二十三.兄殺しの罪
暗い地下牢に繋がれたまま、星燿と共に残された魁斗は、暗然とした気分に包まれ時を過ごしていた。
眼前で星燿が、左右に裂けた口から大量の唾液を垂れ流している。再会した樹莉の変貌ぶりに激震が走り、暫くは茫然自失していたが、自我を奪われた妖獣に獲物を前にした鋭眼で見られていると、嫌でも頭がはっきりしてくる。
星燿の殺気を浴びながら、魁斗は牢を脱して麗蘭を探す方法を真剣に考えていた。樹莉に断罪され命を失くそうとも、麗蘭は必ず聖安へ返さねばならない。大妃を死に至らしめ、豹王を贄に呪術を施したのが真に樹莉だとすると、麗蘭へ害を為す恐れも十分有り得る。
考えるべきことは山程有るが、麗蘭の顔ばかりが頭に浮かぶ。一点の曇りすら無い、誰よりも尊い魂を持つ少女の、見惚れる程美しい顔だ。
彼女に会えば、今突き落とされている闇の底から這い上がれる気がした。僅かでも希みを見出せる期待が持てた。魁斗が犯した『兄殺し』の罪を知り、大切な彼女が離れて行くのではという懸念は、敢えて思考の外へ追いやっていた。
両手を拘束している鎖は、腕力で破壊するのはおろか、神力を強めに掛け続けてみてもびくともしない。其れどころか、闍梛の森で働いていた力と同様に、縛した者の神力や魔力を抑え込む効力も有るようだ。
騎獣に掛けられている術を解こうにも、魁斗の手にも負えない力が働いているらしく、不可能だった。左様に莫大な力の正体も、気には為るが追っている余裕が無い。
麗蘭と共に窮地に陥っていたのは、己の心の弱さが原因だと自覚していた。避けてきた魔界に戻り、何かと失敗続きなのが、其れを如実に表している。判断を誤り続けたのは、樹莉を含む一族への後ろめたさからであろう。
もし、麗蘭ともう一度逢えたなら、全てを話そうと決めた。闍梛の森を抜ける間に打ち明けられなかった真実を、包み隠さず曝け出そうと決心した。此れ以上、燦然と輝く彼女の前で、臆病かつ卑怯なままでいるのは耐えられない。
「受け入れてもらえたなら、其の時は……」
消え入りそうな笑みを残して独言し、魁斗は目を閉じた。
夜が終わり、地上は薄明に移りゆく頃。夢境に逃げ込んでいた魁斗は、冷酷な現実へと引き戻された。
何処からか、水の滴が落ちる音が聴こえて来る。眠りを妨げたのは此れであろうか。其れとも、魁斗に投げ掛けられる樹莉の虚無的な視線であろうか。
「そろそろ懺悔は済んだ?」
薄闇の奥、座っている星燿の向こうで、樹莉が壁に背中をもたれて立っていた。昨晩とは打って変わって声も表情も穏やかであるが、むしろ其れが恐ろしい。
「星燿相手にしてはみたが、許してもらえる気がしないな」
苦々しく口元を緩め、再び樹莉から目を逸らした。
「懐かしい夢を見ていた。荐夕と豹貴兄と、おまえとの日々を」
其の場凌ぎの出まかせではなかった。だが、口にしても詮無い報告であり、余計に胸を抉られる返答を招いた。
「懐かしんだって、もう帰って来ないよ。人は変わるものだって、自分でも良く分かってるんでしょ?」
喜も怒も表さず、樹莉は酷薄に言った。静かに歩み出て星燿の横まで来ると、白い喉や背を優しげに撫でた。
「やれよ。おまえが荐夕を想っていたのなら、俺は其の憎しみに抗えない」
虚勢ではない。かつて想いを寄せた女を奪われたからこそ、魁斗には樹莉の憎悪が解せたのだ。
どの道荐夕を手に掛けた罪は、何処かで償わねばならない。今も尚、魁斗にとり大事な妹である樹莉に裁かれるなら、然程悪くはない。半ば諦めの心境に至り、顔を伏せつつも、閉じた瞼の裏にはあの少女の姿を描いていた。
真なる形を映す魔鏡に示された、母に託されし願い。此処で命を失えば、母から継いだ使命を永遠に果たせなく為る。そして共に歩みたいと思い始めた少女――麗蘭を、憎き仇敵との戦いに投げ出し置き去りにするのもまた、忸怩たる思いだ。
無抵抗でいるのが意外だったのか、樹莉は魁斗を見下ろして暫時黙していた。
「私だって、こんなことしたくない。だけど、あんたが約束を破ったから。荐兄を助けてくれてさえいれば、私とのことも――あの夜の、一度の過ちで終わらせられたかもしれないのに」
囁きの如く口にされた言葉には、感情がまるで込められていなかった。本心からの発言なのかどうか、魁斗には見極めが付かない。しかし、樹莉の言う『あの夜』に何が起きたのかは、何となく察しが付いた。
――此のままで、本当に良いのか?
抗う気も失くし掛けていたが、ふとした疑問が魁斗の頭を擡げる。今、樹莉の復讐を受けるのが、果たして本当に正しいことなのか分からなく為ったのだ。
「樹莉。荐夕が何故あんなことをしたのか、おまえも知らないのか」
観念し掛けていた魁斗が、顔を上げて一か八かで尋ねてみた。其の単純な問いこそ、彼が三年の間解を求めしものだった。
「『荐兄』は、あんな風に家族を殺せるような男じゃない。おまえを傷付けられる男でもない。絶対に何かわけがあるはずだ」
物心ついた頃から兄として親しんでいた荐夕は、弟妹たちを可愛がり、敬われ愛される男だった。惨劇の直後、己で確かめても、剣を交えても尚信じられず、疑い続けて今日に至っている。
「俺は『真誠鏡』を覗いた所為ではないかと思っている。何でも良い。何か心当たりは無いのか」
何も隠さず、飾ることも無く、魁斗は樹莉の顔を直視した。
「真誠鏡……荐兄……わけ……荐兄……」
彼女は譫言のように繰り返し、星燿から手を離した。手の甲を自分の額に当て、俯く。暫し沈思に落ちていたが、やがて何かを吹っ切った様子で頭を上げた。
「そんなこと、如何だって良い。とにかくあんたを殺さなきゃ」
無邪気な喜色を浮かべ、樹莉は明るい声で言った。
「『巫女さま』には、あんたを殺してもあの人には愛してもらえないって言われたけど。やってみないと分からないよねえ?」
突然嬉々とし出した樹莉は、魁斗から見て異様だった。もしかすると話が通じるかと思ったが、数瞬で裏切られた。
――巫女、だって?
新たな人物の登場に、魁斗は眉を顰めた。樹莉の口振りからは、巫女と呼ばれる者が樹莉と共謀し、助言していると取れる。
次の質問は許さずに、樹莉は傍で唸る星燿を横目で見た。
「魁斗の身体が引き千切られて真っ赤に為るの、ずっと見たかったんだ。綺麗な顔が痛みに歪んで、ばらばらに為った手足が散らばり、臓物が引き摺り出されて……噛み砕かれて残らず呑み込まれるの」
湧き上がる興奮を抑え、艶めかしく笑みながら、樹莉は遂に命を下した。
「星燿、お待たせ――魁斗を食べて」




