十三.共に、戦う
三年前――魁斗の運命が変わった日。
摩伽羅宮では、偉大なる烈王の大喪儀が執り行われていた。浮那大妃や側室たち、王子王女たちが地下の大霊廟に籠もり、死出の旅路に出た王のために祈る。其の日は埋葬一月後に行われる三日間の儀式のうち、終夜祈祷を続ける二日目であった。
霊廟の大扉が閉められ、神と魔王に仕える巫女が祝詞を読み上げている時、突然悲鳴が響き、紅い血が噴き出し花弁のように舞った。
皆が伏せていた顔を上げると、大妃の王女の一人が首を切り落とされていた。直ぐ傍には、闍梛宮へ入り行方を晦ましていた荐夕王子が居た。
しめやかなる儀式が、忽ち地獄図の如き禍に呑まれた。黄昏色の長髪を靡かせた荐夕は、以前と全く変わらぬ幽艶な剣捌きで、同じ血を引く弟や妹たちを惨死させていった。
生殺を決めるのに、如何に親しかったか、慈しんでいたかは関係無いらしかった。只、浮那が産んだ子か否か――荐夕にとって大事なのは其れだけで、当てはまれば寸分の逡巡も無く剣を振り落としていた。
唯一の出口である大扉は、固く閉じられ開かなかった。此れは荐夕の仕業ではなく、魔界の仕来りに因る不幸だった。
絶大なる魔の掟を如何にして破ったのか、また如何にして兄の隙を突いたのか。早々に脱出した樹莉は、七日前に闍梛の森に入った魁斗の許へ急いだ。
森の入口で騎獣を乗り捨て、彼女に手出し出来ぬ妖異たちの怪訝な眼差しの中、地下宮へと走った。丁度森を抜けたところの魁斗を見付けわけを話すと、彼は異母妹を残して王宮へ走り出した。
試練を投げ出した魁斗は、行きのように妖に依る襲撃を受けることは無い。かと言って、脱落者として蔑みの目で見られるわけでも無かった。試練の森の妖獣たちは、王宮で如何な惨劇が起きているか知り得ているかのように、憐れみめいた不気味な表情を作っていた。
神力が使えない特殊な状況下、麗蘭は魁斗と共に群がり襲い来る麝鳥を撃墜した。
矢は殆ど使い果たし、途中で剣に切り替えて凌いだ。苦戦はしたが、返り血を浴びぬよう注意するなど、魁斗が居てくれたお陰である程度余裕を持ち戦えた。
やや離れたところで戦っていた魁斗が気に為り、数瞬だけ余所見をした所為で、右肘を爪で裂かれ負傷した。弓は未だ引けたが、力を使えぬため治癒が出来ず、此の先の支障は否めない。
妖が見えなく為ったのを確認し、麗蘭は大樹の下に座り込む。矢を射るのに集中力を使い、刀を振り被る回数も多かったため、相当の体力を消耗していた。
「大丈夫か」
疲弊するどころか呼吸を乱してすらいない魁斗は、刀を納めてから麗蘭の側に片膝を付いた。
「大したことは無い」
強がりはしたが、疵口から血が流れて止まらない。傷を負ってからも無視して戦い続けたため、余計に酷く為ったのだろう。
「開光してからは、こんな傷は何もしなくても治るように為ってしまったのだが、此処ではそうもいかないな」
光龍に眠る真の力を目覚めさせてから、己を守ることへの意識が薄れたように思う。此の森での戦いで、麗蘭は何時の間に生じていた驕りや甘えを思い知らされた。
血止めだけでもと思い、懐から手拭いを出し、傷の上から巻こうとすると、魁斗が横から手を差し出してきた。
「貸してみろ」
白い綿布を受け取った魁斗は、麗蘭の着物袖を上まで捲らせて止血を始めた。こうして接近されると、彼の整った顔立ちや長い手指が間近に見えて、何だか緊張する。彼の顔は見慣れているはずなのに、何時もと異なる何かが感じられてそわそわしてしまう。
「此れは、深いぞ。暫く剣は抜くな。弓も引くなよ」
「しかし……」
「しかし、じゃない。下手をしたら利き腕が使い物にならなく為る。地下宮に着いて治癒術を使うまで、敵は俺が引き受ける」
言い返そうとした麗蘭を制止し、魁斗が厳しい口調で言った。何時もの彼らしくなく、声には焦りに近い苛立ちを含んでいた。
腕に布を巻き終えたところで、魁斗は麗蘭の真横に腰を下ろす。情けなく遣り切れなく為った麗蘭は、俯いて肩を落とした。
「私が不甲斐無いばかりに、済まない。おまえが怒るのも当然だ」
自分の力不足よりも、魁斗の気分を害したことへの落胆の方が大きかった。消沈した彼女に、魁斗が数度頭を振った。
「違う、おまえに怒ってるんじゃない。俺は自分に腹を立てているんだ」
きょとんとした麗蘭を見て、魁斗は困り顔で自身の髪を掻き毟った。
「とにかくおまえの所為じゃない。おまえのことだから、戦うななんて言われるのは嫌だろうが、辛抱してくれ」
遠回しな言い方だが、魁斗は麗蘭の身を心底案じていた。麗蘭も其れを漸く感じ取り、大人しく小さめに頷いておいた。
「俺も疲れた。少し休んでいくぞ」
「ああ」
麗蘭は、魁斗の優しさに助けられ感謝した。彼が『俺も』と言ったのは、罪悪感を持たせず麗蘭を休ませるためだ。
普段の麗蘭なら、僅かでも足手纏いに為れば激しく後悔するだろう。だが何故か、今は口惜しさよりも喜びが勝っていた。純粋に、魁斗が気に掛けてくれているのが嬉しいのだ。
暫し、双方共に何も言わず沈黙を流していた。黙ったまま並んでいるのが照れ臭く為り、麗蘭は魁斗を横目で見た。
「訊いても良いか? 答えたくないならそう言ってくれ」
答え辛い質問をするという前置きだったが、魁斗も麗蘭と目を合わせて頬を緩め、了承の意を示した。
「浮那大妃はどのような方なのだ? 其れに、亡くなられた黄昏君とは……どんな方だったのだ」
恐る恐る訊いてみると、魁斗は答えを探して間を置いた。
「先ず、大妃だが。実を言うと、直接会ったことは数える程しか無い。お互い避けていたからな」
「そうなのか」
「嫉妬深くて怖い女なのは確かだ。実の子である樹莉や豹貴兄も恐れていた節が有る」
確かに、樹莉が大妃について麗蘭と話す際、他人の話をしているような距離の有る表現をしていた。樹莉も、恐らく現魔王も、一般的な母子とは異なる関係を築いてきたのだろう。
「だが、仕方無い気もする。魔王の正妻というのは不安定な身分だ。其の座に居続けるには、王の寵愛だけでなく血筋や後ろ盾、立ち回りの器用さも要求されるから、悪い噂が立つ位でないと務まらない」
歴代の正妃で、側室をはじめ肉親、周囲の者に陥れられて地位を追われた者は多いという。血で血を洗う権力争いは人の世でも見られるが、麗蘭の印象だと魔国の内輪揉めの方が一段陰湿に思えた。
「樹莉からは、大妃が俺を虐めてたって聞いてるかもしれないが、其れも無理ない。あの人にとっては俺の母も俺も、反則的な敵なんだよ」
魁斗自身は、継母から心無い仕打ちをされながらも甘んじて受けていたようだ。昔はいざ知らず、少なくとも今は、心の整理を付けて諦めていると見えた。
「荐夕は、顔見知りの兄弟の中では一番尊敬出来る兄だった。豹貴兄でも悪くないが、荐兄なら親父以上の魔王に為っていたかもしれない」
前王であり魁斗の父である烈王は、三百年間魔国を治めた強き王として名高い。跡継ぎの豹王も、早くも名君と誉れ高いが、魁斗の称賛を聞くに荐夕は余程優れた王子であるのが窺えた。
「樹莉殿も言っていた。おまえと並んで最も魔王に相応しい人物だったと」
「俺が候補に入っていたのは母が神族だからだ。器の大きさでいえば、俺と荐夕は比べるべくも無い。俺と豹貴兄を並べたって、あいつの方がずっと王らしい」
最終的に魔王に選ばれたのは魁斗で、兄である豹貴に王座を譲ったというのが通説であり、麗蘭も樹莉からそう聞いた。魁斗の意見が事実なのかは分かりかねるが、本人は兄たちの方が適任だと本気で評価しているようだった。
「荐夕と豹貴、樹莉の三人は大妃の子だが、構わず俺を兄弟として見てくれた。母が居なく為った頃はきつかったが、あいつらが居たから耐えられた」
常に悠然としている魁斗から、きついなどという言葉が出るのは意外だった。存在しているだけで浮那大妃らから彼を守っていた薺明神の死は、幼い彼にとって大きな転機だったのだろう。
淡々と話してきた魁斗は、深く息を吐いた。
「だから、兄弟の血に塗れた荐夕と対峙した時は、もうわけが分からなかった。何故あんなことに為ったのか、何故俺が奴と戦わねばならないのか」
目を伏せて吐露されたのは、魁斗の本心だった。敬慕の情を寄せていた者と戦わねばならなく為り、終いには眼前で命を絶たれたというのは、麗蘭の想像を絶する苦悶に違い無い。
荐夕が罪を犯した理由について、今の魁斗は明確な答えを持っていない。当人が死んでしまったがために、真相究明は不可能と為った。真実が分からぬからこそ苦しみが増し、心の傷を深く抉っているのかもしれない。
「済まぬ。やはり辛い過去を思い出させた」
「いや。元はといえば、おまえは俺たちのいざこざに巻き込まれているんだ。知りたくて当然だろう」
すると今度は、麗蘭が首を振り否定した。
「此れから大妃と会い、企みを止めていただくため、というのも有るが――私がおまえを知りたいのだ」
思い切って顔を上げ、魁斗を見やると視線が合った。
「おまえのことをもっと教えて欲しい。おまえを悩ませるもの、苦しませるものと、私も共に戦えるように」
前々からずっと、麗蘭が望み続けていたことだった。出会いから時が経ち、仲間として打ち解けてはきたものの、魁斗のことを何も知らないのがもどかしく、哀しかった。
はっきりと気付かされたのは、珪楽で神剣を抜き金竜と戦った折。己が力に怯え、神剣の継承を迷っていた麗蘭を勇気付け支えてくれたのは、他ならぬ魁斗だった。彼が自らを犠牲にして金竜を封じようとした時、麗蘭は彼のことを何も知らないのだと身に染みて分かった。
「私が敵に向かう時、おまえも一緒に戦ってくれただろう。おまえが戦わねばならぬ時も、私が隣に立ちたい。そうすれば――」
――おまえにもっと近付けるだろう。
魁斗がじっと見詰めてくるので気恥ずかしく為り、終わりまで言えずに目を逸らしてしまった。麗蘭にとり意を決した告白だったのだが、やがて彼は楽しそうに笑い出した。
「積極的なんだか、天然無自覚で言ってるのか、どっちなんだ」
麗蘭としては懸命に想いを伝えようとしただけなので、問い掛けの意が分からなかった。しかし程無くして、魁斗は彼女の肩を優しく抱いた。
「ありがとうな」
耳打ちされた刹那、麗蘭は自分の心臓が跳ねるのを感じた。心拍数が上がり、顔が耳元まで熱く為って動揺する。触れられていたのは束の間で、魁斗は直ぐ立ち上がり離れたが、手足から力が抜けて動けなく為ってしまった。
――な、何なのだ、此れは。
歩き出した魁斗が止まって振り返ったため、麗蘭もよろめきながら立ち上がった。
「もう歩けるか?」
「へ、平気だ。一人で歩ける」
彼に接触されたのは初めてではない。剣を握る手の上から大きな手で包まれたり、横抱きされたりしたことも有る。一寸身体を寄せられた位で、今更驚くことも無いはずだ。
当惑する理由が解せぬまま、麗蘭は再び魁斗の横に並んで歩く。不可思議な心情への対処には困っていたが、一歩でも彼の側へ行けたと確信して気持ちが華やぎ、傷の痛みすら忘れ掛けていた。
地下宮まで、二人は着実に近付いていた。互いの想いを確かめ合い、不器用にも心を通わせながら。




