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偽王の骸  作者: 亜薇
本編
27/41

二十五.黒い痕跡

 満開に花咲く沙羅双樹しゃらそうじゅの下。樹莉は大樹の根元に腰を下ろして幹にもたれ、荐夕を待っていた。

 此処は、幼子の頃に兄たちと遊んだ思い出の地。居心地の悪い王宮で樹莉が気に入っている、数少ない場所だ。

 かつて荐夕、豹貴、魁斗の三人の兄が、草叢くさむらしとねに落ちた白い花々を拾い、何度か花冠を編んでくれた。飛び抜けて器用なのは一人歳が上に離れた荐夕だったが、豹貴も意外とまともな物を作った。魁斗も下手ではなかったものの、根気の要る作業は不得手らしく、投げ出すことが多かった。

 暮れゆく空を見上げ、遠い昔から変わらぬ風景を見詰めて目をしばたたかせる。黄金色のきらきらとした夕照ゆうしょうが、摩伽羅宮の白い塔を染色するのを見て、今此の時がとこしえに続けば良いのにと切に願う。

「樹莉」

 神殿の方角から現れた荐夕が、下に転がっている沙羅の花を踏まぬよう歩いて来る。何時いつもの樹莉なら声を弾ませ駆け寄るが、今日は何故か、兄の姿を見るなり項垂うなだれてしまった。

如何どうした。何か困ったことでも在ったか」

 片膝を付くと、荐夕は出来るだけ樹莉の目線に合わせようとした。知らぬ顔で普段通りに接してくる兄を、樹莉も此の時ばかりは厭わしく思った。

「明日、行くんでしょ?」

 先刻、荐夕の前に闍梛へ入った兄の火が消えた。其の後神殿に呼ばれたということは、遂に順番が回って来たのだろう。

 同じ父母から生まれた兄や弟が、既に何人も逝っている。いずれも兄弟とはいえ、然程親しくしていなかった者ばかり。女なのに利口過ぎる、取り澄ました顔が気に食わないという理由で、樹莉を疎んじた者も居た。其れでも、彼らが居なく為るのは辛く恐ろしい。

「案ずるな。何年も前から、うに覚悟は出来ている」

 樹莉の肩に手を置き、荐夕は豹貴や魁斗と同じことを口にした。三人とも一様にして、怯えた様子がまるで無い。

「あの二人が俺の後だっただけでも未だましだ」

 兄の深意を、樹莉は直ぐに解した――積もりだった。

「荐兄は、自分が魔王に為る自信が有るの?」

 有るからこそ、せめて二人の弟たちだけでも無駄死にせずに済んだと思っているのだろう。樹莉が伝え聞いたところ、荐夕は他の十四人より早く森に入りたいと太師たちに申し入れていたが、受け入れられなかったらしい。順序はまじないに依って決められ覆せず、荐夕だから許される我がままで何とか豹貴と魁斗よりは先にさせたのだ。

「ああ、有る」

 予想通りの答えに、樹莉はほんの少しだけ安心出来た。正しくは、自身の心を無理に落ち着けようとした。

「樹莉。俺がもし、おまえたちの思っているような兄じゃなかったら、如何する」

 突として心算しんさんの見えぬ問い掛けをされ、樹莉は首を傾げた。

「其れ、如何いうこと?」

 問い返すが、荐夕は黙したまま樹莉を見据えていた。兄の意図は分からないが、答えはたった一つしか無い。

「どんな荐兄だって……変わらないよ。貴方は私の」

 一呼吸置いて、目を伏せる。迷う余地など無いはずなのに、つい別の選択肢も並べてしまう。

「兄上なんだから」

 もう一つの答えは、決して口にしてはならぬもの。表に出した途端、長きに亘る苦心と努力が水の泡と変わる。清廉潔白な王の娘であり続けねばならぬ自身を、一瞬にして地に落とす愚行である。

「何時までも兄にべったりでは、貰い手が居なく為るぞ」

 今此の時が最後に為るかもしれぬと思い余り、しくじる恐れも有った。だが顔を綻ばせた荐夕を見て、樹莉はまたも上手く切り抜けられたと確信した。

「ご心配無く。此れでも引く手数多あまたなの」

 見栄ではない。王女の中で最も美しく、陰りの無い道を歩んで来た樹莉には、既に両の手の指で余るくらいの求婚者が居た。兄への良からぬ想いを断ち切るためにも、近く誰かの元へ嫁がねばならないだろう。

「知っているよ。おまえは素晴らしい。おまえを求めぬ男など、此の世には居まい」

 空と同じ黄昏色の眼差しを向けられ、樹莉の胸が焼け焦げるように熱く為る。同時に締め付けられる苦しみが迫り来たが、やっとのことで押さえ付けた。

「荐兄、帰って来てね。荐兄が居なく為ったら、私」

 顔を上げた樹莉が皆まで言わぬうちに、荐夕は数度頷いてみせた。

春澪しゅんれいだって悲しむよ。お腹の子だって」

 兄の愛する人の名を出せば、大丈夫だと思った。生まれてくる子供について言及すれば、より心強い気がした。

「ああ。誰も悲しませない」

 淡く笑み、言い切る荐夕の力強さは、鋭い樹莉に容易く勘付かせた――彼が本心とは異なる約束をしたことを。

 憂いを湛えた樹莉の瞳から、涙が止めどなく流れ出た。彼女は人前で滅多に落涙しないが、今は抑える術を持たなかった。

「もう……行って。あの人と一緒に居てあげて」

 両方の掌で顔を隠し、嗚咽しながら無理やり言い放つ。想いを伝えられぬ代わりに、泣くだけなら咎めは受けぬだろうと甘えが出て、涕泣ていきゅうするのを止められない。

 逢魔が時を迎え、直に一日の終わりが訪れる。せめて此の一夜は、荐夕に幸せで居て欲しい。其のためには、彼が愛しむ者と寄り添うのが一番良い。

――私が邪魔するわけにはいかないよ。

 樹莉の目元や頬に光る涙を拭おうと、荐夕が片手を伸ばした。しかし樹莉は彼の手を掴んで触れさせまいとする。此れ以上優しくされては決意が鈍るからだ。

「待っているから。また会おうね」

 想いも虚しく、荐夕の命を示す燭台の火が消え消息が絶たれるのが、七日程後のこと。そして其の数日後、全てが狂う運命の日がやって来る。







「樹莉!」

 術者が倒れ、魁斗の諸手もろてを縛っていた鎖術が解けた。彼は横向きに伏した樹莉の元へ走り寄り、近くに居たあさぎも彼女の足元へと下りる。我に返った麗蘭も遅れて駆け付けて来た。

 気を失い、固く目を閉じた樹莉の胸には、憶えの有る大剣が突き立てられていた。其の凶器を見付けるなり、麗蘭の顔が蒼褪あおざめてゆく。

淵霧えんぶ――奴の剣ではないか」

 忘れもしない。見間違えるはずも無い。向こう側が透けて見える此の黒の石剣は、他でもない黒神の持ち物だ。琅華山の妖を狂わせ、迅雷を呼び白林の城壁を破壊し、珠玉の手に渡り恵帝の命を奪った憎むべき邪剣である。

――何故、樹莉殿が此れを? 珠帝とは違い、黒龍と繋がっている痕跡は見当たらなかったというのに。

 考えている余裕は無かった。麗蘭は隣の魁斗と顔を見合わせ、愕然としている彼に向かい深く頷く。

「樹莉殿は死なせない。其のために私が居る」

 本当は、恐くて泣き出したい程だった。目の前で母を斬られ、懸命に神力を注いでも助けられなかったあの時の光景がありありと甦る。おまえには出来ぬと囁く幻聴まで聞こえ、気力を奪い去ろうと惑わしてくる。

「麗蘭」

 麗蘭の瞳に共在する強さと弱さは、魁斗の心を激しく揺さ振った。震える彼女の左手に触れ、両の手で優しく包み込み握り締めたのは、至極自然な成り行きであった。

 再び樹莉を見下ろし、麗蘭は淵霧へと残る右手を伸ばす。意を決して黒々とした柄に触れると、想像した通りに黒の力が流れ込んで来た。持てる全ての神力を集めて反撃するが、そう容易には押し返せない。

 樹莉を救うには、邪剣の放つ力を己が神力で圧倒し消滅させねばならない。半年前、琅華山で邂逅した際は触れることすらあたわなかったが、光を開いた今の麗蘭なら勝機が有る。

 烈々たる黒の気を受け止め、樹莉に染み込まぬよう抑え込む。光龍の心身が拒絶反応を示し、総身に慄然たる悪寒が走ったかと思えば、凄まじい痛みに襲われた。内側から引き裂かれるような苦痛が身体中を巡り、思わず悲鳴を上げそうに為る。

 黒の力は肉体のみならず精神にも攻撃を仕掛けてくる。淵霧を通して麗蘭の瞼の裏に映ったのは、樹莉の堕ちた生き地獄であった。

 想いを寄せた人に突然裏切られ、家族を奪われ己を失くす程の責め苦に甚振いたぶられた。其の想い人が、幼い頃から親しんできた異母兄に依って死に至り、永久の別離を迎えた。別れた後も恋しき者の亡霊に魅入られ、孤独と愛憎を紛らせるために自分や他人を傷付け続けた――善良であったはずの少女が何故、斯様な目に遭わねばならなかったのか。何処から歯車が噛み合わなく為ったのか。

 送り込まれて来た激情の波が、麗蘭を呑み込もうと闇へいざなう。樹莉が味わわされた絶望が伝わり来て、身の毛がよだつ濁った渦に引きずり込まれそうに為る。

 何時しか、麗蘭は涙を零していた。業火に焼かれる熱さと、水底みなそこに沈められる冷たさに呑まれ、身震いが止まらない。しかし直ぐ傍には、懼れる彼女の肩を抱いて包み込み、苦悶を少しでも和らげようとする者が居た。

「麗蘭」

 耳元で声が聴こえ、喪失し掛けていた意識を取り戻す。魁斗に護るが如く抱き締められると、千切られる激痛や寒慄かんりつが急速に収まっていった。

 淵霧を握る麗蘭の右手に、魁斗の両手が重ねられた。邪気の負荷が軽く為り、彼が力を貸してくれているのが分かる。膨れ上がった恐怖が消え失せ、震えも引いてゆく。

 此の上無い助力を得て、麗蘭は勇気を奮い起こした。魁斗と自身の右手の上に左手を添えると、邪悪な大剣をゆっくりと引き抜く。抜け切った瞬間にしゅを唱え、治癒と清めの術を発動させた。

 ぜた光に弾き飛ばされた淵霧が、刃を下にして中空に止まった。魁斗が見守る中、術に集中する麗蘭は邪剣に目もくれず、樹莉へと一心不乱に神気を放出し続ける。

 光龍の放つ光陽を浴びて、樹莉が受けた胸の傷はたちまち癒えて塞がれてゆく。刺傷より入り込もうとしていた黒の力も一掃され、すくい取られ掛けた命は間一髪で繋ぎ止められた。

――此れは。

 穢れを残存させぬよう、樹莉の内を深くまで探った麗蘭は、其れまで見逃していたある点に行き着く。つい今し方彼女を殺めようとしていた気の他に、ずっと以前より奥底に巣食っていたらしき、別の黒の気がそんしていることに。

 浄化が終わり横溢おういつする光焔こうえんが鎮められ、地下室には静寂が戻った。魁斗は目覚めぬ樹莉の手首を取り胸に耳を近付けると、弱く為ってはいるが絶え間ない心音と脈拍を認めた。

「樹莉は、助かったんだな」

 安堵する魁斗に、麗蘭は首を小さく縦に振った。

「魁斗。樹莉殿は、もしや――」

 樹莉を狂乱に至らしめたものの一端を見出し、麗蘭は弾いた淵霧の浮かぶ方を仰ぐ。しかし何時の間にか邪剣は消えており、代わりに地下牢の入り口に立つ一人の老人を見付けた。

「そなたは、髄太師」

 一体、何時から居たのだろうか。樹莉を助けるのに必死で、麗蘭も魁斗も全く気付かなかった。薄く上げた両瞼からは、生気の無い灰色の瞳が覗いており、何も言わず只此方こちらを見ていた。

 樹莉を抱えて立ち上がった魁斗は、なるべく振動を与えぬよう壁際に歩いて彼女を座らせた。胸から流れた血に衣服が赤く染まっていたが、治癒術のお陰で傷自体は塞がっていた。

 片方の膝を立て、疲れ切った妹をいたわしげに見ていた彼は、やがて腰を上げ振り返った。

「太師。おまえ程の男が、樹莉が分別を失ったのに気付かぬわけがない。其れでも黙って従ってきたのは、見上げた忠誠心だ」

 厳しい声には、小波さざなみに抑えた魁斗の怒りが染みていた。

「だが、おまえは樹莉が子供の頃から面倒を見てきただろう。せめていさめるくらいはしなかったのか」

 其の問いに、閉ざされていた太師の口が漸く開かれた。

「私がお諫めしても効果は無かったでしょう。貴方こそ、人界へお逃げにならずに此処に留まり、樹莉さまを見守るべきだったのではないですか」

 皺だらけの老獪ろうかいは、情を漏らさぬ淡々とした調子で魁斗を糾弾し始めた。

「荐夕さまを殺める結果に為ったのは、恐らく貴方のご本意ではありますまい。其の直後なら未だ、間に合ったのでは。あの時樹莉さまに事情を話されていれば、怨みを生むこともなかったのでは」

 容赦の無い批難ひなんは、魁斗が躍起に為り隠し通してきた大きな傷口をえぐってゆく。

「豹王さまも樹莉さまを気に掛けておられたが、王に為ったがゆえに目が行き届かぬところも有った。貴方が王に為っていれば、貴方と豹王さまとで、樹莉さまをお救い出来たでしょうに」

 荐夕と樹莉のことに関し、負い目ばかり感じている魁斗には、反論など出来ない。

「そうだな。俺がおまえをなじるのは筋違いだ」

 彼が簡単に引き下がるのを見ていた麗蘭は、子細を把握し切れていない部分は有るものの、如何どうにも得心がいかなかった。

「髄太師。部外者が口を挟み申し訳ないが、私には魁斗にばかり非が有ったとは思えぬ。樹莉殿は元来賢い方ゆえ、己の心の乱れを上手く隠していたのであろうが、周りに居た者皆に、変調を感じ取る機会が有ったはず」

 客観的な麗蘭の意見を受け、束の間の沈黙が在った。太師は細い目を一層細め、彼女を見やったかと思えば、両肩を上下させ息を吐いた。

「麗蘭公主、仰せの通りです。こう申し上げても言い訳にしか為りませぬが……荐夕さまを含む多くのご兄弟に先立たれ、魁斗さまにも去られた樹莉さまが、寂しさを紛らわせられるのなら――と、たとえご乱行でもお止めできなかった」

 太師の弁解には、諦念ていねんよりも悔悛かいしゅんの情が浮き出ていた。彼もまた魁斗と同じく、誰かの責任を追及したいのではなく、自分の非力さに憤りを覚えているだけなのだろう。

「止められなかった過ちを責めるよりも、今は此れからのことを考えねば。髄太師、豹王陛下は……荐夕殿は何処に居られる」

「寝殿に籠られておいでです。お目覚めになられて以降、私はお姿を拝見しておりません」

 頷いた麗蘭は、彼女を見入っていた魁斗と視線を合わせた。

「魁斗、豹王陛下をお救いせねば。未だ禁呪きんじゅは完成していないのだろう。急げば間に合うやもしれぬ」

 魁斗は強い言葉につられて首肯し、太師に命じた。

「樹莉を頼む」

「御意にございます」

 曲がった腰を更に折り曲げた老人は、樹莉を残して行く二人の背を静やかに見送る。彼らが去ると、冷たい地下室で眠り続ける樹莉の側へ歩み寄り、あどけない美貌を悲しげに覗いて嘆息した。

 こうして寝顔だけ見ていると、起きている時に見せる妖しい表情が嘘のよう。神巫女の光を浴びたためか、心なしか毒気は抜けたように見えるが、目覚めればまた悶え苦しむのだろう。

「姫さま、お許しください」

 太師髄沼ずいしょうは、不幸な姫のために忍び泣いた。乾き切った目からなみだは零れず、しゃがれた声を上げることも無い。されど、彼が仕えた王女のうち最も純粋無垢なる姫のためだけに、暫し哀哭あいこくして立ち尽くしていた。

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