九.邪術
邪悪な術に倒れ、床に臥した魔王は、摩伽羅宮の西側に位置する離れの宮に居るという。此処は王族しか入れない宮で、人目にも付きにくい。
元来魔王は城の深くに籠もり、一部の側近を通して治政を行う存在である。数ヶ月もの間臣下の前に現れぬことも珍しくなく、必要な際は樹莉の力で替え玉と為る傀儡を置けば、現状を隠すのに事足りた。
今、此の宮で魔王の世話をしているのは、王家の血を引く限られた数名の者のみ。王の正妃がほぼ付きっ切りで看護に当たっている他、側室が交替で見舞いに来ているようだ。
宮に案内された麗蘭は、樹莉の後ろに付いて薄暗い回廊を歩いて行く。窓が少ない所為か、日当たりの所為か、先程まで居た正殿と比べて妙に光が届かない。
正殿と同じく整えられてはいるが、人気が無く死んだように静寂としている。奥に進むにつれ、魔王の御座す室に近付くにつれ、独特な魔の気配が高まりゆくのを感じる。
初めて魔界を訪れたため、麗蘭は未だ『魔の気』に慣れていない。妖気とも黒の気とも異質の力は、人界では接する機会が無いものだ。魁斗も魔の一族ではあるが、常に気を隠しているため例外だった。
「樹莉殿。一つ尋ねても?」
二人で長い歩廊を進む途中、麗蘭が唐突に口を開いた。
「魁斗のことだ。本人は勘当同然などと言っていたが、本当なのか。今回の件も、手を貸すよう頼めたのではないか」
荐夕王子の事件を知り、魁斗が魔界に戻りたがらない理由としては得心が行った。だが血を分けた兄が死に掛けていると知れば、彼は屹度戻って来ようとするだろう。
ところが実際は、魁斗の意思だけが問題というわけではないらしかった。
「気付いていると思うけど、私たちの国はとても不寛容なの。王位を得るための試練を途中で放棄し、家出をした魁斗兄の立場は良くない。追放したわけではないけど、もし戻って来たとしても、歓迎は出来ない。表向きはね」
まるで、樹莉の本意ではないという口振りだった。魔界は魁斗を受け入れられないし、彼に協力を求めることも出来ない。ゆえに樹莉は、此度の一件でも異母兄ではなく麗蘭に助力を請うたのだろう。
「そう為るのを覚悟で、魁斗は人界に出たのか」
血族との縁が切れるのを承知で故郷を出奔するという選択は、並々ならぬ決意を要するに違い無い。麗蘭も、亡き母や蘭麗との絆を考えれば想像は出来る。
「魁斗兄も散々苦しい思いをしてきたから、荐兄の件で我慢出来なく為ったんだよ。国を出て、恵帝陛下のお力添えで聖安に身を寄せて――元婚約者が居るからというのも有るかもね」
「婚約者?」
声を上げた麗蘭に、樹莉は小首を傾げた。
「知らなかった? 蘭麗姫は、魁斗兄の許婚だったんだよ」
寝耳に水の話に愕然として、麗蘭は聞き返す言葉すら呑み込んで樹莉を凝視した。
「大妃が進めた話なの。聖安の次期女帝の夫に為れば、魁斗兄を魔界から遠ざけられるからね」
麗蘭が突然口を閉ざしたのに気付いているのかいないのか、樹莉は構わず話し続ける。
「でも、結局蘭麗姫は茗の人質に為ってしまったから、縁談は白紙に為ったの」
「そ、そうだったのか」
正直過ぎる麗蘭は、こういう時に誤魔化す術を持たない。無理に平静を保とうとし、大きく息を吐いた。
「妹の話なのに知らなかったとは、何だか恥ずかしいな」
過去のものとはいえ、身内の縁談を把握していなかった点。そして、彼らの関係を知らずに自分だけが浮いた気持ちに為っていた点の両方が、麗蘭に衝撃を与えた。何故誰も教えてくれなかったのだろうかと疑念が募る。
「魁斗兄が気に為る?」
見透かされ、麗蘭はまたも答えに詰まった。
「異母妹の私が言うのもなんだけど、魁斗兄は好い男だと思うよ。宮中でも女性との噂が絶えなかったし、私も血が繋がってなかったら惚れてたかもしれない」
「そうか、やはり」
もっと上手な返しが有るだろうとは思ったが、今の麗蘭には余裕が無かった。特に「女性との噂が絶えない」「惚れていた」といった部分に反応してしまい、こんな時であるにも拘らず余計なことを思い出してしまう。
『其れってさ、やっぱり「そういう好き」なんじゃない?』
以前、魁斗への想いについて優花から指摘された。其の頃から自覚し出し、時々考えるように為ったのだが、未だに良く分からない。
「麗蘭となら、お似合いだと思うけどな」
思わぬ発言に、麗蘭は瞼を瞬かせた。
「神巫女さまだし、身分だって申し分無い。女帝陛下に為るんだから、魁斗兄の方が足りないくらい」
人として――或いは女として相応しいという意味ではなく、出自の釣り合いが取れているという主旨の意見は、期待していたものとは異なっていた。だが自己評価が高くない麗蘭からすると、納得出来るものでもあった。
「ありがとう、樹莉殿」
礼を言い、麗蘭は此の話を終わらせる。魁斗と蘭麗の心内が気に為るが、今は余所見をしている場合ではない。
やがて最奥の室に着くと、入口の傍にはお付きの少女が控えていた。二人が足を止めたところで、無言で一礼し立ち去った。
「さあ、どうぞ」
大きな両開き扉を開け、樹莉が麗蘭に入室を促す。室へ入れるとは思っていなかった麗蘭は、幾度も瞬きしてから雑念を払い、ゆっくりと踏み出した。
広い室内は小さな燭台の火に依ってのみ照らされ、中程で天井から垂れる御簾に遮られている。向こう側は殆ど見えないが、寝台らしき大きなものが置かれているのは薄っすらと分かる。
其の場に片膝を付いた麗蘭は、御簾を向いて首を垂れた。御姿は見えずとも、弱々しくも確かに存する濃い魔力から、王が居るのを認めたのだ。
――限り無く弱ってはいるが、魁斗と似た気を感じる。そして、別の魔の気が其れに喰らい付いている。
「一月程前、夜眠ったきり目覚めないの。日に日に精気が失く為り痩せ細り、身体が死人のような土気色に為っている」
気の感知に集中する麗蘭に、傍らに立つ樹莉が話し掛けた。
「此の室に満ちた魔力は、紛うことなき大妃さまのもの。他者の魂を捕らえ、意のままに操るのを得意とするあの御方の、ね」
麗蘭は顔を上げ、暗い部屋を注意深く見回した。樹莉の言葉も手掛かりに、見えざるものを見抜こうとする。
「離れたところから魂魄が縛され、少しずつ奪われている。豹王陛下ご本人へ力を注ぐことに依る解縛の手立ては無い――やはり術者に会わねばならぬか」
自身の神力で、あわよくば此の場で術を解きたいと考えていたが、不可能と見えた。樹莉の依頼通り、術者と疑われる大妃と対決せざるを得まい。
一先ず状況を掴めたため、麗蘭は魔王へ丁寧に礼をして退室する。今一度廊下に出ると、誰も見当たらず静まり返っていた。
「気を付けて。浮那大妃は魔界でも指折りの呪術使いで、魔力の強さだけで言えば、今は魁斗兄以外に敵う魔族は居ない」
樹莉は麗蘭の肩に手を置き、気遣わしげな面持ちで警告した。
「承知した。必ずや兄君をお救いする」
誓言する強き声にも、澄んだ深紫の双眸にも、迷いは含まれていない。蘭麗たちを質に取るという手荒なやり方ではあったが、自身を信頼してくれる樹莉への誠意――更に守るべきものを守るのだという揺るぎない意志が、麗蘭を突き動かしていた。




