第1章 忘れられた存在 14
水中で、ハンドレッドは縄を外そうともがいた。視界が暗い。もがけばもがくほど、下に沈んでいっているようだった。明るい海面を求めて向きを変えようとするが、息苦しさに落ち着きが失われていく。
その時、ぐわっと強い力で身体が引っ張り上げられた。顔が冷たい空気に触れたと気づき、思い切り息を吸い込んだ。体は再び沈む事がなかった。縄がいつの間にか解けており、自由になった両手と上半身がやけに軽く動くのだった。
「は、はぁ、助かった...?」
何が起きたのかわからないが、助かる希望があった。ハンドレッドは泳いで船から離れた。身体は沈まず浮き輪でもあるかのように安定している。
「ドレ君!」
はじめは気のせいだと思った。
「ミザリー?」
まさか窮地に陥って幻聴を聞く程に、ミスサリアの存在が大きかったのだろうかとハンドレッドは自問する。
「ドレ君、こっちだよ!」
いや、気のせいじゃない。
やはりどこからか声がする。海しかない周囲を見回すと、ばちゃばちゃと波打つ海面にぽっかり空いている穴があった。
それを見ていたハンドレッドの腕が、何かに強く掴まれる。
「あ、そっか。解いて解いて!」
ミスサリアの声がそう言うと、海面の穴だった部分に濡れた服が、ハンドレッドの手首を掴む人の手が顕れてくる。
「一体...!?」
ミスサリアがにこにことハンドレッドを見ていた。濡れた髪が顔に張り付いている。
「ふふ、ビックリした?」
「ずっとそこにいた?」
「そうだよ。魔法を使っていたんだ。」
「魔法...カッツォの手紙に書いてあった!本当に、不思議な力だ。」
ハンドレッドの目の前に、銀色にちらつく光があった。見ると、ぷかぷかと魚が浮いて波に身を任せている。
「カッツォはどうしたんだ?」
「ドレ君を追いかける時、港に置いてきちゃった。イヴェットとクル君が何故か船に乗っていたけど、シュロがいるから大丈夫。」
「そんな、仲間とはぐれてまで来る事は無かったのに!」
ハンドレッドは自分の不甲斐なさを恥じた。しかし、彼女が来てくれなければ今どうなっていたかもわからない。
「私のせいで...すまない。」
ミスサリアは「どうして?」と首を傾げる。
「キミが困っているんだったら、どうしたって助けるよ!」
と、歯を見せてはにかむように笑った。
「...っ」
ハンドレッドは水の中で強く拳を握った。
(...二度と助けられるような真似はしない。)
「ドレ君!」
名前を呼ばれると、心臓が跳ね上がる。
「どうしよう。船に戻ろっか?」
「...子どもたちの乗せられた小舟が心配だ。」
「あ、そうだね。」
ハンドレッドは息を深くつき気を取り直して、辺りをよく観察した。
港が遠くに白んで見える。ほんのちょっとの間に随分な距離を進んだものだ。海賊船の船尾は西にある。反対側に振り向けば、海賊たちの言った通りベアトールの船隊が姿を見せ始めていた。曇り空は赤付き始めており、夕刻の訪れを感じさせる。もう一度海賊船の方を見ると、南の陸に向かって漕いでいる小舟を発見した。
「追いかけよう。あの無法者たちが、子どもたちを無事に帰すとは信じ難い。」
その言葉に、ミスサリアは頷いた。
ハンドレッドの身体はとても水に馴染み、手足をばたつかせるほどに思った以上に海を搔き分ける。ミスサリアの魔法が効いていた。海の中にいる生き物の事がずっと不思議だったが、魚とはきっとこんな風に軽々と泳いでいるのだと、ハンドレッドは思った。
目を覚ましたカッツォの薄暗い視界には、冷たい鉄の棒があった。
鉄格子。
彼は自分が檻の中にいる事を理解した。
「...はぁ...。」
(確かにラナを預けた時、二度と城下町に近づくなと金を貰ったけど。...病気が治ってるかどうかくらい、せめて一言だけでも...。)
カッツォは痛む頭を確認しようと手を伸ばし自身の結べる程度に長い髪と、まったく痛まない頭に気が付いた。
ガバッと身を起こす。
痛むのは頭ではなく胸部だった。服を捲り上げて見ると、肋の間に打撲痕が出来ている。混同していた過去の記憶の上から、現在起きている事を思い出し始めた。
(クルマーシュと名乗ったっけ...。あいつが長い剣を抜いて...。)
服を元に戻し、上から痣をさすった。
(運は強い、か。殺す気は無かった...?)
持っていた短剣は手元には無かった。奪われたのか、落としたままなのか、空っぽの鞘に勿体無さを感じる。
(揺れてる...もしかして船なのか?そうだ、イヴェットは!?)
両手で鉄格子を掴むと、鉄の棒がガタガタと揺れた。
「おう?起きたか小僧。」
音を聞きつけて男がやって来る。港で見かけた海賊だ。
「生っ白い腕して、ひょろひょろした奴だな。お頭に刃向かうなんて十年早いぜ。」
「えーと、起きたらどうすんだっけ。殴って眠らせる?」
「馬鹿、お頭に報告だ!」
一人がもう一人の頭を叩くと、どかどかと忙しなく階段を上っていく。。
残った男は鉄格子に顔を食い込ませてカッツォの事を覗き込んできた。
「へえ、へ、へ。処刑んなったらいいなぁ。重しを着けて海に放り込むんだ。ギリギリんとこまで必死んなって命乞いする。俺はそれを見んのが好きなんだぁ。気高く誇りを持って口には出さない奴もよ、目で訴えてくんだよなぁ。人間ってのは死ぬ瞬間まで一縷の望みをかけて生きようとすんだって、ここにじーんと来んのよ。」
ぎょろりとした目が、カッツォを見てほくそ笑んだ。カッツォがその男を睨み返していると、コツン、コツン、と丁寧に歩く足音が近付いてきた。
「エモーック。」
(!この声...クルマーシュの...。)
「お頭。」
と男が言った。男、エモーックがどくと、お頭と呼ばれたのは長髪の見覚えのある男に間違いなかった。
(クルマーシュは海賊だったのか!)
「ふん。お前はいつも捕虜に向かって同じ話をしているな。悪趣味だが、この船に乗る雑多な野郎共の中では一番賢い。」
クルマーシュが言うと背の低いエモーックは気恥ずかしそうに頭を掻いた。フサフサした灰色の縮れ毛から、ボリボリと白いフケが零れ落ちる。
「さて、貴様をどうしてくれようかな。海賊に身を落とすなら、女の頼みだ、生かしておいてやってもいいぜ。」
「...海賊ってのはやっぱそういうもんなのかい?」
カッツォの問いかけに、クルマーシュは眉をひそめた。
「どういう意味だ。」
「あんた、今"身を落とす"って言ったろう?いや、海賊が悪い奴らだってのはわかってんだ。何度か被害を聞いたりしたし、実際に難を被ってもいる。でも頭がいて部下がいて、船を動かし海を制している組織だ。職業とは言えなくても、そんな荒くれ者の成れの果てみたいな言い方は変だって思ってさ。」
カッツォが言うのを、エモーックはきょとんとして聞いていた。
「ふん。...荒くれ者の成れの果て、か。貴様はこの俺に向かって誇りはないのかと問いている訳だな?」
クルマーシュは牢に近づき、乱暴に鉄格子を掴む。
「 そんなつもりじゃないんだ。ただ興味があったんだよ、俺は話売りのカッツォって言ってさ。色んな人の話を聞いてまわっているのさ。海賊の話を聞いてみたいと思っていたんだ。いざ出会ったあんたはおかしな人だ。他の奴らは想像通りの海賊なのに、あんただけはまるで名家の息子のように異質だ。」
黙ってカッツォに言うに任せていたクルマーシュは、やけに落ち着いた様子をしていた。腕組みをして怒りもせず、笑いもせず、ただじっとカッツォを見ている。
カッツォは命乞いをしているわけではなかった。話しているうちに、クルマーシュには何かが秘密があるのだと察していた。
「あんたの話を買いたいなぁ。何、誰彼構わず喋るわけじゃない。俺は後世に残したいだけなんだ、今生きている色んな人の事を。」
「...。」
何かが響いた、とカッツォは手応えを感じていた。クルマーシュは思案している、話したい何かがあるに違いないと確信する。
「うう...。」
と、呻いたのはクルマーシュではなく、髪と同じようにフサフサの髭のエモーックだった。
「じーんと来た、じーんと来たなぁ。お前は面白い事を言う奴だ。」
「...エモーック、こいつに海賊ってのがどのようなものか味合わせてやれ。
いいか?話売りのカッツォ。貴様の命が助かるのはイヴェットの頼み、身内に入れてやるのは俺の裁断。貴様の思い通りに行くことなどこの船上で何一つない。」
クルマーシュはカッツォを睨みつける。
「俺の気に入らなければすぐに...魚の餌だ。」
コツン、コツン、と靴を鳴らしてクルマーシュは来た道を戻って行った。船はゆったりと揺れている。
(そんなの、今までだって同じだ。)
エモーックが牢屋の鍵を開けた。エモーックは小汚いのに、何故か愛嬌のある顔をしているとカッツォは思った。
「よろしくエモーック。」
カッツォは手を差し出した。エモーックは空っぽの、上の空のような表情でカッツォを見る。
「あんたはいつから海賊をやってるんだい?」
「...生まれた時から海賊よ。親父が海賊、拐ってきた女に産ませた。親父んもそうだ。」
「へえ。じゃあ大先輩だな。」
カッツォは、エモーックの手を掴んで握手をした。離した後、エモーックはじっとその手を見ている。
「あいつ...いや、俺もお頭って呼ばなきゃな。お頭もそうなのかい?」
「もちろんだぁ。お頭はお頭から生まれる、ずーっと昔からそう決まってんだ。」
「...ふーん、"ずーっと昔から"なのかぁ。」
クルマーシュが上がって行った先を見つめるカッツォはエモーックに促され、袖まくりをして船内に入って行った。




