一.巫女の光耀
東の眼下に滄海を臨む、広大な草原。西側には原生林と連山が横たわっている。晩春の空は果て無く澄み渡り、清爽な風が吹き抜けてゆく。
時刻は、正午頃。一日のうちで太陽が最も高い位置に在る時分――『光龍』である麗蘭の神力が最も高まる頃だ。
「物凄い妖気だ。琅華山を彷彿とさせるね」
蒼い髪に蒼い双眸の若き少将、蒼稀蘢は、傍らに立つ麗蘭に話し掛けた。理知的で品良く整った彼の顔は、此の一帯に満ちる凶悪な気配に依って僅かに顰められていた。
美しき景観にはそぐわぬ膨大な量の邪気は、神力を操る神人にしか感知出来ない。感じ取れる麗蘭や蘢にとっては、呼吸も儘ならぬ位に分厚く濃い毒だった。
海を見下ろしたままの麗蘭は、蘢の声掛けに難しい表情で頷いた。彼女は背に使い慣れた弓矢を携え、腰には神剣『天陽』を差している。皇宮での正装とは異なる袴姿に、太陽色の豪華な長髪を一つに纏めている、動き回り易い装いだ。
「蘢、周辺の村の守りは?」
「万全だよ。村人は山の向こうまで避難させてあるし、神人軍で十分固めてある」
何時も通り、自信に溢れた蘢の返答は、此れから戦いに挑む麗蘭にとって頼もしいものだ。
「思った通り――奴はなかなかの大妖だ。一介の神人では、結界を張ったとしても瘴気に動けなく為るだろう。先ずは私が出るから、皆を近付けないでくれ」
未だ現れていない敵の強さを、麗蘭は風と大地に滲み込んだ妖気だけで推測する。そして想定していた通り、自分一人で戦うのが最善だと判断した。直ぐ後ろに隊列を組んでいる百名近い兵たちを一瞥し、彼らを率いる蘢に待機を促す。
「分かった。訊くまでもないけど、一人で大丈夫?」
似たようなやり取りが、半年前共にした茗への旅路でも幾度か有った。一応問うてはおくものの、蘢は麗蘭の応えを知っている。彼女は『開光』した光龍の力に慢心しているのではない。時に仲間の助力を得ねばならぬと分かり切った上、自身と敵の力を正しく見定めた上で申し出ているのだと、十分理解していた。
「ああ、任せて欲しい」
此の地に来てからずっと、険しい面持ちをしていた麗蘭が、やっと笑みを覗かせる。蘢は彼女を信じると決め、大きく首肯し送り出した。
麗蘭は蘢や兵たちから離れ、なだらかな斜面を作る草叢を速足で歩き下りて行く。海へ近付くにつれ、此れから対峙せねばならない妖の気が膨れ上がってゆく。
――私が、守る。天と母上より授かった此の力で、皆を守ってみせる。
半年前から何度も繰り返している誓言を、今一度心中で唱える。唱え続けていれば、其れだけ強く為れる気がした。誰にも負けない、負けるものかという勇気を齎してくれた。
間も無く海岸の方向から、巨大な黒い異形が現れた。二つの牛首に鬼の胴、蜘蛛の八つ足を持つ牛鬼である。
轟音を立てつつ、草地を抉り土埃を撒き散らしながら、凄まじい速さで向かい来る。麗蘭の想定通り、神巫女の神気に引き寄せられているのだろう。血走った赫い四つ目は、彼女だけを見据えて逸らさない。
離れたところで見守る神人兵たちは、遠巻きに見ただけで巨怪の悍ましさに怖じ気付き、後ずさる。蘢ですら、想像以上の妖気の大きさと醜悪な姿に息を呑んだ程だ。
最前で一人立ちはだかる麗蘭は、左足を一歩下げて腰の天陽に手を掛けた。後方に控えた男たちとは異なり、ほんの少し目を細めただけで一切の狼狽を見せず、冷静に時を待っていた。
瞬く間に肉薄した牛鬼は、尋常でない濃度の瘴気を纏っているのみならず、異臭のする黄土色の毒息を吐いて獲物を溶殺せんとする。しかし、不可視の結界で身を守る麗蘭には届かない。怪物が二本の前足を上方から下ろす寸前で、彼女は漸く神剣を鞘より抜いた。
鋼鉄の如き尖鋭な足刃を、巫女の神力を含んだ神剣が難無く受け止める。麗蘭を切り裂き損ねた妖の足は、天陽に触れた個所から煙を上げて溶解し始めた。
身動き出来ぬ牛鬼は悶え苦しみ、牛の声に良く似た潰れ声で呻き喚く。前足の大部分が溶けたところで、麗蘭は横に剣を切り払う。
牛の首が一つ、ごとりと地に落ちた。猛毒と為る邪悪な血が切り口より噴出するが、神気の壁に守護される彼女には降り掛からない。牛鬼は苦し紛れに残った足を一斉に振り上げるものの、麗蘭は最期の抵抗すら許さず剣を薙いだ。
二つ目の首が宙を舞ったかと思えば、牛鬼の身体を光焔が包み込む。胴だけでなく、切り離されて地面に転がった首も発火し、瞬時に燃えて塵と消えた。
たったの三回剣を振っただけで、聖安を脅かす大妖を斃した麗蘭は、息一つ乱さず、一滴の返り血も浴びていなかった。敵の妖気が完全に失せたのを確認すると、高めていた自身の神力を鎮静させ天陽を納刀した。
右手を胸に当て、青々とした天を仰ぐ。やがて目を閉じ首を垂れると、暫時静かな空間の中で祈りを捧げた。己の父とも呼べる天帝に向けて、たった今滅した妖に命奪われた人々が救済されるように。
「君の力、前よりも更に凄く為っているね」
戦いを終えた麗蘭が、待っていた皆の許に戻ると、蘢が感嘆して言った。
「済まない。こんなに連れて来たのに、無駄足にさせてしまったな」
村々を襲って何百人もの人々を喰い殺し、妖討伐軍の手にも負えぬという大妖の話を聞き、麗蘭自ら出向いて来た。『公主』が戦いに出るという理由で、彼女の意思には依らず、三百の兵が付けられたのだ。
決して驕りではないが、過剰な数の『護衛』を動員させてしまったことは申し訳なく思っていた。
「無駄足には為らないよ。光龍の力を兵たちに見せ付けることも、軍の士気を高めるのに必要だから」
蘢の発想は、麗蘭には思いも及ばぬものだった。初めて出会った頃から、彼の先を見据えた考え方には感服させられる。
彼の言う通り、後ろに居る男たちは皆一様に麗蘭への畏敬の眼差しを向けていた。妖を討伐する神人兵だからこそ、彼女の並外れた神力が判るのだ。
「己の立場は弁えている積もりだが、今後も極力、討伐軍の手に余る妖異については私が引き受けたい。此の力を使わずに、犠牲を出したくない」
其れは、麗蘭の譲れぬ想い。母の命と引き換えに開光したことへの、せめてもの罪滅ぼしでもあった。
帝都紫瑶に在る皇宮、燈凰宮。九ヶ月前に公主として、半年前に次期女帝として帰還した麗蘭は、今や此処の主と為っている。
騎乗し、数百名の兵を率いて都に帰って来た彼女は、出立時と同じく民の熱気を帯びた歓喜に包まれ迎えられた。国主として即位前の麗蘭が民に姿を見せるのは今回が初めてだったが、先帝に似た神的な美貌と、天性の王たる資質が彼らを魅するには、此度の行き帰りの出御だけで十分だった。
飾り気の無い一つ結びの髪型に、金の飛鶴文様が入った深緋色の着物に袴という衣装は、女帝に為る定めの第一公主の装いとしては物足りない。恵帝の死を悼む喪中、最大限の盛装であるため仕方が無いものの、華やかさには欠ける。しかし腰に剣を携え弓矢を背負い、馬に乗る其の姿は威風堂々として、少女とは思えぬ風格が有った。
左右が人で埋め尽くされた大通りを抜ける際、馬上の麗蘭は初めて紫瑶にやって来た日を思い出した。異民族の乱を鎮圧して凱旋する禁軍を目にし、其の際蘢と出会ったのだ。
注目されるのが苦手だと言う蘢は、列に加わらずに表通りを避けて帰城していた。同じく今も、騎乗せず見えぬところで麗蘭を見守っているのだろう。
好奇の眼差しと称賛とを一身に受けるという初めての経験に、麗蘭は内心戸惑っていた。されど、動揺は一寸たりとも見せられない。誰に教えられたわけでもないが、公主と為って数ヶ月のうちに、自然と身に付けた姿勢だった。
そして、目立ちたがらない蘢の気持ちも十分に理解出来た。褒め称えられ、畏れ敬われるのは嬉しいが、居心地の良さだけを覚えるわけではない。
――一年も経たぬうちに、自分が迎えられる側に為るとは思わなんだ。
新しき主君の行幸に沸き立つ皆の顔を確かめながら、麗蘭は自覚した。亡き母に代わり己が統べるのは、他ならぬ彼らなのだと。王として彼らの幸せを守るのは、紛れもない自分自身なのだ――と。