16 廻り海の魔法
『くくく...』
うとうとするドラギエルの頭の中に声がした。
夢の中の海に細い板切れが浮かんでいる。甲板員の男が斃れている。
彼の上に、幼い姿の割には大き過ぎる、人間ならざる目をジィッとこちらの方に向けている少女が乗っかっていた。瞳の無いのは港で見た像のようだった。
(あ、蛙にも似ている。)
そう思うと水のような半透明の身体がぬめりにも見えた。太陽がなくとも薄ぼんやりと光を発していた。
『お前を食ってやる。』
と、恐ろしい言葉を伝えてくる。
森で腹を減らした熊や、滅多に会わない虎に出くわした時のようにドラギエルを萎縮させた。
『ちっ...コカトの加護か。気に食わぬ。』
(やはり精霊なんだろうか。)
(何故人の姿をしているんだろうか。)
(海の王?)
(あれは何をしているんだろうか。)
ドラギエルの中に疑問が溢れる。
少女は応えた。
『妾はタタディア。長年好物の人の生気を吸い人に寄った、純然なる精霊よ。融合物などと間違えるなよ。』
(タタディア?)
『セレニアの加護の外に捨てられた生命なら食っても怒られまい?何、暫くすれば帰してやるとも。もう二、三は食いたいがのう。』
(帰れないのはこいつの所為?)
『この船は廻り海の魔法の虜。曇り空の次は延々に続く満天の星空などはどうじゃ?』
ハッと目を覚ましたドラギエルはがば、と体を起こす。
頭を上のベッドにぶつけ、些か痛みに悶えつつも目を開けると大部屋の中には何者もいなかった。上にいるナバルが起きたようでドラギエルを覗き込んだ。
「何かあった?」
「...何も。」
ナバルが起きるというので、ドラギエルも一緒に大部屋を出た。
隅のベッドの上の段で布団に包まっているのがカラットだと思ったが、何と言ったらいいかわからなかったので声をかけられなかった。
「ありがとな。」
ナバルは言った。
何もしていない。とドラギエルが言う前にナバルは続ける。
「あたしはずっと船に乗るのが夢だったんだ。港町に生まれて港町で育ったから。他の女みたいに男をもてなすだけの仕事って馬鹿にしていたんだよな。」
返事はいらないようだった。
ただ、ゆっくり話したので聞かなければならないとドラギエルは思った。
「働く年頃になっても船に乗せてもらえなくてずっと不満だったんだ。女を差別しちゃいけない規則だろ。
諦められなくてわざと口を悪くして、男の服を着て振舞いも男らしくした。皆が女だと見なきゃいいだろと思って。
エスラ船長夫人が声をかけてくれた時は本当に嬉しかったな。嘘だったけど、女船長なんていたんだって、憧れた。
でもわかったよ、何で今までの船長が頑なに女を乗せなかったか。乗組員とあたしと、どちらの為にもならないって事なんだな」
被害者であるナバルが、何故そういう風に言うのだろうとドラギエルは不思議に思った。
陸に着いたら船を降りるよ、と寂しそうな顔をしてナバルは言った。
「それにしてもこの船、何でいつまでたっても着かないんだろうな。あの船長...。」
ナバルは声を潜めて、ドラギエルに屈むよう手招きした。
「城下町の商人なんだろ?副船長もあの人に落とされたんじゃないだろうな。」
いや、忘れてくれ。と、ナバルは言う。
「廻り海の魔法...。」
ふと先程の夢を思い出しドラギエルは言った。
「何?」
「あ、いや...。」
ドラギエルはナバルに夢で見た話をした。副船長が落ちた日にもタタディアという精霊を見た事も。
馬鹿にされるだろうか、とドラギエルは思ったが黙って聞いていたナバルは真剣な目をしてドラギエルを見上げ、
「あたしの家に変な古い本があんだ。」
と言った。
「赤い表紙の本で、中はアルソリオの町や宮殿の事が書いてあるんだよ。子どものヘッタクソな字と絵でさ。
宮殿の中に'いくら歩いても同じ廊下が延々と続く'って場所があって、大人の字で書き足されていたんだ。
'廻り廊下の魔法'って。」
「じゃあ本当にそういう魔法は..あるんだ。」
「確かにそうでもなきゃおかしいよな、外は天気で太陽も星も見える。羅針盤だってあるのに島さえ見えてこないなんて。」
「じゃあ...精霊を捕まえないと俺たちは、海を彷徨うまま...。」
「もう二、三の生命って言ったんだよな。そんなもんくれてやるもんか。船長に言おう、皆で船中を探すんだ。」
「今の話は本当かね。」
後ろから声がしたので、二人は飛び上がった。
振り返ると、ドラギエルの知らない初老の男とアキリが立っていた。
「コートナー料理長...!」
ナバルはたじろいで一歩下がり、頭を下げた。
「つまり二、三の生贄を出せばこの船は謎
の海域を抜け出せるって事だなァ。」
「なっ...何を考えているんだあんた!」
へらへらと笑いながら言うアキリに、ナバルは拳を震わせた。
「しかし精霊を探したところでどうなるというんだ。我々には精霊を捕まえる手立てなどない。」
白い髪に白い眉の男はしゃがれ声で穏やかに諭すようにナバルに言った。
「そうですが...。」
「三人死んで他全員が助かるのなら安い取引だ。」
「料理長までそんなこと!」
「私はね、昔、二十六人の仲間を失った事があるんだ。北の防壁の争いでね。」
と、コートナーは白い眉の下の円らな目を細める。
「問題は誰を選ぶかだなァ。」
ナバルが睨みつけるのも知らん顔で、アキリは飄々と言った。
「私で一人。後は歳の順が良いだろうな。」
「ちょっと待って下さい料理長。必要な人材が抜けていってどうするってもんですよ。いるじゃァないですか、この船には追い出しても良い役立たずが。」
「役立たず?」
「仕事をしていない奴。船を降りると決まってる奴。カラット・ローレウスとナバル・パームシュカ。」
アキリは声の調子は軽かったが、顔は大真面目だった。
「あんた仮にも仕事仲間を...!」
「勝手にいなくなって俺は一人で大変な思いさァ。名前を知らない奴なら死んで良いって方が不公平だァ。」
「それなら三人目はエスラ・サキタラス夫人で良いんだな?」
階段を降りながらそう言ったのは、ヘイスだった。いつから聞いていたのか、ドラギエルはまったく気づいていなかった。
「今、この船で仕事をしていないのはカラットとそこの女と、船長夫人だ。」
「...それを言われちゃなァ。」
アキリの表情を見ると、ヘイスが彼の嫌がる事を言ったというのはドラギエルにもわかる。
「俺を生贄の一人にすればいい。後は公平にクジでも引くんだな。」
ふん、とヘイスはため息をつく。
「若者がそんなこと言うもんじゃない。」
とコートナーが言った。しかしヘイスは振り返り、彼の目を真っ直ぐ見返して言った。
「じいさん、俺の名はヘイス・カフェトーだ。」
カフェトー、という名前を聞いた時、コートナーの顔つきが変わったのをドラギエルは見た。
「一族の代わりに罰を受けてやるよ。」
「何を騒いでいる?」
グィオ機関長までやって来て、いよいよ大部屋の前は小狭くなった。
アキリが説明すると、グィオは話を聞いて大変驚いていた。
「じゃあ後三人食われなければ、この船は彷徨うままだと言うのか!」
グィオは憔悴した。
「それで誰を生贄にするかって?何て馬鹿げた話し合いだ。オーネット船長の耳に入ったら全員説教だろうな。」
と、呆れてため息をつく。
「まず皆、持ち場に戻りなさい。コートナー料理長、あなたまで何ですか。とにかく原因がわかったのだから事態は好転しますよ。飯を食い、気を落ち着かせれば。」




