が抜けていた。

「『あれ』は荐兄じゃない。荐兄はもう何処にも居ない……そうだよね?」

 胸をえぐられる選択を迫られ、必死の形相で同意を求める。麗蘭は哀憐あいれんの情を込めた目で見詰め返し、冷え切った彼女の手を包み込むが如く握った。

「樹莉殿。荐夕殿に宿った黒神が、一切のわざわいを為した。そなたが愛した兄上の優しさに、奴が付け込んだのだ」

「黒、神」

 天治界中で畏怖される者の名を口にすると、樹莉は自分の両肩を抱いて、おののきたじろいだ。麗蘭から恐るべき黒幕の存在を知らされ、数多あまたの悪夢が一つに結び付いたのだ。

「ずっと、此処に居る荐兄の声に従ってきた。あの声だけが私の全てだった。だけどあの声も、私たちの知る荐兄の声じゃなかったんだね」

 祭壇の下に在る荐夕の骸は、三年間樹莉に許された唯一の拠り所であった。かつて荐夕に心を寄せた女を殺させ、母・浮那や豹貴を生贄とさせ、魁斗への復讐を遂げさせようとしたのは、此の骸に残存していたと思しき荐夕のはずだった。

「私が此の身を捧げていたのは――魁斗の母上を手に掛け、荐兄を奪った邪神だったんだ」

 気付いた瞬間、樹莉は無数の氷柱で全身を貫かれた心地がした。彼女に淫邪いんじゃの悦びを教え、満たされぬはずのない偽の愛を与えたのが黒神だと知り、無惨かつ激烈な衝撃に襲われたのだ。

 震撼する樹莉を見た麗蘭は、唇を噛んで黒神への憤慨を漏らす。麗蘭に浸透した正義が、慈愛が、敵への厭悪えんおを増大させる。

「荐夕殿と豹王陛下をお救いせねば。そなたは其の積もりで、此方へやって来たのだろう?」

 瑠璃が去り樹莉と面した途端、麗蘭には直ぐに分かった。樹莉の背を押すため彼女の竦んだ肩に手を置き、怯える瞳を覗き込んだ。

「そなたが荐夕殿を豹王陛下より離したら、私が黒の気を消滅させる。そなたと私で兄君を黒神から救出し、冥界へ送って差し上げよう」

 兄の屍骸を支えにしてきたという樹莉に、酷なことを言っている自覚は有る。だが結局は、邪執じゃしゅうを本人の手で断ち切らせる以外に真の救済は無い。そして此の方法以外に、豹王を殺めず荐夕を正しき所へ還す手段は無いのだ。

 首肯しゅこうする樹莉は、麗蘭から離れて祭壇と相対した。右手をかざして魔力を振るうと、龍神像を載せた銀壇が軽い地響きを立てながら奥へ移動してゆく。壇が動いた後には大きな窪みが在り、同じく銀製の棺が収まっていた。

 樹莉が力を使い、蓋を横へとずらして棺を開ける。やっとのことで人形に見える乾いた骸が現れるや否や、彼女は両の掌で自分の眼を覆った。

――『此れ』が、荐夕殿の……

 足下に横たわるくり色の枯骸が荐夕だと言われても、恐らく誰もが首を傾げたであろう。鼻は潰れて頬はこけ、傑出していたと言われる美貌は跡形も残っていない。特徴とされる黄昏色の瞳も髪も無く、生前の彼を見知っていた者とて判断が付くまい。

 ところが麗蘭には、此の骸に溜められている見えざるものが見えた。其れは魔力であり黒の力であり、今や偽王と為って王座に座する骸に籠められし情念であった。

「私には『其れ』が、生きていた荐兄と同じ姿に見えるの」

 骸を見ようとしない樹莉が、顔を逸らしたまま小声で言った。一目でも見ようものなら、追いやることの出来た妄執にまた呑まれかねない。

「樹莉殿」

 凛然として名を呼んだ麗蘭は、右手で樹莉の腕を引き棺へと近付けようとする。弱り切った樹莉が抗おうとするも、麗蘭の面持ちは厳しかった。

「辛いだろうが受け止めねばならぬ。そなたの言った通り、兄君はもう、此処には居られない」

 残酷な言動だという認識は有る。数ヶ月前、物言わぬ母の骸を葬った麗蘭にも、樹莉の心情は少なからず解せる。だからこそ、何としても為し遂げねばならなかった。

「私は直接荐夕殿を存じ上げぬが、そなたや豹王、そして魁斗を苦しめてまで、此の世に留まりたい等と思う方ではあるまい。そなたが好いた兄君を信じよ」

 身をよじり逃れようとしていた樹莉が、やがて抗するのを止めた。麗蘭の腕の隙間から、向こうに横臥おうがする骸を恐る恐る見ようとする。

「本当の、そなたを妹として愛しんでくれた荐夕殿を、取り戻すのだ」

 偽王の骸と再び会った樹莉が如何どう為ってしまうのか、麗蘭には分かりかねた。しかし魁斗が慈しむ妹だからこそ、清冽せいれつな魂で荐夕を愛した少女だからこそ、樹莉を信じたかったのだ。

 悩み惑う樹莉が少しだけ瞼を上げて枯骸を見るまで、麗蘭にはかなりの時間が経ったように感じられた。

 悪しき夢より醒めた少女が見たものは、枯れた屍か若く麗しい兄君か――樹莉の口から放たれたのは、其の問いの答えとは別のものだった。

「麗蘭。私、貴女のことを前から知っていたんだ」

 そう伝えた彼女の視線は、骸ではなく麗蘭へと送られていた。

「荐兄や魁斗が去って、豹貴兄とも以前のように気安くは会えなく為った。心細くて哀しくて、時折人界に行った魁斗のことを見ていたら……隣に貴女が居た」

 自身と魁斗の話をされ、麗蘭はふと思い出した。国境の街白林で魁斗と出会ってから、離れていた時は有ったが、側近くで茗や非天と戦った日々を。

「貴女はどんな時でも強かった。道を見失いそうに為っても新たな自分を見付け出し、仲間と共に立ち上がった。魁斗と一緒に戦う姿が勇ましくて眩しくて、羨ましかった」

「樹莉殿……」

 濁り無き素直な憧れを告白した樹莉は、泣きながら穏やかに笑っていた。抱き締めていた麗蘭の腕を放し、廟の外を指し示して闘いへと促す。

「『荐兄たち』と魁斗の許へ、行ってあげて。私も必ずり遂げる」

「――頼む」

 涙声で誓った樹莉に頷き返すと、麗蘭は廟を後にした。走り行く麗蘭の後ろ姿が見えなく為るのと同時に、樹莉は枯骸の許に跪いた。

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