十六.魔性の王母
再び一人と為った麗蘭は、大扉を開けて広い廊下に出た。両側に据え付けられた燭台には銀炎が灯っているが、辛うじて足元が見える程の心許ない暗さだ。
真っ直ぐ伸びた道を進むと、間も無く階段が現れた。地上から下りて来たのと似た石段で、同じく照明は蝋燭のみ。一人で歩くには十分過ぎる横の幅が有った。
百段近い階段を下り切ると、鈍色の扉が立ちはだかる。表面に彫り込まれている文様は、王宮でも目にした覚えの有る独特な形状のものだった。
「魔の気は、此処からか」
膨大かつ重厚であり、格の違う尊さを感じさせる気。眠りに就き伏している豹王や、樹莉も近い性質を持つが、此方はより底暗い。
彼らの母、浮那大妃が扉を隔てたあちら側に居るのを察し、麗蘭は無意識に姿勢を正した。深呼吸をして右手を伸ばし、取っ手の無い扉に軽く触れる。見るからに重量の有る扉は、押さずとも奥へ左右に開かれた。
現れたのは、燭台に灯された青紫の炎が揺らめく霊廟であった。四方を無数の位牌が囲み、高い天井まで敷き詰められている。八角形の室の中央には一つの黒い棺が在り、一人の女が縋るようにして座り込んでいた。
廟の入口に立つ麗蘭からは、蹲っている女の背中しか見えない。小柄な後ろ姿は消え入りそうな程儚げで、床にまで届く白銀の髪は樹莉と同じ輝きを持っていた。
他所者が入って来たのに気付いていないのか、女は石像の如く動かない。声を掛けて良いか迷ったものの、決心して口を開いた。
「浮那大妃とお見受けする」
発せられたのは、平生よりも畏まってはいるが堂々と落ち着き払った声だった。
「私は清麗蘭。聖安の公主でございます」
首を垂れて名乗ったところで、漸く女が応えを見せた。棺に伏せていた顔を上げ、頭だけを後ろへ回すと、驚駭せざるを得ない佳麗な顔が見えた。
柔らかそうな銀髪に、円らな紫苑色の瞳。白磁の肌は病的なまでに透き通り、唇の紅を際立たせている。
少女と呼んでも違和感の無い若々しさは、百数十年生きているとは思えない。樹莉とは非常に良く似た面立ちで、母娘と言うよりも姉妹と言った方が近い。
此れまで麗蘭が樹莉や魁斗の話から作ってきた大妃像とは異なるため、此の女が本当に大妃なのか疑い始めた。しかし魁斗の忠告を思い出し、やはり直感を信じることにした。
『見てくれに惑わされるな。痛い目に遭うぞ』
見た目の年齢を考えず、気から判断すれば大妃だという自信が有る。麗蘭は、女の虚ろな瞳から目を逸らすこと無く話を進めた。
「恐れながら、貴女さまが魔王陛下の御命を脅かす術を行っていると聞き、お止めしに参った次第」
余計な前置きは飛ばして遠慮無く切り込むと、大妃と思しき女はおもむろに立ち上がった。
「そなたが来るのは見えておった。麗蘭公主」
容貌から想像した通りの可憐な声が、じめじめとした廟に響く。女は口元に妖しい笑みを作り、後ろに在る棺を手で示した。
其の途端、棺の蓋が低音を鳴らして独りでに上昇し、宙に浮いた。其のまま水平に移動し、室の端まで行くと、再び静かな音を立てて床に降りた。
「我が息子を紹介しよう。此れへ」
招きに応じ、麗蘭は蓋の開いた棺の近くへ歩み寄った。恐恐として覗き、中身を目にして息を呑んだ。
「此の子が、荐夕よ」
女が陶酔した声で息子と呼んだのは、枯骸以外の何物でもなかった。眼窩や鼻腔、口であった部位には深い穴が開き、人だと言われれば如何にか人の屍に見える。此の屍からは、現世に在りし頃の姿など一切浮かんでこない。
「憐れと思わぬか? あの鬼畜めが、此の子を斯様な姿にしおった。沈む夕陽のような美しき君を、あの畜生が、命枯れた土色の屍に変えたのだ」
澄み渡る淑やかな声が、次第に震えと狂気を帯びて変容する。
「あの瑞々しい黄昏の髪は、双瞳は。しなやかな四肢は、凛々しい体躯や滑らかな肌は。凡て干からびた! あの鬼子が掬い取った、何もかも!」
激発する憤怒が表情にまで及び、両の目尻と口端を吊り上げた凄まじい形相と為る。麗蘭は我知らず半歩退くが、双眸は大妃から離さない。
「鬼子?」
黄昏君と呼ばれた荐夕王子は、魁斗の目の前で自決したと聞いている。しかし大妃の言からは、誰かの手に掛かり落命したかのように聞こえた。
「純潔なる乙女、若き聖安の公主、天の主に愛でられし巫女。そなたが穢れ無き魂を捧げんとしている、罪業深き男が居よう」
己が魂を渡さんとしている男、と言われ、麗蘭にはある青年が朧げに浮かぶ。問い重ねようとする前に、大妃は膝を折って息子だったものにまたも縋り付いた。
「わたくしは、此の子に今一度身体を与えたい。邪魔する者は誰であろうと許さぬ」
棺を両手で大事そうに撫でながら、少女の如く駄駄を捏ねる。百歳以上歳上の大妃に、麗蘭は怯まず諭し始めた。
「大妃さま。貴女がすべきは御子息を生贄にすることではない。荐夕殿を手厚く葬り、祈りを捧げることであろう」
其の発言は、麗蘭が人として培ってきた倫理観に基づくものだが、魔族にも通用するものと思っていた。恵帝という偉大なる母を持った麗蘭は、母親の慈愛は全ての子に注がれると誤信していたのだ。
「豹王陛下を亡き者にし命を得たとして、荐夕殿は喜ぶのか? 大いなる妃である貴女の御名に、醜悪な傷が付くだけだ」
「お黙り。此れはあの子が望んだこと」
怒りの矛先を麗蘭にも向けて、大妃は血走った目で睨め付けた。
「仄暗き黄泉の淵より、愛しい荐夕が訴え掛けてくるのだ。己を母上の許へ喚び戻してくれ、と」
動かぬ屍骸を見やる目は、別人のように優しい。大き過ぎる感情の揺れから、大妃が普通の状態でないのは明らかだ。
「我が子の悲憤に、母が耳を傾けてやらず何とする。此の苦悩は、子を持たぬそなたには分かるまい」
悲愴漂う様子に、麗蘭はつい詰問を止めそうに為る。だが、如何な理由が有ろうと此の暴挙を許すわけにはいかない。
「大妃よ、お忘れか。豹王陛下とて貴女の御子であろう」
大妃の理性が残存しているのを信じ、麗蘭は一人の母へ懸命に訴え掛ける。ところが次の一言で、己が重大な思い違いをしていたのに気付かされた。
「豹貴は死するのではない。荐夕と一つと為り、共に魔国の王と為るのだ――『あの子』がそう教えてくれた」
そう言った時、女の目は限り無く癲狂者に近いものの、確かに正気であった。麗蘭が炎を湛えた紫の瞳に見入っていると、後ろから若者の声が聴こえた。
「麗蘭!」
見返ると、別れた時のままの魁斗が立っていた。彼を見て瞬く間に面相を変えた女は、元の美しさが微塵にも残っていない、鬼女の如き顔で咆哮した。
「おのれ、昊天! 貴様、良くも生きてわたくしの前に現れたな!」
獣染みた怒号は、麗蘭が身を竦ませる程のもの。直接憎悪を浴びせ掛けられた魁斗は、女を凝視して幾度も瞬きをしてから、思いも寄らぬことを口にした。
「あんた、誰だ?」
麗蘭は耳を疑った。魁斗の勘違いだろうと思ったが、彼が見誤るだろうか。浮那大妃でないのなら、樹莉と似た顔をして、棺に眠る遺骸を息子と呼んだ此の女は誰なのだろうか。
「麗蘭、其の女は大妃じゃない――いや、中は大妃だが、被っているものが違う」
自身へ向けられた、化け物を忌むかのような睥睨など物ともせずに、魁斗は女の正体を暴く。女はますます怒気を漲らせ、真白な肌を赤く染めてゆく。
「おのれ、おのれ……貴様だけは許さぬ。死ね! 今度こそ死ね!」
最後の方は、もはや人の解せる語に為っていなかった。絶叫を終えた女は己の両肩を抱き、猛烈な苦しみに身悶え始めた。
意味を成さぬ濁音を発しながら、全身を震わせ異常に発汗している。着物は千々に裂け、深紅に変わった肌は溶け始め、筋肉や骨は引き伸ばされて人型ですらなく為ってゆく。
巨大化し、髪が全て抜け落ちた頭は遥か天井に達した。尖った両目は紫銀に光り、口は耳まで裂け、赤い肌には黒の斑ら模様が浮かんでいる。細長い舌を出しては戻し、失った声の代わりに乾いた音を発して威嚇してくる。
変わり果てた女は廟内へ妖気を撒き散らし、棺を中心にして蜷局を巻く。周りの位牌は構わず薙ぎ倒して押し潰したが、亡骸を入れた棺だけは守っていた。
「此れは、赤骨蛇か?」
自分たちの背丈を優に超した蛇を見上げ、麗蘭は目を細めた。
「経緯は分からないが、此れはもう大妃じゃない。妖が大妃を喰って同化したんだ」
そう言って刀を抜き払った魁斗の顔には、苦渋の色が浮かんでいた。麗蘭も天陽の柄を握ったものの、割り切れずなかなか抜けない。魔界の大妖は大妃を襲わないと教えられたのも有り、眼前の現実が解せなかった。
「麗蘭、天陽で斬れ。おまえが斬れば、妖は浄化されて塵に為るだろう」
「其れは、そうだが……」
迷っているうちに、赤蛇が攻撃を開始した。一旦後方に引いた首を突き出し、魁斗目掛けて顔面から突進して来る。彼が軽々避けて壁に勢い良く突っ込むが、黒い牙を剥いて懲りずに激突を繰り返した。
頭だけでなく、槍の切っ先に似た尾も魁斗を狙う。彼は二方向からの襲撃を追いつつ、麗蘭を見て声を張り上げた。
「俺から離れろ! 此奴は俺を狙っているみたいだからな」
一先ず頷いた麗蘭は、室の隅へと移って武器を弓に持ち替えた。残り少ない矢筒から二本の矢を出し、重ねて引き絞る。動き回る蛇の頭部に照準を合わせようとするが、標的が速過ぎて時間が掛かる。
頭上から降りる尾の刃を避け跳躍し、着地したところで、魁斗の動きが僅かに遅れた。隙を捉えた大蛇は頭を押し出し、壁際に追い詰めた彼を一飲みにしようとした。
「魁斗!」
悲鳴に近い叫び声を上げ、麗蘭が走り出す。近付くと蛇の巨体の向こうに、怪物の頭を押さえ込んでいる魁斗が見えた。牙の隙間から口内に差し入れた右手の刀は上顎を、左手の脇差は下顎を貫いている。
妖が吐く瘴気や傷口から出る紫の血が魁斗を襲うが、彼が纏う神気に阻まれ害は及ばない。されど、大蛇は重傷を負いながら獲物を噛み砕こうとしている。流石の彼も、何時までも此の体勢ではいられないだろう。
「麗蘭! 今のうちにやれ!」
魁斗の継母と戦うのを躊躇っていたが、彼が身動き出来ず危ない今、そうする他に手立ては無い。麗蘭は弓矢を放り出して天陽を抜き、自身に集めた神力を高めた。
――私がやらねば、魁斗が喰われてしまう!
無我夢中で地を蹴り、赤蛇の後頭部へ向けて跳んだ。両手で持った天陽を振り上げ、神気を含ませた神剣の刃を上から垂直に斬り下ろす。両断された大蛇は、毒液や血潮を噴き出しながら横へ倒れた。
裂け目から尾の方にも神気が伝わり、聖なる白焔に包まれて見る見るうちに灰へと変わりゆく。蜷局の形に積まれた灰の山の真ん中に、裸身の女が膝で立っていた。
両の手を胸に当てて、ある一点に向かい微動だにしない。開かれた瞳は、隅へ押しやられていた荐夕王子の棺を見ていた。




