第1章 忘れられた存在 8
報せを受けたイリウスは、執政官の部屋へ向かった。ようやく日常的な仕事に戻り、イリウスはほっとする。次から次へとこの数日は変わったことが起きるので、自分の中で不安の波が大きくなっているのを感じていた。これまでは何が起きてもアルフレッド王子が即座に解決した。決断力と牽引力のあるアルフレッド王子は国民の人気も高く、騎士たちの忠義も厚い。
美しく優しく、強さをも秘めるマリージア王女は王妃を喪った国民の支えである。
明るく朗らかなベアトール王子は南オルミスの女性の憧れであり、垣根の無い接しやすさは兵士たちの人望も集める。
一人、まだ幼いハンドレッド王子はアルフレッド王子の幼少期にそっくりで、皆に期待されている。
何よりも現王子、王女たちの結束が固いのが特徴だ。かつては兄弟間で暗殺や追放まで起こったという南オルミスは国土が荒れすさんだ日もあったと言われているが、今は端々まで目が行き届いており、史上最も繁栄するだろうとされている。
(そうだ、不安に思うことなんてない。)
ついにファムリアとに戦争が起きる訳でもない。
オーネット領の異変にはアルフレッド王子が、海から来たファムリアの使者にはベアトール王子が、城下外で起きた百人昏倒事件はマリージア王女が、すべて事態は把握され解決に向かっている。
イリウスが棟を移ろうとする時、玉座へと続く紅い絨毯が目に止まった。
どんなに良い時代にも、歪みはある。
「サルキニス、海賊どもの始末はどうなっている?」
レニサス王は玉座にいた。栗毛色の髪は緩やかな波で肩に落ち、臙脂色の服の上の黒いマントに流れている。皺の刻まれた顔ながら背筋が伸びて大袈裟に胸を張っている姿勢は老いに似つかわしくない様で、発せられる声もそうだった。なのに大きく開かれない瞼の中で薄い茶の瞳はどこも見ておらず、心もここにないように感じられる。
荘厳な作りの間だった。白い柱に赤い布が掛けられた、北にあった時から続くオルミスの伝統の様式である。
マリウスは答えた。
「首領は縛り首、後は牢屋の中です。」
その言葉に王は満足そうに頷いた。
「潰しても潰しても湧いて出てくる虫どもめ。今度こそ根を絶ったろうな。」
「エスト・レニサスに刃向かう者はもうおりません。」
「カルラの容態はどうだ。もうじき産まれるのに触りは無いか?」
「順調でございますよ。先日、グラスゴートに書簡を返したばかりではありませんか。」
とマリウスが笑うと、レニサス王も頬を緩めて笑った。
「赤ん坊が待ち遠しくてな。上の三人はもう手のかかる事がない。」
「ご兄弟仲が良く羨ましい事です。うちのマリウスなど、産まれたばかりのダリウスに興味も示しません。」
マリウスは大げさにため息をつく。本当にため息もつきたい気持ちだった。自分の事を他人の様に話すなんて滑稽極まりない。だが彼は今マリウスでは無く、三兄弟の父のサルキニス・ドーデミリオンを演じなければならなかった。この会話劇は、特に海賊の処分から始まるこの場面をなぞるのはもう何百回になる事か。
「では私はこれにて。」
「待てサルキニス。」
びくりとマリウスは歩を止めた。王の側にいる近衛隊長ラルハイン・ルペッサンのいつも変えない毅然とした表情にも、若干の焦りが見られた。
「最近、身体が重い。私も歳だ、用心したい。」
「...承知致しました。医者を呼びましょう。」
マリウスがラルハインを見ると、彼は口元を締めたまま微かに頷いた。
(...焦ったな。台本以外の事をお話になるとは。)
マリウスは玉座の間から出て、ようやく身体の底から大きなため息を吐いた。
(さて、医者は誰を呼ぶべきかな。せっかく血縁になったオーネットを失ったイシュハーム家を取り立てておく方が良いか...しかし長年王室仕えのチルキア家を蔑ろには出来ない。)
悩みながら歩いて行くと、イリウスが立っていた。
「どうしたんだ?こちらを見て。」
「ううん、別に。フェルネェル殿の所へ向かっていたんだ。」
「フェルネェル殿はマルメロ殿とお話し中だ。...そうあからさまに嫌な顔をするんじゃない。」
「どうせまた、親戚の誰かをご結婚相手にというんだろ。ベアトール様もマリージア様も嫌がっておられるのに。」
「フェルネェル殿とラルハイン殿は王家と繋がりのある左ルペッサンの家系だが、マルメロ殿は右ルペッサンの筆頭。現状、血を結ぶのが可能なのは彼の家だけだからな。」
「恥も外聞もなくガツガツしていて嫌なんだ、マルメロ殿は。」
「...しっ。そういうことを公に言うんじゃない。上の三殿下ともご結婚なさるには良い加減のお歳だ。本当を言えばアルフレッド殿には早く御即位していただきたいのに...。」
「しー!兄さんこそ、そんな事を言っちゃダメだろ。殿下方が結婚なさらないのはハンドレッド様の為なんだから。」
「そんな事はわかってる。ほら、こんな立ち話をしていないでフェルネェル殿にご用事があるなら早く行った方がいいんじゃないのか?」
「急ぎではないんだ。大丈夫だよ。マリーゼで申し立てのあった裁判の結果が報告されただけだから。」
中庭に剣の打ち合う音が、始まってから既にニ時にもなろうとしていた。マリージアのこめかみを汗が流れる。それよりもずっと汗だくになっているハンドレッドの息はもう少しで上がりそうだった。
「当たりの瞬間だけ力を込めなさい。いつも全力で振るい続けているから疲れるの。」
膝を折りながらも向かって来る長剣がいつもより激しく重い。普段は全て受け流していたマリージアの細い剣が何度か打ち負けている。だがハンドレッドは彼女が剣を飛ばされそうなのを堪えるのに両手を使っている事に気付いていなかった。マリージアの剣だけを狙って、剣に合わせて動いていた。
「相手の顔を見て。考えを読むのよ。」
ハンドレッドは目にしみる汗を拭い、熱く乾いた息に苦さを感じながら言った。
「...初めて、殺すべき相手に剣を振るいました。私の剣は...敵わなかった、」
ハンドレッドは稽古の経験しかない、しかも兄姉を相手に負けるのが当たり前の稽古ばかりしていたので、今まではマリージアが受け流しやすいように剣を打ち込んでいたのだろう。実戦に様式などない。
(ベアトールに負けた日を思い出すわ。)
マリージアには実戦経験がない。レッグに教わった騎士の流儀、剣の形が全てだ。
「貴方も死者たちと闘ったのね。勇敢だわ、ハンドレッド。」
ーーそうだ。敵は地面から這い上がり、右からも左からも襲い来る。
骸骨は剣を持っていたわけでも無かった。
(武器では無く、体の動きを封じる...。)
カラカラと音を立てて、マリージアの細剣がモザイクの地面に転がった。体勢を崩し転びそうになるマリージアの肩を若い青年が支えていた。
「素晴らしい!」
丸顔にずんぐりな身体つきのマルメロ・ルペッサンは、非常に上機嫌で分厚い両手のひらをばちばちと叩きあわせた。
「ご無礼を、マリージア殿下。」
ハンドレッドよりも年上の様子の青年は、丁寧にお辞儀をすると彼女から離れた。金髪に青い眼の眉目秀麗な青年だった。落ち着いた雰囲気がどこかソラミル・オーネットを想わせる。
「ハンドレッド殿下もいつの間にかすっかり成長なされた、という訳ですな。これは頼もしい。」
満面の笑みでマルメロが二人に近づいて来ようとするのを、フェルネェルが厳しく睨みつけている。
「息子のロカです。」
マルメロが言うと、金髪の青年がもう一度姿勢を正して頭を下げた。まったく父親と違うのに、目鼻立ちが確かに血の繋がりを証明している。
「本日はご挨拶に伺いました。」
「ハンドレッドと良い友人になれると思うわ。ね。」
マリージアがすかさずハンドレッドに微笑みかける。マルメロ・ルペッサンの魂胆が、王家と血縁関係を結びたがっている事など分かりきっていた。
「是非、剣の稽古をつけてやって下さい。ハンドレッド殿下。」
ロカと目があったハンドレッドは、汗が流れ続ける顔を恥ずかしく思い、腕で拭った。
「しかし今日、ご挨拶に伺いましたのは...これ、こちらへ来なさい。」
マルメロが呼ぶと、花木に隠れていた道の向こうから少女が遠慮がちに現れた。粧し込んでいるが表情から本人の乗り気でないことが伺い知れる。金髪に茶色の眼、ロカのように真っ白な肌の色ではない。絶対に醜くは無いが、美しいと形容するのも似つかわしくは無かった。地味だが幼さが残る可愛らしい顔をしている。
「どうしたの。女性をそんなに見つめるのは良いことでは無いわ。」
マリージアに言われ、ハンドレッドはハッとした。少女は顔を赤くして目を背ける。
「いえいえ、ご興味を持っていただけるとはこの上なき幸せ。」
マルメロは言った。
ハンドレッドは彼女とどこかで会った事があるような気がしていた。
「養女のラナです。」
促され、ラナは不器用にお辞儀をする。
「ちょうどハンドレッド殿下の御歳と同じ十四歳。如何ですかな、是非お近付きに...。」
「すみません。妹は、人見知りが激しくて。王子の前で緊張しているのです。」
ロカはラナの側に行って、後ろ手に手を繋いでやった。
「...。」
マリージアはその様子を訝しげに見つめていた。




