第1章 忘れられた存在 9
「...ロカ。」
ハンドレッドが声をかけた時、美しい顔立ちの青年は一瞬、警戒心を抱いたように見えた。
ハンドレッドは初めてソラミルと会った時のことを思い出していた。いつ何時でも和かで優雅な彼とはやはり違うのだ。
「せっかく城内に来たんだ、良いところへ案内してやろう。」
それでも自分が何かを期待している、と思いながら、ハンドレッドの誘いにマルメロの恰幅の良い顔が嬉しそうに笑うのを、それに少し遅れてロカが表情を取り繕うのを見ていた。
「ラナも来るか?」
「是非、是非とも。殿下からお誘い頂けるなんて!行っておいで、さあラナ。」
「...。」
ラナは不安そうな表情のまま、小さな手でロカの服の背中を摘んでいる。「一緒に行こう。」とロカが促すと、微かに頷いた。ハンドレッドは二人を連れて中庭を出て行った。
石壁に丸く囲まれた建物の薄暗い階段を延々と登っていく。時々窓から光と風が射し込んでいる場所があり、背の高いロカの目を眩ませた。
「大丈夫か?」
遅れる兄妹に投げかけるハンドレッドの声は筒状の建物に響いた。
「すみません。」
ラナの手を取りながらロカはゆっくりゆっくり階段を登っていた。ラナは長いスカートの裾を一段上がる毎に踏んづけていたので、そのままでは日が暮れても上まで辿り着けそうには無かった。
ハンドレッドはため息をつく。
「日が沈んだって良いけど、」
そして兄妹のところまで階段を駆け下りて行った。
「私も他にやるべき事があるしな。あまり時間はかけられないんだ。」
ハンドレッドはロカとラナの間に割り込んで、ラナに背中を向けてしゃがみ込んだ。
「殿下...!?」
「何だ?早く乗れ。」
「そんな...出来ません...!」
ラナはか細い声を悲鳴のように高くして言った。
「王子が自らしているんだ。断られると格好がつかない。」
振り向いて言うハンドレッドに、ラナはロカと顔を見合わせて、震える手をハンドレッドの肩に乗せた。ハンドレッドはあまり気を使わずにスカートを手繰り寄せて足を抱えると、ちょっとした荷物でも背負うかのような身のこなしで階段を上って行った。
(...昔、ベアトール兄様が...。)
アルフレッドとマリージアが先へどんどん進んで行く。幼いハンドレッドが泣き出しそうになると、ベアトールが戻って来て背に乗せてくれた。そうして上に着いた時、ハンドレッドは三人の兄姉の仲に入れたような気がして、嬉しかったものだ。
「途中で僕も、代わりますよ。」
追い付いてきたロカが言った。
塔の階段を登りきった扉を開けると、洞窟が口を開いていた。ラナはロカの背から降りて、スカートを捲り上げて歩いた。
すぐに上へと石の段があり、眩い光の下に出た。
塔のてっぺんの屋根の上だった。塔の屋根は尖っている筈だが、自然の平さの地面があり、緑ある小さな庭になっていた。岩山を利用して建造された城の、最も高いところだった。
ロカとラナは身を寄せ合って、眺めのすべてを四つの眼に映していた。屋敷の建ち並ぶ城下町も、その外側に広がる貧民街も、西の森の先の港、南の街道の先のウィストリア、鉱山の山々、東の要塞フラネールも見えた。南オルミスの大半が眼下に収まる場所だった。
感動してロカが感想を言おうとハンドレッドを見ると、彼はこの眺めではなく庭に置かれた一つの像をじっと見つめていた。
「どうなさったのですか?」
「君はこの像を知っているか?」
それは少女の像だった。長い髪の広がる、ラナと変わらないような幼い面持ちで、しかしここから見えるすべてを包み込むように両手を広げている。
「知りません。これは誰の像ですか?」
「これは、おそらく...セレニアの像だ。」
「セレニア?」
(やはり、知らないか。)
ハンドレッドはがっかりした。同時に、自分がロカをソラミルの代わりにしようとしている事に気が付いた。同じ反応を期待して、彼が"精霊学"を知っているなどという事も期待していたのだった。
(彼は彼、ソラミルはソラミルだ。)
「この世界を創り、人の願いを叶える大精霊セレニアというものだ。」
像は"精霊学"の中に描かれていたものとそっくりだった。城内に像がありながら、何故誰も"精霊学"の事を知らないのだろう。
(私は...ソラミルともここへ来て、兄様たちともここへ来て、何故この像の事を今まで忘れていたのだろう。)
この庭は母、カルラ王妃のお気に入りだったのだと、背にしがみつくハンドレッドにベアトールは言った。それから何度も足を運んでいるはずなのに。
「ハンドレッド殿下は博識でいらっしゃるのですね。」
「そんな事はない。ただ、ちょうど調べ物をしているところなんだ。」
「先程も、やるべき事があると仰っていましたね。」
グラスゴート領で研究されていた"飛行機"を使ってファムリアへ行こうとしている...などと、マルメロ達に知られては厄介だ。ハンドレッドは誤魔化すつもりもあって、言った。
「"イグニーズ"という言葉の意味を調べている。オーネット領の異変に関係するかも知れなくて...。」
「"イグニーズ"?大嘘吐きのイグニーズの事ですか?」
と、ロカは言った。
「何だ?それは!」
思わぬ答えにハンドレッドは、ロカに迫った。城内に戻って誰に聞いてもわからなかった事だ。
「昔話ですよ。」
ロカはハンドレッドを石の椅子に座らせて落ち着かせると、話し始めた。
「お恥ずかしい事ですが、右ルペッサンの家系では、どの家が筆頭になるかを常に争って来ました。その時代、...その争いには王家も関与していました。玉座を争った双子の王子、サンドラゴン王子とベルトール王子の話です。」
「ああ...そんな事があったとは、聞いている。」
「ルペッサンの当主達は、どちらの王子が玉座を手にするかに命運を賭けました。ファムリアと戦ってオルミスの覇権を取り戻すべきと考えるサンドラゴン王子を後押しした家と、ファムリアと親睦を深め平和な世界を築こうとするベルトール王子を支持する家で派閥が出来ました。
サンドラゴン派の筆頭格にイグニーズという男がおりまして、彼はサンドラゴン王子の求める"ファムリアと同等の力"に当てがあると言いました。...実はその力を既にベルトール王子が手に入れかけていたのです。
サンドラゴン王子の前にイグニーズがやって来て、箱を差し出して言いました。
"この箱の中に力有り、箱は王家の宝剣で開く。"
しかし、言われた通りにして開けた箱の中身は空っぽで、サンドラゴン王子はイグニーズが騙したと言って大変に怒りました。
イグニーズは処刑されたか追放されたか、その一件で彼の家は落ちぶれたのです。
先に力を手にしたベルトール王子は兄のサンドラゴン王子を危険に思い二人で咎捨谷へ行くように差し向けて、そこでサンドラゴン王子を殺してしまったという結末です。サンドラゴン派のルペッサン家が負けベルトール派が勝ちました。
当時、ルペッサン家内では軍事力を推進するサンドラゴン派に対し穏健なベルトール派はだいぶ風向きが悪かったのですが、イグニーズの失敗のおかげで大逆転。我が家が筆頭に立つことになったという訳です。父はこの話が大好きなんですよ。イグニーズが愛したというレオドフックのクネ芋酒を好物にするくらいに。」
ハンドレッドは、マルメロを毛嫌いするほど悪く思ってはいなかったが、何とも趣味の悪い話だと思った。
ロカはハンドレッドの心情を読んだかのように、「父は...」と苦笑いをした。
「他人に嫌われても平気な人なので。」
「いや...。」
マルメロの事はどうでも良い。今の話はオーネット領の異変に関係があるのだろうか、ハンドレッドは考えていた。
「そのイグニーズは...恨まれただろうか、例えば...彼の家の者達とか。」
「それはそれは恨みを買ったでしょうね、処刑にしろ追放にしろ、ルペッサンの家名をも剥奪されているのですから。」
「追放されたとしてオーネット領に行った可能性は?」
「無きにしも非ず、です。南オルミスの故郷を思いオーネット領の近くにいるかも知れませんが...僕がルペッサン家を追放されたとしたら、いっそファムリアへ逃げますね。それかルワレーリオ諸島か...。」
「成る程な...。」
もしそれが"イグニーズ"ならば、どちらにしてもとうに死んだ人物をオーネット領の死者たちが口にする理由は何だろうか。
ハンドレッドは考え事をしたくなり、そろそろ下に降りようか、と言おうとした時、彼方から「ピーィ!」という甲高い鳴き声がした。
「まさか...。」
歩けるギリギリのところまで寄って、夕陽になりかける空にピークの姿を探した。
バサバサッという音がすぐ下から聞こえ、目の前に現れたピークは羽根を散らしてハンドレッドの肩に着地した。
「ピーク!」
ハンドレッドが尻餅をついたので、ロカが驚いて駆け寄った。
「大丈夫だ、私の友人だよ。」
「この鳥は...。」
ピークはロカが近付こうとすると、ピークは「ヒ、ヒ、ヒ、」と変な声で鳴き始めた。首を左右に回し、威嚇しているように見える。
「どうした?ピーク、彼も私の友人だ。ロカと言うんだよ。あと妹のラナ。」
「...。」
ピークの脚には紙が結ばれていた。カッツォの言っていた手紙だと、ハンドレッドは喜んでそれを外し折り畳まれている紙を丁寧に広げた。
「王子の御友人であれば、どこか家名のある方でしょうか?」
ロカはラナとハンドレッドの間に立って言った。
「旅先で私を助けてくれた。」
ハンドレッドはまた手紙を四つに折り畳んで懐にしまい込む。目に飛び込んだ文字、城下、犬、まだ何が書かれているかわかっていないが、早く読みたくてウズウズしてしまう。
「ロカ、ラナ。そろそろ下に降りよう。降りるのはとても簡単なんだ。」
屋敷に戻ったラナは、簡素な衣服に着替えてようやく「はぁ。」とため息をこぼした。
大変な一日だった、でも今日は素晴らしい体験をした。あの塔のてっぺんから見た景色、この国の遥かな眺め、なんて美しいのだろう。狭い壁の中で生きていると思っていたラナはあの時、心が震えて止まらなかった。その眺めは何故か懐かしくもあり、今も思い出すと涙が出そうになる。
洞窟の奥にあった箱が塔の下まで一気に連れて行ってくれたのも凄かった。上る時にもあれが使えたら良いのに。
ノックの音がして、ラナはハッと我に返り返事をした。
扉を開けた人物を見て一安心する。
「どうしたの、お兄ちゃん。」
それを聞いてロカはふっと笑った。
ラナが家にやって来た時、六、七歳の幼い彼女は泣いて泣いて、なかなか家に馴染まなかった。いつも彼女のたった一人の家族である兄を探して泣いていた。
父が必要としていたのは娘だった。その頃からラナと同じように喋るのもたどたどしかったハンドレッド王子を狙っていたのだと思うと、腹黒さにも先見の明があるようで見くびれない。
ラナの兄は、ラナ一人を貰い受けることを快諾したらしい。父が酒を飲みながら上機嫌で話していた内容によれば、金をやって城内の孤児院からも追い出したようだ。王子の元へ嫁ぐことになれば、どうせ孤児ならば出自のわからない方が話が易い。
こんなに兄を求めている妹を、金で売るなんてーーロカは見た事もないその兄が嫌いだった。
"「兄ならいるぞ、ラナ。」"
遠目から見ていたロカに、父が彼女の面倒を見ろ、と言った。ロカは優しくしてやった。いつも手を繋いで連れて歩いた。屋敷の庭で遊んだり、寝る前に本を読んでやったり。次第にロカに慣れたラナは父や母にも懐いた。
今はロカを本当の兄だと思っているようだ。記憶の中にあった兄の記憶は全てロカに投影されている。
「父さんは上機嫌だ。ラナが上手に出来たからだよ。」
ロカはベッドに座っているラナの隣に行って、子どもを褒めるように頭を撫でた。
「私...ハンドレッド王子様と婚約出来た?」
「今日はまだそこまでじゃないよ。」
ハンドレッド王子がラナを気にした風なのはロカにとって意外だった。挨拶も出来ない庶民の抜けきらないラナを王家が目に留める筈がない。そう思ってラナをまともに育てなかったのに、ロカの計画は大幅に狂った。
(あの手紙を運んで来た鳥...ハンドレッド王子の友人はまさか、カッツォ・エサム...?)
「私、お兄ちゃんと離れたくない...でもお父様が怒るよね?」
「大丈夫だよ。僕が絶対にラナを城にやったりなんかするもんか。」
ロカはラナを抱き寄せて、じっと考え込んでいた。




