十八.最後の語らい
烈王が病に倒れ、一月もしないうちに崩御した時――定まっているべき後継者は、未だに決まっていなかった。
魔族は人の子よりも長く生き、王族は特に長寿である。歴代の王の中には五百年生きた者も居た。烈王は既に三百年生きていたが、稀有な雄偉さゆえにあと数百年は死なぬと思われていたし、本人も其の積もりであったろう。
依って彼が急死した後、幾つもの厳格な儀式を伴う葬儀と、次期魔王の選抜を同時に行わねばならなかった。
王の世嗣は、王の正妃が産んだ息子から選ばれる。数千年来守られた仕来りが、女神の血を引く王子という前例の無い存在のために破られるかもしれない。其れは、百年にも亘り絶大なる権勢を誇った正妃浮那にとり、不都合極まりない話だった。
髄太師を筆頭に、九名の長老たちが宮殿に集まり王選びを始める日と試練を受けさせる順番を決める。一人ずつ闍梛の森へ向かわせ、『まともな』状態で森と地下宮から帰還した者が王という、至って簡単な方法である。
一度闍梛の森に入れば、辿り着く先は天と地の差。死ぬか狂人に成り果てるか、逃げ出して一生辱めを受けるか。或いは魔王と為り、数百年支配者として君臨するか――余りの苛酷さゆえに、森に入るか如何かは当人に任される。
しかし、王子たちの母たる浮那は、試練を受けぬという選択を許さなかった。己の子の誰かを王にするため、己の子でない魁斗を王にさせないために。
王位を欲していない魁斗は、浮那の子でないのを理由に自ら争いより脱けようとしていた。だが知らぬうちに烈王の遺言に依り叶わなかった。闘神・薺明神が魔族に与えた恩恵である魁斗にも、王位を継がせる機会を持たせるよう、明確に言い遺していたのだ。
夭折した者も含め、正妃や側妃との間に六十六人の王子が居た烈王は、息子たちに然程関心を示さなかった。魁斗とて例外ではなかったため、薺明神や其の主である天帝の顔を立てただけであろう。当の魁斗には有り難迷惑なだけだ。
今回森へ入るのは、資格を持つ者から選ばれた十五人の王子たち。其の中で最も王に近いと目されている順に、荐夕と魁斗、そして次が豹貴と続く。
とはいえ、彼ら三人以外の王子にも可能性は有った。魔王選びは、皆の予測を裏切ることが往々にして有り得る。幼き頃より王候補として育てられた浮那の息子たちは、僅かな希みに賭け、生か死かの戦いに挑もうとしていた。
広大な摩伽羅宮の一角に、一年中花を咲かせる珍奇な沙羅双樹が在った。
荐夕王子の住む殿舎近くに位置していたため、此の木の下は彼と仲の良い弟たちが集う場と為っていた。
「いよいよ、始まるな。母上が毎日落ち着かないご様子だ」
草を褥に寝転んだ豹貴は、真っ赤な果実を丸齧りしながら言った。大口を開け豪快に頬張っているのが、柔らかく綺麗な造形の顔に似合わない。肩下まで伸ばした銀の髪と紫苑の瞳は母親や樹莉と同じで、年の頃は魁斗より少し上で近しい。
些事を気にしないさっぱりした性格の彼は、大抵陽気で笑っていることが多い。だが最近は、ほぼ一日中今のような浮かない表情をしている。
「父上の葬儀も終わらぬうちに、跡目決めに気を取られなければならないとは」
沙羅の木に背を凭れて座した荐夕が、同様に晴れない顔で嘆息した。長めの前髪を手で上げるという他愛も無い所作すら美々しく、煌々しい。
彼もまた、浮那の子であるが、唯一銀髪ではなく黄昏色の髪と目をしていた。美しい貌は父烈王の若かりし頃に生き写しと言われており、見た目も実年齢も、豹貴や魁斗より十歳程上である。
「豹貴と魁斗は俺の後に入れ。もし俺に資格が有れば、命を無駄にすることに為るからな」
傍で胡坐をかいている弟たちを見て、荐夕は年長者らしく言い聞かせた。
「俺が戻らなければ――悪いことは言わん。試練を受けるか否か、考え直せ。母上に睨まれようが、後ろ指を指されることに為ろうが、命を粗末にするな」
彼らに向けた荐夕の忠告は、一語一語が重く、情に溢れている。魁斗が知る限り、此の兄は何時でもこうして温かい。
「だけどさぁ、荐兄。順番は俺たちが決めるんじゃなくて、爺たちが決めるんだろ?」
豹貴の指摘に、荐夕が腕を組み俯いた。
「俺から太師に頼んでおく」
確かに、荐夕の願いなら頭の固い長老たちも聞き入れるかもしれない。浮那さえ、彼には特別甘く接する節が有る。其れだけ他の王子とは一線を画するものを持っていた。
「王位に就くのは荐兄に決まっているだろう。俺と豹貴兄の出番は無しか」
魁斗が如何にも残念そうに言い、頭の後ろで両手を組むと、荐夕は真顔のまま言った。
「其れは分からないぞ。俺が死んだ時、森に入るか入らないか、真剣に考えておけよ」
縁起でもない話を冗談らしくなく続けようとするので、魁斗は大袈裟に息を吐いた。
「あんたには美人な奥さんも生まれてくる子供も居るんだから、死ぬなんて言うなよ」
奥方と子の話を出され、荐夕は些か困り顔に為り黙ってしまった。非の打ち所が無い冷静沈着な兄も、溺愛する妻子について触れられると途端に顔付きが変わる。
「おまえこそ、婚約していた聖安の姫君が居るだろう。時期が来たら助けに行って、娶ってやれよ。あの子、おまえに惚れていたぞ」
「一体何年前の話だ。まあ、いずれ助けてやりたいとは思うが」
話を掏り替えようとした荐夕の試みを、魁斗はさらりと躱してしまった。しかし、かつて許婚だった聖安の姫を案ずる気持ちは本物であった。
「豹貴兄だって、もう直ぐ祝言なんだからな。荐兄の次は俺が入る」
横臥した豹貴に目線を落としたところ、兄は食べ終えた果物の芯を弄びつつ、首を横に大きく振った。
「いいや。荐兄と魁斗の気遣いはありがたいが、二人に先に入られて王に為られては困るんだ。俺の許婚は、俺が魔王を継がないと嫁に来てくれん」
「嘘を言うなよ。瓊林は豹貴兄一筋だから、戻って来なかったら屹度後追いするぞ」
兄たちには大切な者が居る。そう思うと、魁斗は彼らを危険から遠ざけたかった。己が一番に入り、死力を尽くして魔王に為るのが良いのだろう――荐夕も豹貴も、恐らく同じことを考えている。
「魁斗。おまえにだって、こんなところで死んではいけない理由が有る。母君の敵討ちをするんだろう」
荐夕の言う通りだった。魁斗には宿として下され、生涯を費やしても果たさねばならない使命が有る。
「俺たちが生きていれば、手伝ってやれるんだがな」
豹貴の申し出に感謝したが、魁斗は頭を振った。
「そう言ってくれるのは嬉しいが、二人を巻き込むわけにはいかない。あんな邪悪な奴には関わらない方が良いに決まっている」
魁斗は母の仇を憎悪すると共に、心奥で恐れてもいた。自分の敗北に対するものよりも、大事なものをまたも奪われるのではないかという恐怖に脅かされていた。
「巻き込むなんざ、他人行儀な言い方で気に入らねえな。なぁ、荐兄?」
「ああ。魁斗の仇は俺たちの仇だ。相手が『黒の神』なら尚更、魔国のためにも戦わねば」
裏表の無い兄らの厚意に、魁斗は次第に気恥ずかしさを溜めていった。場を逃れる口実を探していると、丁度良く思い出したことが有りほっとした。
「そうだ、荐兄。樹莉が探してたぞ。呼んでくるよう頼まれて忘れていた」
「樹莉が? 分かった」
肩に落ちていた沙羅の花を優しく退けて、荐夕は正殿に向け歩き出した。
「二人共。さっき俺が言ったこと、考えておけよ」
念を押して去って行く。彼の背中を見送った後、弟たちは顔を見合わせて苦しげな微笑を浮かべた。
――此れが、荐夕を交えた最後の語らいと為った。
崩壊を始めた地下宮を脱け出た麗蘭と魁斗は、闍梛の森まで戻って来ていた。
階段を上り切る辺りで、地底で落盤する音が聴こえた。あの時行動が遅れていたら、二度と地上に帰って来られなかったかもしれない。
揺れは収まり、森は何事も無かったように静まっていた。隣で地に片膝を立て、肩を上下させている麗蘭を見てから、魁斗は一つ深呼吸して言った。
「間一髪、か。下は如何為っているか分からないな」
あの様子だと、地下の空間は埋まっていてもおかしくない。途中、麗蘭の直ぐ後ろでも天井が落ちた轟音がしたため、もう一度地下宮へ入るのは無理だろう。
「荐夕殿と大妃の亡骸を、廟に置いて来てしまった。何とか弔って差し上げたかったのだが」
「――荐夕の遺体?」
聞き返した魁斗は記憶を呼び起こし、俯いたまま小さな声で続けた。
「確か、直ぐに火葬されて残っていなかったと思うぞ」
予想外の話に、麗蘭は首を傾げた。
「大妃が変化してからも、大事そうに守っていた棺が有っただろう。あの中の枯骸は荐夕殿だと、大妃が仰っていたのだが」
「大妃が……」
得心のいかない顔をしていた魁斗は、やがて考えを打ち切り藤色の空を見上げた。
「星燿」
彼が麗蘭の知らぬ名を呼び掛けると、ややあって宮殿の方角から一頭の白い獣が飛空してきた。
虎に似ているが、縞の入り方が独特で背には翼が有る。体長は虎よりも一回り大きい。
擦り寄って来た獣の頭を撫でてやりながら、魁斗は驚いていた。
「昔、良く使っていた騎獣だ。未だ俺に応えてくれるとは」
樹莉が麗蘭の前で騎獣を呼んだ時も、名前で呼び寄せていた。戯れる星燿を懐かしそうに見詰める魁斗は、硬い顔を少しだけ綻ばせていた。
「此処で騎獣は使えないのではなかったか?」
魁斗の頬笑みに釘付けに為っていた麗蘭が、我に返って問うた。
「魔性の火が消えたのを見ただろう。何故かは分からないが、闍梛の地を覆っていた魔力が消えて、諸々の制約が外れたんだ」
騎獣を呼んだのは、其れを確かめる意図も有ったようだ。先刻と異なり神気が封じられていないのに、麗蘭も漸く気が付いた。
「乗れ。宮殿へ行こう」
言い終わらぬうちに、魁斗は麗蘭を軽々持ち上げて星燿の背に乗せてしまう。自分も彼女の後方に乗り、鞍も手綱も無いのに飛ぶ体勢を作った。
「樹莉が使う騎獣とは違って飛び方が荒いから、落とされるなよ」
「あ、ああ」
そう言われても、魁斗に背後から片腕を回され腰を支えられているため、全く落ちそうにない。落下する恐れよりも、彼と密着して高鳴るばかりの胸音を聴かれる恐れの方が大きかった。
魔国と魁斗が大変な時に、浮ついた気分でいるのは後めたい。麗蘭は己を何度も叱り付けながらも、彼に身を委ねる心地良さを否定出来ずにいた。




