12 一人目
夜明け前の事だった。
グィオ機関長が上へ戻った後、甲板が騒がしくなり、どたばたと走り回る音と怒号が聞こえた。
「回転翼を回せ!急げ!回せぇ!」
只ならぬ叫び方だったので、ドラギエルたちは慌てて仕事を始めた。
だが少しすると、
「違う違う!帆をたため、碇を下ろすんだ!」
と言うので巻上げ機の方へ行く。
一体どうしたのだろうと不安に思いながら、言われた通りの仕事をした。
(グィオ機関長が慌てるなんて余程のことに違いない。)
ドラギエルは緊張して胸がバクバクいった。
碇が沈み、船が流されきって止まると、オーネット船長とエスラ夫人がやって来た。
「ロベリタス副船長を見なかったか?」
ドラギエルたちは首を振る。
「どうなさったんです。」
ワイロフが聞いた。
「船のどこにも姿が見えぬ。しかもいつからいなかったのかわからない。」
曇り顏のエスラは、そう言って首を振る。
「おかげで船は随分と流されてしまった。落ち着いたら西へ戻ろう。」
「そういえばドラギエル、君は昨夜何か言っていなかったか?」
グィオが言ったので、ドラギエルはすっかり忘れていた事を思い出した。
「はい、機関長、...あの、何か水音のようなものが。」
悲鳴は聞き違いのような気がしたのと、何だか恐ろしいと思ったので黙っておく事にした。
「いつ頃だ?」
「はい、船長。えっと...。」
ドラギエルはワイロフを見た。ワイロフは首を振る。
「二時を超えた頃でしょう。時計を見て降りて来たので。」
グィオが答えた。
「君たち三人が起きていたのか。他の者は寝ていた?なぜ出航したばかりだというのに見張りといい、夜番がほとんど寝てしまっているんだ。」
そう訊かれても、ドラギエルにはわからない。
「水音...まさか。長く船に従事したロベリタスが...?」
オーネットは真っ青な顔で唸った。
「とにかく航路を戻す。操舵も正確には出来まい。無闇矢鱈に流されるよりルワリ島に帰港するのが一番良い。」
「東へ針路を向けていたはずですから、とにかく北へ向かえば東の先にでも着きませんか。」
グィオが言う。
「もし、今いるのが大陸の端より東だったら南の海か北の海かもわからず漂流する羽目になる。そうなったらお手上げだ。」
「そうですね。」
「【右腕号】と【左腕号】もこちらを捜しているだろう。食料は多めにある...幸い、何時も何日も流され続けたわけではない。大丈夫だ。」
オーネットは自分に言い聞かせるように言う。
「今一度、ロベリタスを探してくる。」
ちょうど当番が終わる時間だったので、ドラギエルは甲板に上がった。
ドラギエルは恐る恐る船の縁に寄ってみた。下の海を覗き込むと、海の表面は絶えず揺れ動き、(あんなところに落ちたらあっという間に飲み込まれてしまう。)とドラギエルは慄いた。
ロベリタス副船長が助けを求めていやしないか、と思って注視するのだが、同じような波間の連続で目眩を起こしかける。
船がドラギエルの方に傾くと、それだけで落っこちてしまいそうだった。
「待機か、ドラギエル。」
声をかけられて心臓が飛び出そうな程驚いたドラギエルの服を、ヘイスが慌てて掴んだ。
「落っこちるぞ。副船長みたいにな。」
「やっぱり落ちたのかな...。」
ドラギエルは海に入ったことが無いが、川に落ちて流されかけた事はあった。泳いでも泳いでも掴む枝もなく、というのはどれほどの苦しみだろうと思い身震いする。
「ヘイスは?」
「俺は見張りになったんだ。見張りならつまらない作業もしなくて良いし。」
ドラギエルは上を見上げた。沢山のロープが張られた帆柱にある見張り台、あんな高いところで揺られるなんてとても恐ろしい事だ。
(...見張り台にいる人間を見張るのは容易いしな。)とヘイスは心の中で付け加える。オーネットの奥深部ではヘイスを完全に信用してなどいないのだ。
それで良いとヘイスは思っていた。奥方を連れて乗り込んでいるような甘い男が、しかも簡単に人を信用する商人の船長など先行き不安でしか無いからだ。
しかし、ヘイスを見張る予定だったろうロベリタス副船長が行方不明になったとなれば、この先どうなるのだろうか。何かが起きた夜の時間帯、大人しく大部屋に入っていたのは運が良かった。もし見張りの当番の時間にそれが起こっていたならば、または所在明らかでなかったならば、オーネットはこの件でヘイスを疑っていただろう。
「俺はやりたい事も無いが、やりたく無いと思う事は多い。」
海を見ながらヘイスは言った。彼が自分の事を話すのは珍しいとドラギエルは思った。
「お前は使いやすそうだから斡旋所で声をかけたんだ。あまり騙されるなよ。」
そう言って、見張り台の方へ行ってしまった。
軽やかな身のこなしで簡単にロープを登っていくのが見えた。
(ヘイスは船に乗っていた事があるのかな...。)
ドラギエルは大部屋に行った。甲板にいるとどちらを見ても青い海ばかりの中で、右にも左にも当てがないという現状をやはり恐ろしく感じていたのだった。
大部屋の空いているベッドに身を潜らせる。
騒ぎで緊張していたので身体は疲れていた。目を閉じれば内臓が船の揺れをやたらと大きく感じる。
(大きな波が来ているのでは無いか。)
横倒しになったりしたら、船から落ちてしまったりしたら、恐ろしい、恐ろしいなーーー。
そんな事を考えながら、ドラギエルの身体は上を向いたままぐるぐる回っているように感じられた。
(早く元の場所に戻れたらいいな...。)
『ううーん、美味なるかな。』
微睡む頭の中におかしな言葉が浮かんだ。
『生気を絞り切った死ぬ間際に最後に残っているかけがえのない一雫、生命こそ至高。』
その感覚はコカトの森で、精霊コカトに話しかけられているとされるものとよく似ていた。
(海の王...?)
『早く次のが来んかのう。』
がば、とドラギエルは体を起こす。
頭を上のベッドにぶつけ、些か痛みに悶えつつも目を開けると、暗い船内にキラキラした光の粒のようなものを残しながら、舳先にいた少女が壁をすり抜けて行った。




