十.会いたい人
宮城より送り出された麗蘭は、騎獣を借りて闍梛の森へ急いだ。鬱陶しい襦裙を脱ぎ捨て慣れた袴姿と為り、天陽を携え弓矢を背負っていた。
魔族が日常的に使う騎獣は、人間からすれば実に不可思議な存在である。魔族に忠誠を誓い使役される妖を指すが、人界で左様な関係は先ず成立しないだろう。
樹莉の命を受けて麗蘭を乗せたのは、采馬という美獣であった。上半身は鷹、下半身は馬という羽を持つ妖で、純白の毛並みと薄紫の嘴が麗しい。
一般的な妖とは違い、纏う妖気も微量なもの。半妖の優花が変化した大鷲と同じく、騎乗しても悪影響と為るものは見当たらなかった。
薄紅色の空を疾駆し森の入口へ着くと、忠実なる采馬は麗蘭に丁寧な辞儀をして去って行った。妖と斯様なやり取りをするのは、何やら奇妙な心地がする。
目指す闍梛宮まで運んで欲しかったのだが、樹莉いわく、闍梛は騎獣が入れぬ領域だという。神力や魔力が封じられるのと同じ理由とのことだった。
此の森で生まれ持つ力を発揮出来るのは、妖王の下僕でありながら魔界に棲むゆえ、魔王の支配下に在る者のみ。騎獣は妖の眷属だがより魔族に近く、妖王に従属すると見なされぬそうだ。
両目を閉じた麗蘭は、何時ものように四囲の気を探ろうとする。だが樹莉から聞いていた通り、全く、何の気配も感じ取れなかった。
幼少のみぎりより、麗蘭は気を読み神力を振るうことで、敵を倒し身を守ってきた。其れらが能わぬと為ると、戦い方を大きく変えねばならず、甚だしく不利だった。
特に、妖相手に神気で身を包めぬのが辛い。返り血を浴びてはならず、敵の妖気を受けぬよう短時間で済まさねばならない。
虫や鳥の声一つ鳴らない静謐が、麗蘭の不安を煽る。風も無く、梢の葉擦れの音すら無い。妖気は感じないが、間違い無く普通の森とは違う。
――思った以上に、怖い。
木立の影に潜む見えざる脅威は、勇気有る麗蘭を怯えさせた。幾多の妖を討ってきた彼女も、未知の障壁を前に一人で抜けられる自信を喪失し始めていた。
――神力を使えぬと、かくも臆病に為るとは。
恐れを誤魔化すため、情けない苦笑いを作ろうとした矢先に、背中から誰かの声がした。
「麗蘭」
名を呼ばれ、麗蘭は望みを持って振り返る。数歩間を空けて、今最も会いたいと願っていた青年が立っていた。
「やっぱり、麗蘭か」
「魁斗!」
夢、或いは敵の見せる幻術の類かと思い、己の頬を抓ってみたく為る。
「本当に、魁斗なのか?」
溢れそうな喜びを表しつつ、疑うような目付きで見てくる麗蘭に、魁斗は苦笑し息を吐いた。
「其れは俺が訊きたいぞ、麗蘭」
「え?」
燈凰宮で、魁斗が自身の偽者に翻弄され掛けたのを知る由も無い麗蘭は、気の抜けた声を出した。
「いや、何でもない。其れより何故こんなところに居る。蘭麗や蘢は?」
予期せぬ魁斗との再会に、説明を用意していなかった麗蘭は慎重に答えを探す。
「先に紫瑶へ返した。おまえの異母妹君に頼まれて、私だけ残ったのだ」
此処に来るまでの経緯を掻い摘んで話すと、魁斗は相槌を挟んで静かに聞いていた。浮那大妃や荐夕王子の名が出る度、徐々に険しい表情に為っていった。
「やはり、大妃が関わっていたか。俺にも厄介な術を仕掛けてきたんだ」
既に魁斗も攻撃を受けたと知り、麗蘭が子細を問おうとするが、間も無く話を戻されてしまった。
「しかし、樹莉の奴はとんでもないことをしでかすな。お人好し過ぎるおまえを叱りたいところだが、蘭麗たちを質に取られていたなら仕方無いだろう」
叱るという言葉にぎくりとしたが、魁斗が怒るであろうことは麗蘭にも分かっていた。蘭麗も蘢も、無謀ともいえる判断に反論したそうな顔をしていたのだから。
「樹莉殿は聡明な方だ。先刻は驚いたが、むしろ勇敢さを尊敬する」
強硬的な態度に一度は反発を覚えたものの、兄を救おうとする想いや母と対決しようとする姿勢、魔国内の混乱を抑える努力に見方が変わった。己が同じ立場だったなら、ああして大胆に動けただろうか、と。
「あいつは子供の頃から怖いもの知らずなんだ。頭も悪くないし、責任感が強いからな。女だてらに豹貴兄を支えている積もりなんだろう」
雑な言い方ではあったが、魁斗の声には妹への親愛が表れていた。麗蘭は、彼ら兄妹と自分との間に聳える越えられぬ壁に隔たれ、羨望めいたものを感じていた。
「不思議な森だな。琅華山の如く妖が犇めいているのに、妖気をまるで感じない。神気も感じ取れない」
木々の天蓋を見上げた麗蘭が、肩を上下させて深呼吸をした。魁斗と会えたため恐怖は薄らいだが、気に触れられない違和感は残っている。
「ところで、おまえは如何して此処へ来た? 気を感じないのだから、私の気を見付けたからではないだろう。樹莉殿から聞いたのか?」
違うと思いながらも、麗蘭は問うた。樹莉との会話から、魁斗が王族と絶縁状態に為っているのは事実だからだ。
「いや。あいつとは此の三年、一切連絡を取っていない。此処には一寸した因縁が有る所為か、何故か足が向いた」
魔国に帰ったは良いが王宮には行けず、悩んだ末に何と無しに赴いていた、というのが実際のところだった。
「此の森は、魔王を決めるための試練が行われる地だ」
辺りを見回した魁斗の面持ちは、酷く不快げだった。
「候補者は七日間を森で過ごした後、闍梛宮を目指す。持って生まれた神力や魔力以外の能力が試され、弱い者は容赦無く妖に喰われる」
彼の話に、麗蘭は眉根を寄せた。
「では、おまえも其の試練を受けたのか」
返答は無かったが、魁斗は確かに首肯した。
「質の悪い、大昔からの慣例だ。普通、魔界の大妖は魔族を襲わないが、試練を受けている者に限り敢えて許されている。俺の時も、兄弟が何人かやられた」
妖が王子を捕食するのが「敢えて」許されているという部分に関し、麗蘭は理解に苦しんだ。
「宮に着いた者の中から、更に絞り込むのか」
「宮で行われる試練については、外からも見えず誰も詳細を知らない。潜り抜けて魔王に為るか、心身を壊されて狂うか、二つに一つだが、魔王に為った者は固く口を閉ざすからな」
つまり、魔王の座を望む者には三通りの未来が待っている――失敗して妖に喰われるか狂うか、或いは魔王の座を手にするか。『試練』の内容は、麗蘭の想像以上に峻烈なものだった。
「俺の時は、何人かの兄弟が駄目に為った後、荐夕が森に入った。森は難無く抜けたらしいが、地下宮に入った後行方知れずに為った。発狂して二度と戻らぬ者は珍しくないが、あの荐夕がそう為るとは思わなかった」
溜息を吐いたのを見るに、魁斗もまた、荐夕の強さを認めていたのだろう。
「候補者が試練を続けられる間は、摩伽羅宮内の神殿に設置された燭台の蝋燭が燃え続ける。森に居る時は赤、宮に入ると青に為る。死ぬか、『死んだも同然』に為った時には消える仕組みだ」
火は他の候補者や長老たちに依って見守られ、消えれば直ぐに次の王子が送られる、という話だった。
「荐夕の火は、青に為って直ぐに消えた。続いて俺が入り、地下宮に辿り着く寸前で事件は起きた。何時の間に王宮に戻っていた荐夕が、王族の虐殺を始めたんだ」
樹莉の話から察するに、話は魁斗にとって思い出すのも辛いところに差し掛かっていた。しかし彼は苦しみを漏らすどころか、冷たい静けさを前面に出していた。間近で見守る麗蘭が、些かの不自然さを覚える程に。
「『試練中、候補者と接触してはならない』という掟を破り、樹莉が俺に危機を知らせてきた。其れで直ぐに、試練を放棄して王宮へ帰った」
其処まで言うと、魁斗は話すのを止めた。本人から聞かずとも、帰城した魁斗が荐夕と対峙し、如何様な結果と為ったかは、麗蘭も聞き及んでいた。
「荐夕王子が凶行に及んだのは、魔王に為れぬ者に狂気を齎すという地下宮殿の試練の為か?」
目を伏せた魁斗に、言葉を選びつつ尋ねた。
「分からない。だが、そうとしか考えられない。よりにもよってあいつが、あんなことをしでかすとは」
殺戮の動機は、荐夕が死んだ以上想像の域を出ないのだろう。されど魁斗は、荐夕という兄を腹の底から信じていたらしい。
「麗蘭、事情は分かった。後は俺に任せて、おまえは国へ戻れ」
不服そうな目をした麗蘭に、魁斗は諭すが如く言い重ねた。
「樹莉は建前上、俺でなくおまえに依頼をしたんだろうが、此れはおまえが関わらなくても良い問題だ。おまえには聖安でやるべきことが有る」
意図せず魁斗と会った頃から、そう言われるであろうことは麗蘭も予想していた。
「魁斗。おまえに任せれば安心だが、私にも引き受けた以上矜持が有る。其れに浮那大妃の術が如何なものかに依って、解縛に光龍の力を要するやもしれぬ。だから、私は帰るわけにはいかぬ」
暫しの間、二人は目を合わせたまま逸らさずにいた。先に視線を外したのは魁斗で、半ば呆れたように前髪を掻き上げた。
「おまえも相変わらず強情だな……そういうところが可愛いんだが」
終わりの方が聞こえなかったため、麗蘭が聞き返そうとしたが、魁斗は其の前に強い口調で窘め始めた。
「良いか。おまえは光龍だが、聖安の世嗣でもある。万が一にも今、おまえに何か有れば、国が傾くかもしれないぞ。魔界のことより、おまえには聖安が大事だろう」
彼にしてみれば、魔界の面倒ごとに麗蘭を巻き込み、即位の妨げにするのは避けたかった。更に麗蘭には、帝位継承者として聖安を優先させねばならぬ自覚を持たせたかったのだ。
すると麗蘭は、珍しくやや感情的に為って言い返した。
「だからこそ蘭麗を帰したのだ。私に何か有っても、蘭麗が居れば立て直せる」
公主の務めを果たすため、然程時間を掛けず帰る積もりでいる。もしものことを考え、蘭麗を蘢に託して帰国させたのに、国のことを疎かにしているように言われるのは心外だった。
「其れに、此れ以上は耐えられそうにない。救える者を救えず奪われるのは、もう我慢ならない」
両の拳を握り締めた麗蘭は、肩を震わせ目尻を微かな涙で濡らしていた。気高い強さの向こうに秘めた哀しみを垣間見て、魁斗は開き掛けた口を閉じた。
目を落とすと、麗蘭が腰に差している神剣天陽が見えた。金竜との戦いの最中、彼女が此の剣を継いだ時のことが、つぶさに思い出される。
――光龍の力を思う通りに使えと言って、天陽を抜かせたのは、他でもない俺だったな。
ゆえに魁斗は、側に居て支えると誓った。麗蘭が心のままに動けるよう助け、真の意味で力に為ると決めた。
光龍として、浮那大妃の陰謀を阻止し魔王を救済すると決めたなら、協力を惜しんではならない――彼もまた、己の成した誓約を守る責を負っていた。
そして、もう何も奪わせないと決意しているのは魁斗も同じである。
考え込んでいる時は無かった。常人を超えた聴力で遠く離れた妖を見付けると、魁斗は腰の刀に手を添える。
「来るぞ」
麗蘭も弓を構えて矢筒に手を伸ばした。気を当てに出来ぬため、敵が視界に居ないうちは魁斗を頼るしか無い。
「どちらの方向だ?」
「四方から来る。羽音めいたものが聴こえるし、動きも速い」
目を細め、樹立の間を注視した魁斗は、此方へ向かい来る妖鳥の姿を認めた。
「墨色の、一つ目の鳥。麝鳥の群れか」
麝鳥と聞いて、麗蘭は少し安堵した。数年前、阿宋山で瑠璃に嗾けられて、撃退した経験が有るのだ。
魁斗と背を合わせるようにして立ち、弓に矢を番える。正面を見据えたまま、背後に居る彼へと問い掛けた。
「此処の妖は、今はおまえに手を出さないのだろう?」
「其のはずだが、違うみたいだな。大方大妃が命じて襲うよう仕向けてるんだろう」
普段と変わらぬ魁斗の余裕が、麗蘭の闘気にも火を付けた。一人で戦おうとしていた時よりも、ずっと大きな力が湧いてくる。
怪鳥が接近し、麗蘭の視野にも入り始めた。鷲程の体長の鳥が無数に居り、塊を成している。矢の数にも制限が有るため一矢も仕損じられない。魁斗が居るとはいえ、彼も神力を使えない状況で、足手纏いに為るわけにはいかぬ。
「切り抜けるぞ」
後ろから聴こえ来た魁斗の声に、麗蘭は深く頷いた。
「ああ」
かくして、聖地珪楽における金竜との死闘以来の、二人の闘いが始まった。




